第二章 第二節「玉座の前で」
迎えの艶やかな黒い漆塗りの馬車が、皇宮の正面へ到着した。
扉に留められた金箔張りの双頭の鷲が、陽光を受けて輝いている。
帝都アドラーホルストの中心に、エルディア皇宮は威容を誇っていた。
淡い象牙色の石材で築かれた四階建ての宮殿は、広大な石畳の広場を取り囲むように、左右へ長く翼を広げている。壁面には同じ間隔で縦長の窓が整然と並び、窓枠を飾る彫刻や、屋上を縁取る石造りの欄干が、壮麗な建物に厳格な秩序を与えていた。
正面中央には、巨大な凱旋門を思わせる玄関棟が前方へせり出している。太い円柱に支えられた大門の上には、歴代皇帝の治世を讃える浮き彫りとともに、彼ら一人ひとりを象徴する、翼を広げた金箔張りの鷲像が幾重にも並べられていた。そのさらに上から、青銅色の大円蓋が帝都を見下ろしている。円蓋の頂には、エルディア帝国そのものを象徴する巨大な双頭の鷲が掲げられていた。全身を覆う金箔が陽光を受けるたび、双頭の鷲は、遠く離れた市街からも望めるほど眩い輝きを放っている。
優美さを競うための宮殿ではない。均整の取れた窓、直線的に延びる外壁、そしてすべてを圧する巨大な円蓋。その姿は、規律と秩序を何よりも重んじるエルディア帝国そのものだった。
正門前には皇帝の近衛兵が微動だにせず立ち、広場を行き交う者は誰もが、おのずと声を潜めた。ここから発せられる命令一つ、署名一つが、帝国に生きる無数の人間の運命を左右する。
「お待ちしておりました。侍従長官のオスカー・クラインでございます」
エカテリーナは、差し出された顔を見て一瞬たじろいだ。
片方は鳶色、もう片方は緑色。左右で色の違う瞳が、じっと彼女を見つめている。濃茶色の髪に鷲鼻。その口元に浮かぶ含み笑いが、妙に気にかかった。
「どうぞ、こちらへ」
エカテリーナは軽くうなずき、背を正す。オスカー・クラインの案内に従い、長い回廊を進んだ。
片側には背の高い窓が等間隔に並び、差し込む陽光が絨毯の上に白い光の帯を落としていた。反対側の壁には、金箔を惜しみなく施した額縁に、歴代皇帝や戦場の英雄たちの肖像画が飾られている。窓と窓の間には繊細な彫刻を施した飾り棚や暖炉が設けられ、その上では燭台や陶磁器が静かな輝きを放っていた。
見上げれば、緩やかな曲面を描く高い天井いっぱいに、神々と天使、帝国の勝利を描いた色鮮やかなフレスコ画が広がっている。その下では、無数の水晶を連ねた巨大なシャンデリアが一定の間隔で吊り下げられ、わずかな風を受けるたび、水晶の雫が触れ合う澄んだ音を響かせた。
豪華絢爛でありながら、どこか息苦しいほどの静寂に支配された回廊だった。深紅の絨毯が足音を呑み込み、広い廊下にエカテリーナとナターシャを筆頭とした三人の侍女、そして国書を手にした、書記官長オリガ・ユスポワの衣擦れの音だけが響く。
先導する侍従長官オスカー・クラインや近衛兵の姿さえ、この宮殿を形づくる装飾の一部であるかのように見えた。
しばらく歩くと、長い回廊の最奥には、謁見の間へ通じる巨大な両開きの扉がそびえていた。
高さは六・五メートル、左右を合わせた幅は四・五メートルにも及ぶ。
厚い青銅で造られた扉の表面は隅々まで金箔で覆われ、上端は大きな半円形の弧を描いていた。左右の扉には、陽光を思わせる円形の紋章と、蔓草や月桂樹を絡めた精緻な浮き彫りが、左右対称に施されている。その中央には、王冠を戴き、二つの首を左右へ向けたエルディア帝国の双頭の鷲が刻まれていた。
誰かが合図したようには見えなかったが、その巨大な扉が音もなく左右へ開かれる。
その先には、奥行き四十メートル、幅二十メートルにも及ぶ謁見の間が広がっていた。床から天井までの高さは十四メートルであった。
