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第四章 第二節 小さなパンをくれた少女

 御者台へ飛び乗ったナターシャの前には、御者の襟首をつかんだ女がいた。


 黒い山羊革のワンピースを着ている。肩からはマントのように銀狐の毛皮を垂らしていた。


 赤毛の華奢な女だった。


 その女が、ナターシャを見て笑う。


 先ほど、生け捕りにしろと、言っていた女。


 山賊の女頭領である。


「侍女風情が――」


 銀の光が、ナターシャの顔の前を横切った。


 茶色の髪が宙を舞う。


 銀の光。


 避ける。


 ナターシャが刃を返す。


 火花。


 赤い髪が宙を舞った。


「ちっ!」


 赤毛の女が舌打ちをした。


 御者の襟首を放し、御者台の縁を蹴った。


 飛んだ!


 女頭領が泥の上へ降り立つ。


 すぐ下で、ボリスが二人の賊を押し返していた。刃がぶつかるたび、御者台にまで泥が跳ねる。


 ナターシャは、うずくまる御者の傍らへ膝をついた。


 怪我はないようだった。


 小さく息をついた。


 殺気。


 銀の光。


 御者台の下から、槍が突き出された。


 刹那、ナターシャは御者へ覆いかぶさる。


 危ない!


 穂先が顔の横をすり抜けた。


 槍。


 避ける。


 御者を座席の陰へ押し込む。


 車体の向こうで刃が激しく打ち合った。誰かの叫びを、馬の嘶きがかき消す。


 また、槍。


 ナターシャが身をひねった。


 鈍い音。


 槍が大きく跳ね上がる。


 下で悲鳴がした。


 代わって、巨漢の男が下から顔を出した。


「先生!」


 ナターシャが叫ぶ。


「よく耐えられた」


 ドミトリーがにやりと笑う。


「では、これにて」


 ナターシャが小さく息をついた。


 銀、銀、銀、銀、銀。


 音、音、音、音、おと。


 ドミトリーは倒れた賊の槍を拾い、荷馬車へ回った。


 槍を振り回し、荷台へ取りつこうとした女二人をまとめて追い払った。


「お嬢様! 肩に力を入れすぎですぞ!」


「今、仰ることですか!」


 銀の光。


 火花。


 剣と剣が弾き合う。


 エカテリーナは叫び返しながら、迫る剣を弾いた。


「今だからです! 腕で振るな、腰で斬れ!」


 腰をひねる。


 刃が走った。


 目の前の男が、首元から濃い血を流して倒れる。


 酒臭い息で同じことを言われた稽古の日々が、嫌でも思い出された。


 朝駆けの途中の森の中で。毎日、毎日。


 自分から言い出しておいて、何度もやめそうになった。


 それでもドミトリーは、エカテリーナとナターシャに剣を握らせ続けた。


 やめさせてはくれなかった。


 逃げてはなりませぬ。お嬢様。


 ナターシャと二人、もうやめたいと伝えるたびに、そう言われ続けた。


 この男は腹がつかえて前屈もできないくせに、剣を持つと別人になった。酔っていても足運びの危うさ は見逃さず、二人が息もつけなくなるまで真剣を打ち込んできた。


 エカテリーナは息を吐いた。


 腰を落とし、踏み込む。


 銀、銀、銀、銀、銀。


 音、音、音、音、おと。


 踏み込んできた男の剣を外へ流し、その握り拳を斬った。


 鈍い音。


 剣が泥へ刺さる。


「そうです!」


「あとで覚えていらっしゃい!」


 銀の帯。


 避ける。


 銀の光。


 火花。


 剣を捌き続けるレオポルトが、思わず彼女を見た。


 エカテリーナは髪を振り乱していた。


 あのときは、ほろ酔いのドミトリーが大げさに言い、皆を笑わせているのだろうと思っていた。


 誤っていた。


 目の前のエカテリーナは、三人に囲まれても足を止めず、一人を盾にして残る二人の動きを封じていた。


「殿下、前を!」


 フリードリヒの声に、レオポルトは向き直った。


 銀の光。


 剣が来る。


 受け止める


 火花。


 振り下ろされた剣を受け止め、押し返す。その脇で騎兵が膝をつき、車輪を背にしながら、なお刃を突き出した。


「負傷者を中央へ! 荷馬車の間を塞げ!」


 ドミトリーの声に、下馬した騎兵たちが車列の隙間へ入った。下人たちは馬をさらに車体へ寄せ、空いた場所へ負傷者を引き込む。支援金を積んだ馬車の扉の前では、二人の騎兵が背を合わせて剣を構えていた。


