第一章 第一節「向かい合う二人」
本作は、短編『どうぞ、聖女様の手をお取りください――私はもう、あなたを待ちません』の続編です。
第一部では、聖女ばかりを優先する婚約者に見切りをつけたエカテリーナが、自らの意思で婚約を解消。そして、以前から彼女の才能を認めていたエルディア帝国第二皇子レオポルトとともに、祖国を旅立ちました。
まだ第一部をお読みでない方にも、ここからお楽しみいただけるように書いております。エカテリーナがレオポルトと出会うまでの物語が気になった方は、ぜひ第一部からお読みください。
それでは、不遇な第二皇子と、愛することに臆病になった公爵令嬢が、二人で幸せをつかむ物語の幕開けです。
ヴァレンティア王国の王都セヴェログラードを発って、一夜が明けた。
エルディア帝国の紋章である双頭の鷲を掲げた馬車の一行は、朝靄の残る街道を西へ進んでいる。
もうすでに街道沿いの並木には、若葉が芽吹き始めてはいたが、北方であるこの地域は、まだまだ朝晩は至極冷えた。
ヴァレンティア王国の王都セヴェログラードからエルディア帝国の帝都アドラーホルストまでは、五百年以上前から街道が開かれ、当時から石畳が二都を結ぶ街道に敷設されている。
ただ、何百年も馬車が行き交うため、石畳はすり減り、車輪が通った跡には、深い轍が刻まれていた。
周囲には、まだ靄のかかったどんよりとした大空の下、緩やかな起伏を持つ丘陵と谷間が幾重にも折り重なる、広大な平原が続いている。
美しく、そして長閑な田舎の風景であった。
その広大な平原は、終わりがなく、まるで、地平線の彼方まで広がっているかのようだ。どこまでも、どこまでも平原だった。
ところどころに木立も見える。
一瞬だけ朝の光が地平を照らし、くすんだ大地を金色にした。
――神の啓示。
フリードリヒ・ベルクは、ふとそんな言葉が浮かぶ。
柔らかな風が平原を駆け抜けた。
風が木々の枝葉を擦らせ、囁くような音を立てる。
車輪が石を踏むたびに、重厚な車体が上下に揺れた。
鋼製のばねを備えた新式の馬車は、革帯で客室を吊るす旧式より乗り心地がよいという。だが、フリードリヒにはその評判を信じる気になれなかった。
窓外に広がるのは、相変わらずの平原である。
そしてそれは美しい。
しかし、昨日から代わり映えがしない。
フリードリヒが小さく息をつくと、向かいに座るナターシャ・ソコロワが一瞬だけ彼を見た。退屈しているのを悟られたらしい。彼は何事もなかったかのように背筋を正した。
六台からなる車列の中央を進むのは、四人乗りの大型馬車だった。艶やかな黒い漆塗りの車体を、金箔を施した草花の絢爛な彫刻が飾り、扉には金箔張りの翼を広げた双頭の鷲の紋章の彫刻が掲げられている。
車内は壁も天井も座席もすべて深い臙脂色のベルベットで覆われ、飾り釦が無数に付いた座席が向かい合わせに設けられていた。左右の大きな窓には同色のカーテンが掛けられ、必要に応じて日差しを遮れるようにもなっていた。
ガラスは、ところどころに気泡が入り、緩く歪んでいる。
その歪んだガラスの向こうには、昨日から変わらぬ平原が続いていた。フリードリヒは、どんよりとした空模様と同じくらい、変わらない景色にうんざりする。
ただ、その平原の中には、見渡す限りの麦畑が続き、たくさんの農奴たちが小麦の種まきをしていた。この地域は、冬の寒さも厳しいが世界有数の穀倉地帯としても知られ、そのことが、ヴァレンティア王国とエルディア帝国を豊かにしている一因でもある。
進行方向を向いた座席には、奥にエカテリーナ、扉側にナターシャ。その向かいには、奥にエルディア帝国第二皇子レオポルト、扉側に侍従武官のフリードリヒが腰掛けている。
ほかの侍女や侍従、荷物は前後の馬車に分かれ、護衛の騎兵たちが馬車の列を取り囲んでいた。
ヴァレンティア王国の名門貴族、ヴォルコフ公爵家の令嬢であるエカテリーナ・ヴォルコフは、背が高く、ほっそりと華奢な体つきをしていた。彫刻のように整った高い鼻梁と、白い肌、青く澄んだ瞳を持つ。しかしその繊細な立ち姿には、近づく者を圧倒する気品と華やかさが備わっていた。
昨日までヴァレンティアの青いアイリスを刺繍した若草色のドレスを纏っていたエカテリーナも、今朝は旅装に改めている。
エカテリーナは、深い緑色の旅行服を身に纏っていた。生成り色のブラウスは首元まで端正に閉じられ、胸元には幾重にも折り重ねた柔らかな布飾りが添えられている。その上に重ねた袖なしのドレスは、身体に沿う上衣から腰下で豊かに広がり、踝まで届く裾には控えめな襞飾りが巡らされていた。