広間の壁は深紅の織物で覆われ、天井近くを巡る金箔張りの装飾帯と、いたるところに施された金箔の彫刻が、重厚な輝きを放っている。磨き上げられた寄木細工の床には、入口から玉座まで深紅の絨毯がまっすぐに延び、その両側には臣下や使節が控えるための空間が設けられていた。その距離は、訪れた者に皇帝の前へ進む一歩一歩を否応なく意識させる。
高い天井からは、無数の水晶を連ねた巨大なシャンデリアが吊り下げられていた。幾重にも並ぶ蝋燭の光が水晶の雫に反射し、室内を満たす黄金の装飾を、燃え上がる炎のように煌めかせている。
華麗ではあるが、訪れた者を歓迎するための部屋ではない。玉座へ至るまでの長い絨毯も、頭上から降り注ぐ眩い光も、すべては皇帝ただ一人へ視線を導き、威圧するために存在していた。
エカテリーナが玉座の近くまで進むと、扉の前に立つ近衛兵がその巨大な扉を閉める。
音もなく閉まった。
近衛兵の背丈でさえ扉の半ばにも届かず、金箔張りの壁を見上げているかのように小さく見える。
広間は息遣いさえ憚られるほどの静寂に包まれた。
エカテリーナが背筋を伸ばす。
いつの間にか、ナターシャとほかの二人の侍女は入口付近の侍女控えに控えていた。エカテリーナの後ろには、国書を手にした、書記官長オリガ・ユスポワとほかの四名の一等書記官が続く。
「ヴァレンティア王国特命全権大使、エカテリーナ・ヴォルコフ公爵令嬢閣下」
その声は、広大な謁見の間に響き渡った。
玉座の近くまで先導した侍従長官オスカー・クラインがそう宣言し、壁近くに控える。
広間の最奥には、金箔を施した低い壇が設けられていた。精緻な蔓草模様と、金箔張りの翼を広げた鷲の彫刻に囲まれた壇上には、深紅のベルベットを張った皇帝の玉座が置かれている。その背後を覆うのも、天井近くから幾重にも垂れ下がる深紅のベルベットの天蓋だった。厚い布は左右へ大きくたくし上げられ、その中央には、エルディア帝国を象徴する金箔張りの双頭の鷲が掲げられていた。
その中央の玉座に座っているのが、エルディア帝国皇帝カール・エルディアである。
年齢は五十歳であった。額は広く、生え際はわずかに後退していたが、淡い金色の髪は一筋の乱れもなく後ろへ撫でつけられている。同じ色の左右へ伸びる口髭と、顎を覆う髭は端正に整えられていた。
青色の瞳は穏やかに見えながら、その奥には、相手の言葉だけでなく胸中の思惑まで見通そうとする鋭さが潜んでいる。鼻梁は高くまっすぐで、固く結ばれた唇と引き締まった顎が、長年にわたり帝国を統べてきた君主の強固な意志を物語っていた。
身に纏うのは、濃紺のエルディア帝国軍礼装だった。高い立ち襟と袖口には金糸による緻密な刺繍が施され、両肩を覆う金色の肩章からは、太い房飾りが幾重にも垂れている。肩から胸へ淡青色の綬帯が斜めに掛けられ、その胸元には大小さまざまな帝国勲章や星章が並び、その一つひとつが、彼の治世で成し遂げられた勝利と功績を示していた。赤い側章の入ったズボンの両膝の間で、鞘に収めた儀礼用の軍刀を杖のように突き、その金細工の施された柄頭に両手を重ねていた。足元には黒いエナメルの礼装靴が見えた。
威圧するような大声も、大仰な身振りも必要なかった。ただ背筋を伸ばしてそこにいるだけで、広間にいる者すべてを沈黙させるだけの力があった。
カールは、武力だけで帝国を従えてきた皇帝ではない。人の能力と弱点を見抜き、使うべき者には身分を問わず機会を与える一方、期待に応えられぬ者は、たとえ実の息子であろうと容赦なく切り捨てる。
その冷静な眼差しが、いま、玉座の前に立つエカテリーナへ向けられていた。
金箔を施した壇の下、玉座に向かって右手には、皇太子テオドール・エルディアが立っている。
二十六歳になるテオドールは、父帝と弟レオポルトの面影を等しく受け継いだ、端整な顔立ちをしていた。髪はレオポルトと同じ金色だったが、肌は透けるように白く、身体つきも弟より細い。青い瞳がかすかに弱々しく見えた。
その隣には、レオポルトが立っていた。
