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第一章 第二節「白鹿(はくろく)の導く先」

 帝都を目指す馬車の中で、少しずつ近づいていく四人の距離。

 森に姿を現した白鹿は、新たな縁の始まりを静かに告げます。


挿絵(By みてみん)

 馬車が街道の轍(わだち)を越え、大きく揺れた。


 座席脇に置かれていたエカテリーナの黒い鰐(わに)革の鞄(かばん)が倒れ、留め金が外れる。中から黒い山羊(やぎ)革の手袋が滑り出し、床へ落ちた。


 レオポルトが拾い上げる。


「これは乗馬用の手袋ですか?」


 彼は不思議そうに問う。


「ええ。ありがとうございます」


 受け取ろうとしたエカテリーナの指先が、レオポルトの指へわずかに触れた。


 彼女はすぐ手を引いたが、レオポルトは何も気づかなかったかのように尋ねた。


「馬に乗られるのですね」


「王都にいる間は、毎朝の朝駆(あさが)けを日課にしておりました。ひどい雨や雪でなければですが」


「それは意外です」


 レオポルトが一瞬驚き、笑顔を見せる。


 エカテリーナの眉がわずかに動く。


「わたくしが馬に乗るようには見えませんか?」


「いいえ。あなたほど気品のある方が馬上にいれば、さぞ美しいだろうと思います」


 そこまでなら、完璧な称賛だった。


 レオポルトは、さらに続けた。


「ただ、馬の方が緊張するのではないかと」


「どういう意味でしょう?」


「あなたに乗られては、少しでも怠(なま)けることを許されそうにありません」


 馬車の中へ沈黙が落ちた。


 エカテリーナは受け取った手袋を無言で鞄へ戻し、留め金を閉じた。


「殿下は、わたくしをどのような女だと思っていらっしゃるのですか?」


 エカテリーナの顔にわずかな苛立ちが浮かぶ。


「自分にも他人にも厳しく、何事にも手を抜かない立派な方だと――」


 そう言いながらレオポルトは、そこで初めて自分が何かを間違えたらしいということに気づいた。


 隣では、フリードリヒが片手で額(ひたい)を押さえている。


「フリードリヒ。なぜ頭を抱えている?」


「いえ。殿下は、本日も殿下でいらっしゃると思いまして」


 フリードリヒが必死に表情を押し殺しながら言った。


「意味が分からない」


 レオポルトは、理解できずにいた。


「いずれお分かりになる日が来るかと存じます」


 ナターシャが、とうとう堪(こら)えきれずに笑った。


「ナターシャ」


 エカテリーナは、わずかに声を引き締めて侍女をたしなめた。


「申し訳ございません、お嬢様」


 謝りながらも、その頬(ほお)は緩(ゆる)んでいる。


 ナターシャがそっと向かいのフリードリヒを見ると、彼の口元にも微(かす)かな笑みが見て取れた。


 彼は、整えられた綺麗な赤毛に、鳶色(とびいろ)の目、高い鼻に、優しい口元だった。端正といえる顔立ちである。


 ナターシャは思わず見惚(みと)れた。


 エカテリーナは小さく息をつき、窓の外へ顔を向ける。腹を立てているはずなのに、不思議と胸の奥は軽かった。


「ナターシャ殿も、エカテリーナ様の朝駆けに同行されるのですか?」


 フリードリヒが、車内の雰囲気を変えるように尋ねた。


 突然話を向けられ、ナターシャは背筋を伸ばす。


「はい。十二年ほど、毎朝お供しております」


「十二年も?」


 フリードリヒが前のめりになる。


「はい。公爵家では、女中が馬へ乗ることは原則として禁じられております。ですが、お嬢様がお一人で朝駆けをなさるわけにはまいりませんので、わたくしだけ特別に許可していただきました」


「最初は父も認めてくれませんでした」


 エカテリーナが、当時の父の反対を思い出したかのように口を挟んだ。


「それで、男性の護衛だけを連れていき、もしわたくしが落馬したら誰がドレスを直すのかと尋ねたのです」


「お幾つのときです?」


「十一歳です」


 レオポルトは感心したようにうなずいた。


「その頃から交渉がお上手だったのですね」


「必要なことを申し上げただけです」


 やっと機嫌が直ってきたエカテリーナのその物言いに、ナターシャは懐かしそうに微笑んだ。


「初めの頃は、わたくしなど馬へ近づくだけでそれはもう恐ろしくて恐ろしくて、足が震えておりました。それでもお嬢様が諦めずに、毎朝、練習に付き合ってくださったのです」