腰を締めるのは、使い込まれた焦げ茶色の革帯である。馬車の乗り降りを妨げる宝石も、国威を示す華やかな刺繍もない。公爵令嬢の品位を保ちながら、長い旅に耐えられるよう仕立てられた衣装である。
ただ一つ、実用本位の装いには不釣り合いなほど、無数のダイヤモンドを連ね、精緻を極めた首飾りが、その胸元で眩い輝きを放っていた。
プラチナの細工に連ねられ、房のように垂れ下がるダイヤモンドは、凍りついた幾筋もの涙を思わせる。その中央には、深い湖の底を閉じ込めたような大粒の青いサファイアが据えられていた。
《嘆きの女王》。
ヴォルコフ公爵家に代々伝わるそのサファイアは、そう呼ばれていた。
首飾りは息を呑むほど豪奢だったが、エカテリーナの気品は、その輝きに決して見劣りしなかった。
向かいの二人は、ともに軍服姿である。
乗車に先立ち、レオポルトとフリードリヒは剣帯からサーベルを外していた。鞘に収めたそれぞれの剣は、座席脇に設けられた革製の留め具へ固定され、手を伸ばせばすぐに取れる位置へ置かれている。
レオポルトもフリードリヒもすらりと背が高いが、決して華奢という訳ではなく、軍人らしい力強さも兼ね備えていた。エカテリーナとナターシャにとって、二人の軍人が同じ馬車にいることは、長い旅の不安を和らげるものでもあった。
複数の馬の蹄鉄で規則正しく石畳をはじく音と、轍を通る馬車の車輪の響きだけが延々と続く。
一方、エカテリーナの隣に座るナターシャも、長く続く曇天に飽き始めていた。これで、空が晴れ渡っていたらどんなに楽しい旅行になっただろうに……。そう思いながら、窓の外を眺めていた。
彼女もまた、旅に適した装いへと改めていた。身に纏っているのは、細かな織り模様の入った栗色の長袖服だった。腰はすっきりと絞られ、足首まで届く裾が控えめに広がっている。詰まった襟元には小ぶりな白い飾り襟を添え、その上から、胸当ての付いた生成り色のエプロンを重ねていた。
髪は白い飾り布の中へ乱れなく収められている。華やかさこそなかったが、馬車の埃や旅先での仕事を考えて仕立てられた、清潔で堅実な侍女服だった。
エカテリーナは、半年前に亡くなった母イリナの形見でもある《嘆きの女王》にそっと触れた。
彼女の美しい金髪が揺れ、その白く透き通った頬に触れる。
「ヴァレンティアは、北部交易路にかかる通行税の引き下げを求めています」
エカテリーナが話を切り出し、知性の光を宿した青い瞳で、向かいに座るレオポルト・エルディアを見つめた。
彼が身に纏っているのは、濃紺の軍服だった。身体に沿って仕立てられた上衣には、二列の金釦が整然と並び、立ち襟と袖口には金糸による精緻な刺繍が施されている。両肩を飾る金色の肩章からは房飾りが垂れ、右肩から胸元にかけて編み上げた金色の飾緒が渡されていた。腰には金の紋章を刻んだ留め金の付いた白い革帯を締めている。
下には、腿にゆとりを持たせ、膝下を細く絞った白い乗馬ズボンを穿いている。その裾は、膝下まで届く黒革の長靴へ収められていた。皇子としての威厳を備えながらも、いつでも馬に跨がれる実用性を失わない、武人らしい装いだった。
エカテリーナは、延々と続く同じ景色にうんざりした気持ちを切り替えるように、姿勢を正し、膝の上に広げた地図を指先でなぞった。
王太子の婚約者だった頃、レオポルトとは何度も外交会議で顔を合わせている。しかし、同じ馬車に乗り、互いの表情がこれほど近くに見える距離で話すのは初めてだった。
「帝国が通行税を維持したい理由も理解しております。北部街道は積雪による損傷が激しく、毎年、多額の修復費用がかかりますから」
「理解していただけるのでしたら、話が早い」
レオポルトが微笑んだ。
朝の光を受けた豊かな金髪が、柔らかな金色に輝いている。すらりと背が高く、通った鼻梁と形のよい口元を持つ彼は、狭い馬車の中にいても、宮廷画家が描いた肖像画のように整って見えた。
「では、通行税については帝国側の要求を受け入れてくださるのですね」
「いいえ」
エカテリーナは即座にきっぱりと答えた。
レオポルトの微笑みが止まる。
「理解することと、受け入れることは別でございます」
「なるほど」
柔らかな物言いとは裏腹に、レオポルトの表情にわずかな不快の色が浮かんだ。