 銀の光。


 火花。


 銀の光。


 賊が押し戻され始める。


 襲撃者は五十人余りだった。森からの奇襲で御者と馬を押さえ、車列を動けなくするつもりだったのだろう。


 だが、皇子の馬車から出てきた二人の女が、その手順を崩していた。生け捕りの命令にも、もはや全員が従ってはいない。追い詰められた者たちは、相手を倒すことに必死になっていた。


 御者の無事を確かめたナターシャは、後方の荷馬車へ移った。車輪を足場に、積まれた麻袋の上へ跳び上がる。


 栗色の侍女服の裾が揺れる。


 森の斜面に弓を構える男が見えた。


 狙いは、手綱を押さえている兵士。


 荷台には、負傷した若い女の山賊が倒れていた。その傍らに、血のついた短刀が落ちている。


 ナターシャが拾った。


 投げる。


 男の右腕に突き立った。


 狙いが逸れ、放たれた矢は木の幹に刺さる。


 男が血の溢るる右腕を押さえ、転げ落ちた。


 刹那、荷馬車の後ろを駆け抜ける女が見えた。


 黒い山羊革のワンピース。


 あの赤毛の女だ。


 肩から垂らした銀狐が返り血で赤く染まっていた。


 女は負傷した仲間の腕を肩に回し、森へ引きずっている。


「引け! 東の沢へ!」


 ナターシャは荷台から飛び降り、その前へ回り込んだ。


「その人を置いて、剣を捨てなさい!」


 女は負傷者を木の陰へ押しやった。


 剣が来る。


 避ける。


 茶色の髪が宙を舞う。


 銀の光。


 火花。


 赤い髪が宙を舞う。


 速い。


 ナターシャは切っ先を払い、間合いを詰めた。女はすぐに刃を返し、首を狙って横薙ぎに斬りつける。


 ナターシャは膝を沈めてかわし、下から相手の剣を跳ね上げた。


 銀の光。


 火花。


 激しい金属音が響いた。


 肩にかけていた血まみれの銀狐が落ちた。


 目が合う。


「オリガ!」


 気づいたら叫んでいた。


 女の目が見開かれる。


「ナターシャ!」


 十三年。


 飢饉の年。


 奉公先へ向かう荷馬車に乗せられたナターシャへ、その少女は小さなパンを差し出した。


 家に蓄えがあるから、自分は村に残れるのだと話していた。


 あのとき、ナターシャは彼女を羨ましいと思った。


 オリガは家族と一緒にいられる。それに引き換え、ナターシャは知らない家へ一人で送られる。幼い彼    

 女には、その違いが羨ましくてならなかった。


 そのオリガが今、美しい顔に泥をつけ、双頭の鷲の馬車へ剣を向けている。


 ナターシャの切っ先が、わずかに下がった。


 オリガの視線が彼女の身なりを射る。


 上質な生地。きちんと結われた髪。磨かれた剣。


「……お前が、鷲の番をするのか!」


 心からの叫びだった。


 銀、銀、銀、銀、銀。


 音、音、音、音、おと。


 剣が迫る。


 避ける。


 また、剣。


 避ける。


 オリガ。


 どうして?