「それはそうよ。だって、あなたがいつまでも馬に乗れなければ、わたくしもいつまでたっても朝駆けに行けませんもの」


 やっと車内に緩(ゆる)やかな空気が戻る。



 何かの鳥が胸に響くような甲高い声で鳴きながら馬車の車列の横を飛び去っていった。



「今でも、わたくしが少し油断すると置いていかれます」


 ナターシャは、呆(あき)れたように眉(まゆ)を下げた。もはや向かいの二人には、エカテリーナとナターシャの間に主従の関係を見て取れなかった。そこにあるのは正に、二人の幼馴染の友情と信頼だった。


「ナターシャが遅いのよ」


「お嬢様が速すぎるのでございます」


 ナターシャは、不満の色を隠さない。


「お二人とも、横乗りで?」


 フリードリヒが驚いて尋ねる。


「ええ。それ以外の乗り方は、父が許しませんでしたので……」


 エカテリーナとナターシャは、当然よねと言わんばかりに二人でにこりと顔を見合わせた。


「横乗りのまま、十二年間も毎朝……」


 レオポルトも驚き、思わず口を挟む。


「馬から落ちず、お嬢様についていくだけでございます。だってもしわたくしが落馬してしまえば、お嬢様まで二度と朝駆けにお出かけになれなくなりますから」


 ナターシャが当然のごとく淡々と答えた。


「あら……。それはわたくしもよ。だって、ナターシャが落馬してもわたくしが落馬しても、もしそれが一度でも起こったら、お父様はきっと二度と朝駆けに行くことをお禁じになさいますでしょうから……」


 エカテリーナも平然とした面持ちである。


 フリードリヒは、感心したようにナターシャを見つめた。


「十二年間、一度も落馬せずにいらっしゃる方を、世間では名手と呼ぶのです」


 フリードリヒの声には、からかう響きがなかった。その言葉は心からの称賛だった。


 真っすぐな鳶色(とびいろ)の瞳を向けられ、ナターシャは返答に困ったように目を伏せた。


 彼女の頬にうっすらと紅の色が浮かぶ。


 今度はエカテリーナが笑みを堪(こら)える番だった。


「フリードリヒ様は、いつから殿下にお仕えになっているのですか?」


 ナターシャの様子を見たエカテリーナは、今度はフリードリヒへ話を向けた。


「十歳のときからです。初めは小姓(こしょう)として宮廷へ上がり、殿下の学友も務めておりました」


 ナターシャが顔を上げた。


「わたくしも十歳で、ヴォルコフ公爵家へ奉公に出ました」


「では、同じですね」


「同じ……」


 ナターシャは、その言葉を小さく繰り返した。


 生まれも身分も違う。奉公に出た事情も、きっと自分とは違うのだろうとナターシャは思った。


 それでも、十歳で家族のもとを離れ、同じ年頃の主人へ仕えるようになった。その歳月の長さを、説明しなくても分かる相手が目の前にいる。


 フリードリヒは、それ以上尋ねなかった。


 その沈黙が、ナターシャにはありがたかった。


 フリードリヒは、向かいの女中の顔を見た。大きな茶色の瞳。丸い顔に小さな丸い鼻、頬はそばかすだらけ。栗色の髪は白い飾り布の中へ乱れなく収められている。背格好は隣に座るエカテリーナよりも一回り小さいが、女性として特別に背が低いわけではなかった。そして華やかな美人ではないが、どこか人を和ませる愛嬌のある顔立ちである。


