第5話:ベッドの数が足りません
隣国ガルダリカとの国境に位置する、アドルシュタイン領北方の港町。国境の町とは思えないほど、その港は活気に満ちていた。
「お二人の安全確保は我々にお任せください。」
宿屋の前で、騎士の一人が小さく頭を下げた。
「目立つなよ。」
「副団長の方が目立つのでは⋯?」
「⋯⋯そうか?」
騎士たちは苦笑しながら、それぞれ商人や旅人に扮して人混みへ消えた。
「さあ、私たちも行きましょうか。カシアン。」
市場へ向かう二人の表向きの身分は、予定通り「新婚旅行中の夫婦」だ。
ヴィクトリアは、装飾を極力省いた濃紺の冬服に身を包んでいた。普段なら、宝石で飾られる黒髪も、後ろで一つにまとめられている。侯爵令嬢というよりは、裕福な商家の若妻といった装いだった。
一方のカシアンも騎士服を脱ぎ、シンプルな装いに厚手のコートを羽織っている。しかし、鍛え上げられた体格だけは隠しようがなく、歩くたびに人々の視線を集めていた。
「カシアン、目立ってますね。」
「そうか。」
「ええ、先ほどから、女性の視線が集中しています。」
明らかに目立っており、お忍びの雰囲気はない。
そんな二人は、海に面した賑やかな港町の市場を歩いていた。
「ヴィクトリア。遠いな。それじゃあ、新婚旅行中の夫婦には見えない。」
そう言ってカシアンは、半歩ほど前を歩くヴィクトリアの手を自然に取った。突然の接触に、ヴィクトリアは少しだけ視線を逸らした。
「副団長の自覚をもってください。カシアン。公務中ですよ。」
「自覚ならある。」
カシアンは周囲へ視線を巡らせた。
「離れて歩くと守れないだろ。ここに、いろ。」
不必要な接触です、と小さくヴィクトリアは反論しようとしたが、確かに仲睦まじい「新婚夫婦」を演じないと、怪しまれてしまう。……合理的な意見かもしれません。と処理し反論をやめた。
少しのぎこちなさが、初々しかった。
二人が手を繋ぎ歩く姿は、どこから見ても仲睦まじい新婚夫婦だ。しかし、すれ違う露店を眺めるヴィクトリアの瞳は、冷静に町を確認していた。
「……妙ですね。」
すれ違う旅人の背中を見送りながら、ヴィクトリアは、囁くように言った。
「宿屋は、連日満室のはずです。その割に、市場にいる人が少ないと思いませんか?それだけではありません。宿屋の稼働率に対して、露店の回転率が低すぎます。この『消費しない旅人たち』は、一体どこで何をしているのでしょうか。」
さらに、毛皮を並べた露店へ近づいたとき、ヴィクトリアの違和感は確信に変わる。
ヴィクトリアは、少し微笑みながら商人に尋ねた。
「よい品質の毛皮ですね。今年の冬は、長くなりそうだから、ひとつ買おうかしら?」
「ああ、そうですな。おすすめですよ。」
「この寒さだと、流通が凍るかもしれませんね。」
「ええ、そのようで。」
毛皮を並べた男は、要領を得ない相槌を打った。その目は商品ではなく、不自然に周囲の路地を警戒していた。
「カシアン、もう少し市場を見て回りましょう。」
ヴィクトリアは、何もわからないふりをして、歩き始めた。
(この港町の流通が寒さで止まることなど、一度もない。少なくとも、商人ではないようですね。)
ヴィクトリアが歩きながら、男の正体を推測しようとした瞬間。カシアンは、手を離す代わりに、彼女の肩をそっと抱き寄せた。
「……カシアン?」
ヴィクトリアは、一瞬、思考停止した。
「寒いだろ?あとで毛皮を買おう。」
優しい低い声。だが、カシアンの視線はヴィクトリアの頭越しに、路地の影を見ていた。
――男の視線。
ヴィクトリアを観察していた不審な尾行者の一人が、カシアンが放った無言の威圧感に気圧され、後退していく。カシアンは、人混みに紛れている部下に視線だけで、合図を送った。
ヴィクトリアが違和感の正体を追う間も、カシアンは別の脅威を観察していた。
******
夜。
