第二章 第一節「帝都への帰還」
十二日に及ぶ旅の果てに、ようやく青く澄んだ空が戻った。
艶やかな黒い漆塗りの六台の二頭立て馬車に分乗した侍女や侍従も、その車列の周囲を固める十五騎の護衛も、等しく疲労の色を浮かべている。
それでも、朝日に青と金のグラデーションを描く空を見上げる顔は、どれも晴れやかだった。
扉に留められた金箔張りの双頭の鷲が陽光を受け煌めく。
エカテリーナもまた、長旅の疲れを隠せずにいた。王都セヴェログラードから帝都アドラーホルストへの移動は、何度行っても身に堪える。――もっと便利で早い移動手段があればいいのに……。彼女は無意味な思いに駆られていた。
ただ、今回の旅で大きな収穫もあった。
向かいに座るレオポルトの横顔を、エカテリーナはそっと見つめる。
彼は毎日、出発前とその日の宿へ到着したとき、侍女や侍従、護衛の騎兵一人ひとりへ声をかけた。自分にも疲労がたまっているはずなのに、朝日のような笑みを絶やさず、労をねぎらった。
誰に命じられたわけでもない。人に見せるためでもない。彼はそれを毎日、当然のように繰り返した。
エカテリーナはずっと不思議に思っていた。なぜ彼らが、あんなにも心からレオポルトを慕い、仕えているのかと。
この旅で、それが少し分かった気がした。
レオポルトは、無意識的に人を引き付けるものを兼ね備えている。
――皇帝の資質。
エカテリーナの脳裏にふとこの言葉が浮かんだ。いや、彼は、次男で第二皇子である。ありえない。それが彼の不幸なのか。あるいは、皇帝の重責から免れる幸福なのか。エカテリーナは代わり映えのしない緩く歪んだガラスの填められた窓越しの景色を見ながら、ふと思った。
向かいのレオポルトがまた、あの「朝日のように晴れやかな笑み」を浮かべた。
隣の二人、ナターシャとフリードリヒは「あの日」以来ぎこちない。視線が重なれば、どちらからともなく目をそらす。ただ、この一行皆は、彼らがお互いに親しみを感じていることを知っている。当人たちだけが、その親しさにまだ名前を与えられずにいた。
エカテリーナが、そんな取り留めのないことを考えていると、街道の両脇に、双頭の鷲を掲げた縦長の旗が見え始めた。大きな旗は朝の風を受けて翻り、その列は一キロメートル近く先まで続いている。
馬車が小石を踏み、わずかに揺れた。
「あっ」
隣に座るナターシャが真っ先に声を上げ、四人が一斉に窓の外を見る。
「いよいよ、ですか?」
ナターシャの声が弾む。
「はい、ナターシャ殿。もうすぐ到着です」
フリードリヒが普段見せないような満面の笑みで答える。十二日に及ぶ旅が終わる安堵が、いつになく明るい表情に現れていた。
「このあたりでは、毎日これほどたくさんの旗を掲げているのですか?」
浮足立ったナターシャの声が響く。
「いや、まさか。あなた方を今日、お迎えするためです」
レオポルトは、嬉しさを堪えきれないナターシャにやさしく微笑んだ。
レオポルトの向かいのエカテリーナも、ナターシャの浮かれように呆れながらもにこやかである。
ナターシャが急に恥ずかしくなり、頬を色づかせた。
笑い声が車内に響き渡る。
両脇の窓の外で護衛する二人の騎兵もこの笑い声に気づいたのか、二人同時にこちら側を見、笑みを浮かべた。
その日の午後、ヴァレンティア王国の王都を発って十二日目にして、エカテリーナたちを乗せた馬車は、エルディア帝国の帝都アドラーホルストへ到着した。
高さ二十メートルを超す城壁には、この二頭立ての馬車三台分ほどの奥行きを持つ巨大な城門が穿たれている。その暗い門道を抜けた先に、ヴァレンティア王国の王都セヴェログラードとは異なる景色が広がっていた。
晴れ渡る大空の下、ついに帝都が姿を現した。
帝都を南北に貫く大通りは、六台の二頭立ての馬車が並んでも余裕をもって行き交えるほど広い。両側には四階建ての淡い灰色の石造りの建物が整然と並んでいた。それぞれの建物は次の通りまで隙間なくつながっている。装飾はほぼなく、簡素で実用的なつくりだった。ただし、みな同じ作りで、面白みに欠ける。計画都市らしい秩序が、街路の隅々にまで行き届いていた。屋根の部分にも均等に窓がつけられている。屋根裏部屋も活用しているのであった。それほど、ここ帝都アドラーホルストには、人がひしめきあっている。その窓や露台には、帝国の紋章である双頭の鷲を染め抜いた旗が掲げられていた。どの旗も、この日の来訪を歓迎して掲げられたものだ。
大通りには荷を積んだ馬車と乗合馬車が絶え間なく行き交い、御者の掛け声に、石畳をはじく蹄鉄や、車輪の音が響き合っていた。通りの角では商人たちが荷を降ろす順番を言い合い、買い物籠を提げた女たちが、その間を器用にすり抜けていく。