 フリードリヒは、自分でも理由が分からないまま、ナターシャに見惚(みと)れていた。


 ナターシャがフリードリヒの視線に気づき、顔を上げる。


 目が合う。


 フリードリヒは不覚にも頬を色づかせ、ばつの悪そうに鼻の頭を搔(か)きながら車窓に視線を移した。


 ナターシャがくすりと笑い、彼はますます動揺していた。


 フリードリヒは自分でも理解できなかった。この女中にこんなにも動揺することを。彼は、熱くなった頬をそっと冷ましながら、ぼんやりと代わり映えのしない景色を見た。




 やがて馬車は森へ入った。


 木々に遮(さえぎ)られ、車内へ射し込む陽光が一気に和らぐ。


 薄暗いというよりも幻想的な世界だった。


 森には穏やかな風が吹いていた。石畳を弾く蹄鉄(ていてつ)や、車輪の音に交じって木々の揺れる音が車内に漏れ入ってくる。


 若葉の間から差し込む朝の光が、窓辺で細かく揺れている。


 柔(やわ)らかな光だった。それはまるで、神が手を差し伸べているかのような温かな光だった。



 小鳥の群れが一斉に飛び立ち、羽音(はおと)と鳴き声が森に響き渡る。



 そのとき、ナターシャは通り過ぎる木立(こだち)の奥に、白く大きな鹿を見た。


 目が合う。



「あっ」


 思わず声を漏らした。


「えっ? ナターシャどうしたの?」


「すみません、お嬢様。わたくし、鹿と一瞬目が合ったのでございます。それも白く大きな鹿と」


 四人が一斉に窓の外を見た。しかし、木立の奥には若葉の光が揺れているだけだった。


「いないじゃないの」


「いえ、でも、わたくし本当に見たのでございます。白く大きな鹿を」


「そう」


 エカテリーナは、ナターシャが見たという「白く大きな鹿」の姿を見つけられず、残念そうに木立の奥へ目を凝らした。


「白い鹿ですか。私も生まれてから一度も見たことはありません。でも幼い頃、直轄領の猟師に、『白い鹿』の伝説を聞いたことがあります。確か、白い鹿は神の使いで、それを見た者には幸運が訪れると。確かその猟師も若い頃、白い鹿を見て、その後すぐに五十年以上連れ添っている妻と出会ったと。その頃の妻は、本当に美しく、村中の評判になり、みんなが妻を一目、見に来たと。あれは、神様の思(おぼ)し召(め)しだったんだ。とか、言っていたような気がします。いかんせん、小さな子供の時分でしたので、ぼんやりとした思い出なのですが……」


 レオポルトは遠くを見るように目を細め、懐かしい記憶へ思いを馳せていた。


「じゃあ、そのうちナターシャにも、素敵な殿方がお見えになるのかしら?」


 エカテリーナがからかうように言うと、ナターシャの頬(ほお)がほんのり染まった。


 その向かいで、フリードリヒが落ち着かなげに座り直す。



 馬車が小石を踏み、わずかに揺れた。



「そういえば、帝都の北には皇室の保護林があります」


 レオポルトが話題を変えた。


「その森を抜けた先に、美しい湖があるのです。帝都へ着いて落ち着かれたら、一度ご案内しましょう」


「北部の森林資源を確認するための視察でしょうか?」


 エカテリーナが尋ねると、レオポルトは困ったように笑った。


「遠乗りのお誘いのつもりでした」


「遠乗り……」


 エカテリーナの瞳がわずかに輝いた。


「ええ。交易協定について話すことも大切ですが、それだけでは、あなたに帝国を知っていただいたことにはなりませんから」


 レオポルトは、エカテリーナの青い瞳を真っすぐに見つめた。


「帝国には、会議室の外にもお見せしたいものがたくさんあります」


 また、この人は不意に心を揺らすことを言う――エカテリーナはそう思った。しかも、レオポルト本人には、女性を口説いているという自覚がまるでなかった。


 エカテリーナは窓の外へ視線を逃がした。


「ナターシャも一緒でしたら」


「もちろんです。フリードリヒにも同行させます」


 フリードリヒが静かに一礼した。その視線がナターシャと重なり、二人は同時に目をそらす。


 それを見届けたレオポルトの口元が、かすかに緩(ゆる)んだ。


「では、楽しみにしております」


 エカテリーナが答えると、レオポルトは朝日のように晴れやかな笑みを浮かべた。


 馬車は森を抜け、なおも西へ進んでいく。


 その先で何が待っているのか、四人はまだ知らなかった。


 ただ、向かい合って座っていた四人の間には、昨日まで存在しなかった何かが、確かに芽吹き始めていた。


 白鹿が告げた「新たな縁」は、いったい誰と誰を結ぶのでしょうか。

 次回、帝都へ到着した四人を待ち受けるものとは――。


 今回で第一章「帝国へ向かう四人」は完結です。

 次回より、第二章「皇帝の試験」が始まります。

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