宿屋が用意した部屋は、新婚旅行中の夫婦にふさわしい、小ぎれいだが妙に狭い一室だった。何より、部屋の中央に鎮座するベッドは、どう見ても一つしかない。ヴィクトリアは、それに気が付く暇もなく、机に資料を広げた。
報告書と資料をまとめ、思考を整理する。
その姿は、いつもの女帝の姿であった。
「複数の偽名、共通する宿の利用。そして市場でのあの不自然な警戒心……」
ヴィクトリアは、資料の文字を指でなぞる。
「彼らは、ただの旅人では、ありませんね。」
「旅人にしては、この町に数が集中し過ぎている。」
カシアンが窓の外、静まり返る国境の海を見つめながら言った。
「隣国ガルダリカから送り込まれた、工作員の可能性がありますね。ただし、目的までは判断できません。」
「戦争か……」
カシアンの呟きに、深刻な響きが混じる。
「願わくば違うと良いのですが。」
平和そのものに見えた港町の裏側で、巨大な何かの歯車が回り始めていた。
「――と、今日の考察はここまでですね。明日はさらに踏み込んで証拠を……。」
張り詰めていた肩の力を抜き、ヴィクトリアは大きく息を吐いた。そのまま無意識に、今夜の休息の場へと視線を巡らせ……そして、完全に固まった。
部屋の中央に、堂々と鎮座するひとつの塊。
「カシアン。ベッドの数が足りませんね。」
「そうだな。だが、別に問題ない。」
(……問題ない。確かに、問題は、ないのかもしれませんが。)
本邸でも、カシアンに押し切られる形で同室になって以来、彼はベッドに入るなり瞬時に就寝していた。たまに、仕事で深夜まで起きているヴィクトリアを見つけては「寝ろ」「休め」と口うるさく言うものの、肌に触れるような不条理な挙動は微塵もなかった。
宿のベッドは、本邸のベッドに比べれば数分の一の広さだ。
(これは、ただの質量と空間の問題に過ぎません。ただベッドは、休息をとるだけのものです。)
……ヴィクトリアは考え込み、確かに問題はないのかもしれないと結論を出した。
「では、休みますか。」
「そうだな。」
ヴィクトリアは、亡き母の教えもあり、侍女が不在であっても、自身の身支度くらいはこなせた。先に入浴を済ませ、身軽な夜着に包まれて、ベッドへと潜り込む。だが、横たわってみると、そのベッドは想像以上に小さく感じられた。
(……寝返りを打てば、簡単に反対側の端へ届いてしまいますね。)
「寝るぞ。」
軽くシャワーを済ませたカシアンが、髪を拭いながら戻ってきた。カシアンは、何ひとつ気にする様子もなく、ごく自然な動作で同じベッドへと入ってくる。
「カシアン、狭くありませんか。」
二人並んで横になっても、楽に眠れるだけの広さはあった。けれど、いつものベッドに比べれば、二人の距離は、あまりにも近すぎる。
「まあ、いつもよりは狭いな。俺は気にならないが。」
「そうですか。」
短く返したカシアンは、そのままヴィクトリアに背を向けた。規則正しい呼吸の音が、すぐに部屋に響き始める。……もう寝てしまったようだった。
寝つきの良さは、子供の頃から少しも変わらない。
ヴィクトリアは、暗闇の中で、そっと息を吐いた。
目の前にある、騎士として鍛え上げられた広い背中。それを見ると……大きくなったなと。改めて実感させられる。
触れるか触れないか。
そんな絶妙な狭さのベッドは、心なしか、いつもより温かい。
最後に誰かと、こんなにも近くで横になったのは、いつ以来だろう。
……息遣い。
……体温。
すべてが近くに感じられる。
ヴィクトリアは生まれて初めて「仕事以外」の理由で、寝付けなかった。
つづく
第二章、新婚旅行編が始まりました。
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完結まで本編予約投稿しております。よろしくお願い致します。
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