店先には焼きたてのパンが並び、喫茶店の開け放たれた扉からは客たちの話し声が漏れていた。軒先で遅い昼食を取る御者の脇を、子どもたちが駆け抜ける。整然とした建物の足元には、午後になっても衰えない帝都の活気があった。
道行く人々は、帝国第二皇子の帰還を知ると足を止め、胸へ手を当てて頭を下げた。
誰もがレオポルトに気づくと、笑顔になる。――やはり、思ったとおりだ。エカテリーナは、向かいに座る皇子を見つめる。
レオポルトは馬車の窓越しに、彼らへ穏やかな笑顔を向けていた。
その姿を見つけた子どもたちが満面の笑みになり、母親の手を振りほどいて夢中で馬車を追いかけてくる。
「レオポルト様、お帰りなさい!」
幼い声が響くと、レオポルトは窓辺に身を寄せ、大きく手を振った。
「朝日のような笑み」が、青空の下でいっそう眩しく見える。
隣のフリードリヒでさえ、その輝きには敵わないようだった。
エカテリーナは、向かいに座る彼の横顔を黙って見つめた。
王太子アレクサンドルの馬車が王都を通るとき、人々は道の両側へ整列し、深々と頭を下げる。けれど、あのように満面の笑みで駆け寄る子どもを見た記憶はなかった。
エカテリーナはもう一度、レオポルトの横顔を見つめる。
「ずいぶん慕われていらっしゃるのですね」
「私ではなく、この馬車が珍しいのでしょう」
レオポルトは、馬車に駆け寄る笑顔の子らに気を盗られ、生返事だった。
「殿下」
隣に座るフリードリヒが、呆れたように名を呼んだ。
「謙遜が過ぎますと、かえって嫌味に聞こえます」
「そうなのか?」
レオポルトは、不思議な顔をした。
「左様でございます」
レオポルトは少し考え込んでから、窓の外へもう一度手を振った。
自分が人から慕われていることさえ、彼にはよく分かっていないらしい。
それからしばらくして、一行はヴァレンティア王国大使館へ到着した。
そしてそれは官庁街を抜けた先に静かに佇んでいた。
建物は三階建ての赤煉瓦造りで、窓や柱の縁を飾る白い石材が、端正な縞模様を描いている。正面には円筒形の塔が左右対称に張り出し、その上には灰青色の尖塔屋根が載せられていた。いくつもの煙突と小塔が並ぶ複雑な屋根の輪郭は、城館を思わせる優雅さを備えながらも、帝国の官庁建築にはない柔らかな趣を漂わせている。
中央玄関へ続く石畳の両側には、低く刈り込まれた植え込みと花壇が設けられ、その奥では、深く鮮やかな青色の旗が午後の風にはためいていた。向かい合う二頭のユキヒョウが、それぞれ一本ずつ青いアイリスを支える――ヴァレンティア王国の旗だった。
異国の帝都にありながら、そこだけは祖国の空気を残している――。
エカテリーナにとってこの大使館は、外交の最前線であると同時に、遠く離れたヴァレンティアへとつながる、ただ一つの場所でもあった。
玄関前の車寄せには、大使館職員が勢ぞろいしている。大使の留守を預かる書記官長である、オリガ・ユスポワを筆頭に、一等書記官、二等書記官、事務官から、侍女、侍従、料理人、下人にいたるまで総勢六十人がエカテリーナの到着を待ち望んでいた。
到着を待つ職員たちの晴れやかな顔を見て、エカテリーナの口元もかすかに緩む。
「では、私たちはここで」
レオポルトが微笑んだ。
「お茶でも召し上がっていかれませんか?」
ここでレオポルトと別れると気づき、エカテリーナが無意識的に引き留めようとした。
隣でナターシャもフリードリヒを見つめている。
「いえ、私たちもこれから皇帝陛下への帰還報告がありますので、ここで失礼させていただきます」
ナターシャが悲しそうな顔で俯いた。
「閣下、お待ちしておりました」
レオポルト一行を見送ったのち、書記官長のオリガ・ユスポワが晴れやかな笑顔を見せた。
彼女もまた、ヴァレンティア王国初の女性大使館付き書記官長であった。ヴァレンティア王国は、建国以来、男性社会であったが、ここ最近は、アレクサンドルが父君である現王ピョートル・ヴァレンティアを説得し、積極的に女性登用を推し進めている。ただ、それがアレクサンドルの女性好きからくるものなのか、女性にも活躍の場を与えようと考えているのかは、王宮中の人間はみな、真意を測りかねていた。
四十三歳で独身の書記官長のオリガ・ユスポワは、神経質な人間である。エカテリーナよりも背が高く、すらりと痩せ、いつもきちんとまとめ上げた栗色の髪、鳶色の鋭い目、鷲のくちばしのような高い鼻に大きな口を持ち、そしていわゆる「きつい」顔立ちであった。