 だが刃が、首を狙ってくる。


 身体に染みついた稽古が、考えるより先に腕を動かした。


 相手の剣を受け流し、手首を返す。


 剣が飛んだ。


 オリガが一瞬、立ち尽くした。


 弾かれた剣は、森の斜面に突き刺さっていた。


 ナターシャは動けなかった。


 甲高い笛の音が鳴る。


「皆、引け! 撤退! 負傷者は捨てろ!」


 オリガが叫んだ。


 あと一歩踏み込めば、捕らえられた。


 ナターシャには、それが分かっていた。


 それなのに、目の前の女の顔に、パンを差し出した少女の顔が重なる。


 今の刃は。


 本当に、わたくしを。


 踏み出すはずの足が、動かなかった。


「覚えていろよ、ナターシャ!」


 その声に、ナターシャは一瞬顔を背けた。


 オリガが木の陰へ走る。


 負傷者を軽々と肩に担いだ。


「待って!」


 追おうとしたナターシャの前へ、森から矢が飛んだ。


 幹へ深く突き立つ。


 斜面の上に、弓を構えた男がいた。オリガはその下をくぐり、負傷者とともに茂みへ消えた。


 枝の揺れる音が遠ざかる。


 ナターシャは剣を握ったまま、立ち尽くした。


「ナターシャ!」


 エカテリーナが駆け寄ってきた。


「怪我は?」


「……ございません」


 答えた声が、自分のものではないように聞こえた。


「女頭領を、取り逃がしました」


 エカテリーナは森へ目を向けたが、追撃は命じなかった。


 馬車のそばでは、ドミトリーが最後まで抵抗していた男の喉を突きぬいた。


 熟成したワインのような血が流れ落ちる。


 負傷した襲撃者たちは降伏した。


 四人は、ゆっくりと剣を鞘に収める。


 ◇ ◇ ◇


 街道を塞いだ大木を片づけ、負傷者の手当てを終えるまでに、四時間を費やした。


 御者の一人が腕に矢を受け、護衛兵にも負傷者が出たが、幸い、一行に死者は出なかった。


 救援物資も、支援金も無事だった。


 捕らえた十三名の山賊たちは縛り上げ、荷馬車に括り付けた。


「二人とも、本当にドミトリー殿に習ったのですね」


 馬車へ戻る前、レオポルトが振り乱した髪を右手でかき上げながら尋ねた。


「はい、本当です」


 エカテリーナの深い緑色の旅行着には、返り血がついていた。


 少し離れたところで、懲りずにドミトリーが酒瓶の栓を抜いている。


「剣を持っている時は、憧れるのに」


「聞こえておりますぞ、お嬢様」


「聞こえるように申し上げました」


「お嬢様も一口いかが」


 ドミトリーが酒瓶を持ち上げ、豪快に笑う。


 レオポルトは笑いかけたが、ナターシャの顔を見て口を閉じた。


 彼女は森を見つめていた。


 もう、枝一本動いていない。


 エカテリーナがそっと近づいた。


「知っている人だったのね」


 ナターシャは黙ってうなずいた。


 ほどけた茶色の髪が風になびく。


「村にいたころの、友だちです」


 それだけ言って、唇を結んだ。


 エカテリーナは続きを促さなかった。


「乗りましょう。手を洗ってから、傷がないか確かめさせて」


 それは、その場の誰もが聞いたことのない優しい声だった。


「はい、お嬢様」


 ナターシャの口元が少しだけ緩む。


 御者の掛け声が響いた。十台の車列が、再び北へ進み始める。


 窓の外を、深い森が流れていった。


 エカテリーナは旅行着の袖へ目を落とした。乾きかけた返り血が、深い緑の布を黒く染めている。扉から短剣を突き出してきた男の顔が、ふと浮かんだ。あのときは、剣を突き出すほかなかった。次の男が来て、その次にも刃が迫った。考えている暇などなかった。


 今になって、胸の奥が小さく疼いた。


 エカテリーナは袖から目を離し、向かいに座るレオポルトを見た。


 彼が静かに頷く。


 彼女も頷き返した。


 隣で、ナターシャは膝の上に両手を重ねていた。


 剣を握っていた右手を、左手で押さえる。


 若い男の喉元を貫いた感触が、不意に戻ってきた。指に力がこもった。


 胸が、ちくりと痛む。


 ナターシャは唇を結び、窓の外へ目を向けた。


 けれど、浮かんでくるのは赤い髪だった。


 オリガ。


 あの一歩を、なぜ踏み出せなかったのか。


 捕らえなければならないと、分かっていた。


 身体は剣を払った。迫る刃も避けた。


 それなのに、あの顔を見た途端、足が動かなくなった。


 小さなパンを差し出してくれた手。


 自分の首を狙って、剣を振るった手。


 同じ手だった。


 名前を呼び合った。間違えるはずがない。


 それでも、どうしても結びつかなかった。


 馬車が揺れる。


 ナターシャは右手を押さえたまま、幼い日の友だちの顔を何度も思い浮かべていた。


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