「帝国が街道を修復していることは承知しております。しかし、その街道によって運ばれるヴァレンティアの海産物や塩は、帝国北部の民にとっても必要なものでしょう。通行税を下げて流通量を増やす方が、長期的には帝国の税収も増えるはずです」
「通行量が増えれば、街道の損傷も早まります」
レオポルトの笑みも次第に薄れ、表情が真剣なものへ変わった。
「でしたら、交易品の価格に応じて一律に課税するのではなく、荷馬車の重量によって税額を決めてはいかがでしょう。街道へ与える負担に応じて徴収するのであれば、商人たちの理解も得られます」
レオポルトは腕を組んで鈍く唸り、しばらく地図を見つめた。
ただ、反論されて機嫌を損ねた様子というわけではない。むしろ、彼の青い瞳には新しい問いを与えられた者の光が宿っていた。
「理屈は通っています。しかし、重量を量る者が地方領主の配下であれば、商人から賄賂を受け取る者も、実際より重く申告して税を着服する者も現れるでしょう」
「では、帝国から監督官を派遣するのです」
「ヴァレンティアの商人にも帳簿を提出させ、双方の記録を照合する仕組みが必要です」
「おっしゃるとおりです」
エカテリーナがためらいなく認めると、レオポルトの青い瞳がわずかに見開かれた。
「私の意見を認めてくださるのですか?」
「道理にかなっておりますから。なぜ驚かれるのです?」
エカテリーナは、不思議そうに眉を寄せた。
「先ほど私の提案を、ためらいもなく退けられたので」
「あれは道理にかなっておりませんでした」
一拍の沈黙の後、レオポルトが声を立てて笑った。
「あなたは実に明快な方ですね」
「面白みに欠ける女だと、以前から言われております」
エカテリーナが少しだけ視線を伏せる。
すると、レオポルトの笑みが消えた。
「以前にも申し上げたはずです。あなたほど話していて飽きない方を、私はほかに知りません」
はっきりと強い意志のこもった言葉を、あまりにも真っすぐに告げられ、エカテリーナは返す言葉を失った。
エカテリーナの頬がほんのりと色づく。
隣でナターシャが小さく息を漏らした。エカテリーナが、笑ったのかと振り向く。しかし、ナターシャは何事もなかったかのように窓の外を見ていた。
向かいに座るフリードリヒも、わずかに目を伏せている。
けれど彼の口元には、隠しきれないかすかな笑みが浮かんでいた。
フリードリヒが身に纏っているのは、装飾を抑えた濃紺の軍服だ。高い立ち襟と折り返した袖口には鮮やかな赤い布が配され、襟元を銀色の縁飾りが引き締めていた。上衣の正面には一列の金釦が隙なく並び、両肩には金糸を編んだ簡素な肩章が載せられている。
白い乗馬ズボンと黒革の長靴は、主君と同じだった。華美な装飾を抑えた姿は、皇子に仕える侍従武官らしく、端正でありながら実戦的な印象を与えている。
ナターシャは、先ほどから何度もエカテリーナの横顔を盗み見ていた。
王宮にいた頃のエカテリーナは、何かを口にする前に必ず相手の顔を見た。自分の言葉が王太子の立場を悪くしないのか、周囲の機嫌を損ねないのか、答えを求められるより先に考えていた。
だが、レオポルトの前では違う。
反対なら反対と言い、納得すればあたりまえのように認める。声には明らかに生気があった。そして青い瞳は、少女の頃のように輝いている。むかし、二人でお屋敷の庭に咲く花で夢中に花冠を作り、そこら中の花を摘んでしまって、今は亡きエカテリーナの母である公爵夫人に笑いながら呆れられた頃のように。
主人の変化を喜んでいたのは、ナターシャだけではない。フリードリヒもまた、同じ思いでレオポルトを見ていた。
レオポルトは誰の前でも穏やかに振る舞う。だが、その笑顔の多くが、皇子として身につけた仮面であること、自分の意見を抑えていることをフリードリヒは知っていた。
これほど楽しそうに誰かと自由に思いっきり、意見を戦わせる姿を見るのは、いつ以来だろう。
ナターシャもフリードリヒも主人たちがいつもの縛りから解放され、この狭い密閉された空間で伸び伸びと、生き生きとしている姿を見、満足し、ほっとしていた。
ナターシャとフリードリヒは目を合わせ、どちらからともなく微笑んだ。
馬車が街道の轍を越え、大きく揺れた。
最後までお読みいただき、ありがとうございます。
エルディア帝国へ向かう馬車の中で、少しずつ互いを知り始めたエカテリーナとレオポルト。
次節では、エカテリーナの意外な特技が明らかになり、ナターシャとフリードリヒの関係も動き始めます。
続く第二節「白鹿の導く先」も、お楽しみいただけましたら幸いです。