彼女が身に纏っているのは、深い森を思わせる暗緑色のシルクのドレスである。襟元まで隙なく閉じられた立ち襟には、白いレースがわずかにのぞき、その中央には、貝殻の色層を生かして気高い女性の横顔を浮き彫りにしたカメオが留められていた。身体に沿う細身の上衣には共布の包み釦が一列に並び、肩から手首までを覆う長袖の先にも、襟元と揃いのレースが控えめにあしらわれている。
きつく絞られた腰から下には、たっぷりと襞を取ったスカートが広がり、長い裾が靴を覆い隠して床の上をわずかに引いていた。華美な宝飾をいっさい排した装いは、女性らしさを飾るためというより、ヴァレンティア王国初の女性書記官長としての厳格さと実務能力を示すための制服のように見える。
――閣下。
もうわたくしは、誰かの「令嬢」でも「婚約者」でもない。エカテリーナはしみじみと思った。今までは、父であるミハイル・ヴォルコフや王太子アレクサンドル・ヴァレンティアに、結局は守られていた。でも今日からは、向かいの書記官長のように「一人の独立した女性」、あるいは「ヴァレンティア王国の代表」として、「閣下」と呼ばれる。
エカテリーナは、自分が置かれた立場の重さを噛み締めた。
◇ ◇ ◇
翌朝、エカテリーナはナターシャの手を借り、ヴァレンティア王国の正装へ着替えた。
身に纏っているのは、落ち着いた若草色のシルクで仕立てられた無地のドレスだった。細く絞られた腰から裾が優雅に広がり、その上には共布のマントを重ねている。
胸元では、無数のダイヤモンドを連ねた首飾りが、窓から差し込む朝の光を受けて輝いている。
その中央に据えられているのは、深い湖の底を閉じ込めたような大粒のサファイア。
ヴォルコフ公爵家に代々伝わる《嘆きの女王》だった。
さらに今日はエルディア帝国皇帝に謁見するために、胸にはヴァレンティア王国の勲章である、勲四等菖蒲花小綬章を留め、大使としての身分を示す金色の縁取りのついたロイヤルブルーの綬帯を肩から斜めに掛け、正式な装いをしている。
もちろん、出立前に国王ピョートルに授与された、この「勲四等菖蒲花小綬章」は、これまでのエカテリーナの功績でもあるが、ヴァレンティア王国の大使としての権威付けでもあった。
「ナターシャ、少しきつく締めすぎじゃないの?」
エカテリーナが白い綿の手袋をはめながら訴えた。
彼女は少し息苦しく、衣装の下に身に着けているコルセットを気にしている。
何度も腰の周りをさすっていた。
「いいえ。いつもどおりでございます」
ナターシャには、息苦しさの原因がいつもよりコルセットを締めすぎたからではなく、ただ単純にエカテリーナの緊張にあると分かっていた。
エカテリーナは、謁見にも外交交渉にも慣れている。ヴァレンティア王国では国王を前に政策を説明し、議会では年長の貴族たちと何度も意見を戦わせてきた。
それでも今日は、外国の皇帝へ大使として初めて謁見する日である。
かつてのように、王太子の隣で黙って微笑んでいればよいのではない。発する言葉の一つ一つが、ヴァレンティア王国の意思として受け取られる。
どんなに高貴な名門貴族、ヴォルコフ公爵家の令嬢であっても、国王の謁見や議会で何度も意見を戦わせてきたとしても、やはり結局はまだまだ経験の足りない二十三歳の一人の女性なのである。
ナターシャは、いつも自信たっぷりに堂々としているエカテリーナが珍しく緊張し、しおらしく見え、親しみを覚えていた。
お嬢様もいつもこんな風だと敵も少なくて済むのに……とナターシャは思いながら、口元を緩ませていた。
「お嬢様」
「何かしら」
エカテリーナが珍しく神経質な声を上げる。
「昨夜、きちんとお休みになりましたか?」
「ええ」
「嘘」
いつもエカテリーナのそばにいるナターシャには、彼女のその日の調子が手に取るようによく分かる。
ナターシャは、今日、エカテリーナの化粧ののりが悪いことに気づいていた。
「もう、ちゃんと寝たってば。もう、いい加減にしてよ」
「では、どうして同じ書類を三度もご確認になったのでしょうか?」
エカテリーナは、卓上に並べた書類を見た。
「念のためよ」
「それでは、四度目もご覧になりますか?」
「……もう分かったわよ」
ナターシャが柔らかく微笑んだ。
「お嬢様なら、きっと大丈夫でございます」
それは根拠のない慰めではなかった。
十歳の頃からそばにいるナターシャは、エカテリーナが今日までどれほどのことを学び、どれほどの政務をこなしてきたか知っている。
エカテリーナは小さく息を吐いた。
「ありがとう、ナターシャ」
ここまでお読みいただき、ありがとうございます。
次節では、エカテリーナが皇帝との謁見に臨みます。