二人も濃紺のエルディア帝国軍礼装を纏っている。ただし、肩章や胸元の勲章は、それぞれの地位に応じて皇帝よりも控えめだった。赤い側章の入ったズボンの腰には、金細工を施した儀礼用の軍刀を佩いている。
エカテリーナと視線が重なると、レオポルトは、父帝に気づかれぬほどわずかにうなずいた。
それだけで、エカテリーナの緊張が少し和らぐ。
彼女は一歩進み、完璧な礼を取った。
「ヴァレンティア国王の名代として、エルディア皇帝陛下に謹んでご挨拶申し上げます。このたび両国の友誼と交易発展のため微力を尽くす機会を賜りましたこと、まことに光栄の至りにございます」
書記官長オリガ・ユスポワが国書を侍従長官オスカー・クラインへ渡す。
皇帝は受け取った国書へ目を通すと、それを傍らの台へ置いた。
「面を上げよ、ヴォルコフ大使」
「はい、陛下」
エカテリーナは緊張した面持ちのままゆっくりと顔を上げた。
皇帝は彼女の美貌にも、胸元を飾る《嘆きの女王》にも触れなかった。
まして、ヴァレンティア王太子との婚約を解消した事情など、尋ねようともしない。
「ヴァレンティアは、我が帝国との交易拡大を望んでいるそうだな」
「左様でございます」
「では、余に説明してみよ」
皇帝の声が、謁見の間に低く響く。その低い声が、静まり返った広間をまっすぐに貫いた。
「それによって、帝国は何を得る?」
皇帝が畳みかける。
儀礼的な挨拶だけで終えるつもりはないらしい。
――これは謁見ではない。試されているのだ。エカテリーナはそう悟った。
エカテリーナは表情を変えず、事前に用意していた回答を頭の中から捨てた。
「わが国の産物が帝国で売れるようになれば、ヴァレンティアは豊かになります――そのように申し上げたところで、陛下をお納得させることはできないでございましょう」
居並ぶ宮廷人たちの間に、小さなどよめきが起きた。
外国の大使が皇帝を前に、あまりに率直な言葉を口にしたからだ。
皇帝の眉が、わずかに動いた。
「続けよ」
「帝国北部の領地では、冬ともなれば積雪によって主要な街道が閉ざされると心得ております。昨年は凶作も重なり、春を待たずして穀物の価格が平年の二倍近くまで高騰した地域もございました」
「よく調べておる」
皇帝は微動だにしない。
「ヴァレンティア王国は北海に面した港と、不凍港へ通じる街道を有しております。わが国の港と帝国北部を新たな交易路で結べば、南部から届く穀物だけに頼る必要はなくなります」
「帝国には穀倉地帯がある。食料を外国へ頼る必要はない」
皇帝は考える暇を与えない。
「平年であれば、そのとおりでございます」
エカテリーナは、皇帝の視線を正面から受け止めた。
「しかし、帝国は広大でございます。南部に十分な穀物があっても、北部へ届かなければ、そこに暮らす民にとっては存在しないことと同じでございます」
謁見の間が静まり返った。
「わが国の港から帝国北部へ至る交易路があれば、凶作や災害によって国内の輸送が滞ったときにも、別の経路から食料を運ぶことができます。また、ヴァレンティアも帝国の穀物や鉄を安定して得られます」
「つまり、帝国の弱みにつけ込んで、ヴァレンティアの利益を得ようというのだな」
皇帝の口元に、含みのある笑みが浮かんだ。
「いいえ、陛下」
エカテリーナは即座に否定した。
「一方の弱みにつけ込む関係は、長く続きません。どちらか一方が救われるための協定ではなく、両国の民を飢えさせないための協定を結びたいと考えております」
皇帝は何も答えなかった。
鋭い青色の瞳が、エカテリーナの表情を探るように見つめている。
長い沈黙だった。
やがて皇帝は、わずかに顎を引いた。
「口だけの大使ではないらしい」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
皇帝の試験は、まだ終わっていません。




