第3話:契約書以外の言葉
「私、結婚致します。」
そう宣言して、ヴィクトリアが嵐のように北部騎士団詰所へ向かってから、一夜が明けた。
翌朝のアドルシュタイン家の食卓は、昨日以上の奇妙な緊張感に包まれていた。
「ヴ、ヴィクトリア……! 昨日、昨日の夜は、どうだったんだ……っ!?」
父は、徹夜で心配し続けたのか、目の下に酷いクマを作っていた。
「奴は、まだ生きているか?」
次女イザベラは、いつでも抜剣できる隙のなさを維持しながら、食事に手をつけていた。興奮気味の父とイザベラをよそに、三女のエレナだけが、優雅に紅茶を飲んでいる。
ヴィクトリアは、一睡もできなかった重い瞼を鉄の意志で押し上げ、いつも通り凛とした姿勢で席に着く。
「婚姻契約は、無事に成立致しました。カシアン副団長は、私の提示した条件に合意し、署名を終えています。」
「うわああああん! 本当に行ってしまったのかあぁ!」
父親が熊のような巨体を揺らして号泣する。
「そ、そんな……。あのカシアンが、本当に姉様の夫に……。」
イザベラが信じられないものを見るような目で、呆然と姉を見つめる。
「おめでとうございます、ヴィクトリアお姉様。アドルシュタイン家にとって、これ以上ない補強ですね。」
エレナだけが、表情を変えずに淡々と祝福の言葉を述べた。
ここまでは、ヴィクトリアの想定内。――そう確信して、紅茶を口に運ぼうとした彼女の手が、エレナの次の一言でピタリと止まった。
「……ところで、ヴィクトリアお姉様。」
「どうしました。エレナ。」
少しだけ、嫌な予感がする。
エレナは黙って紅茶を置いた。紫色の瞳が、じっとヴィクトリアを見ている。
「カシアン卿から、何か『契約書以外の言葉』が、ありませんでしたか?」
「何のことか、分かりかねます。」
ヴィクトリアは、できるだけ平然を装った。
……昨日、カシアンが最後に残した言葉。『お前、本当に俺を好きにならないんだな?』という、鼓膜から離れない低音が蘇り、一瞬だけ視線が泳いだ。
「……理解致しましたわ。」
エレナは、そんな姉を見て、何かを察したように頷いた。
******
一ヶ月後。
カシアンとヴィクトリアの式は、盛大に行われた。
結婚式後の夜会会場の扉が開いた瞬間。賑やかだった空気が、一瞬にして打ち消された。姿を現したのは、アドルシュタイン家が誇る女帝と、北部の戦力の象徴。
漆黒と深紫のドレスに身を包み、紫水晶の瞳を冷ややかに輝かせるヴィクトリア。その隣で、黒を基調とした正装に身を包んだカシアンが、静かに彼女をエスコートしていた。
白を排除し、互いの黒を溶け合わせるようにして。並び立つ二人の姿は、祝福という儀式には、似つかわしくない。
……けれど、圧倒的で、美しい。
(((何?この勝てる気のしない夫婦……!!!)))参列者たちのそんな様子に、当の本人たちは、気が付く様子もなかった。
代わりにヴィクトリアを見るカシアンの視線が、一瞬だけ止まる。
「ヴィクトリア。」
「なんですか。」
「綺麗だな。」
「……お戯れを、カシアン。」
ヴィクトリアは、手にした扇で口元を隠した。
しかし、カシアンの手が彼女の腰にそっと添えられた瞬間。彼女の長い睫毛が微かに震え、扇を握る指先にどれほどの力が入ったかを……カシアンだけが、知っていた。
次から次へと、乾杯のグラスを片手に、貴族たちが擦り寄ってくる。彼らの目的は、アドルシュタイン侯爵家との繋がりと、今や北部領地の婿となったカシアンの機嫌を伺うことだ。
「ヴィクトリア様、カシアン様!この度は、誠におめでとうございます!これほどお似合いの夫婦は、見たことがありませんな。」
脂ぎった笑顔で熱弁を振るう子爵に対し、彼女は、紫水晶の瞳を向け、優雅に扇を揺らした。
「恐れ入ります。ですが、視覚的な調和は、婚姻の副産物に過ぎません。我が家門と北部騎士団の連携強化という実利において、お似合いであると。そう、評価していただけるのであれば、これ以上の誉れはありません。」
「あ、は、はい……! おっしゃる通りで……。」
あまりにもビジネスライクな新婦の挨拶に、子爵は額の汗をハンカチで拭いながら、早足で退散していく。
「容赦ないな、ヴィクトリア。」
隣でカシアンが、少しだけ可笑しそうに声を潜めて囁いた。
「当然です。事実を述べたまでです。」
澄まし顔を崩さないヴィクトリアだったが、次に「カシアン様、今度ぜひ我が領地の演習場へ!」と、色目を使って近づいてきた伯爵令嬢が現れた瞬間。彼女は、扇をパチンと、少しだけ強い音を立てて閉じた。
ヴィクトリアの威圧に、挨拶もそこそこに令嬢は、立ち去った。
「ヴィクトリア、扇が壊れるぞ。」
「カシアン、北部騎士団副団長の立場を考えてください。」
「考えている。」
「考えていません。」
「そうか。」
態度と言葉が相反するヴィクトリアの姿に、カシアンは、少しだけ口の端が緩んだ。
******
賑やかな夜会は無事に終わりを告げ、二人は会場を後にした。帰路の馬車に揺られ、到着したアドルシュタイン家の邸宅は、夜の静寂に包まれている。
無事に契約の第一関門を突破した二人の『本当の契約結婚生活』が、ここから始まろうとしていた。
「おかえりなさいませ。ヴィクトリア様、カシアン様。ヴィクトリア様のご指示の通り、お部屋の準備は整っております。」
メイドが二人を迎え、カシアンを新居へ案内しようとする。
「カシアン、あなたには客間をご用意しました。自由に使ってください。」
「却下だ。」
カシアンは、ヴィクトリアの目を見てはっきりと断った。予想外の返答にヴィクトリアは、沈黙した。そもそも、この婚姻は便宜上の『契約』に過ぎない。ヴィクトリアにとっては、夫婦が寝室を共にする合理的理由は、どこにも存在しなかった。
(空間の無駄、プライバシーの侵害、そして何より睡眠効率の低下……。)
カシアンも同じ結論に至っているはずだった。
「……契約書を確認して、サインしたはずです。お互いの生活や仕事に干渉しないと、記載しています。」
「契約書は、読んでいる。だが、客間は却下だ。」
カシアンは、真っ直ぐにヴィクトリアを見つめ、即答した。
「契約内容を把握していないのでは?」
「把握している。」
カシアンは、少し眉間を押さえた。
「ヴィクトリア。俺は、お前の生活や仕事に干渉する気はない。だが、夫婦が別々の部屋で暮らしていたら、使用人も領民も困惑するだろう。」
「それは……。」
「夜会では夫婦。屋敷では他人。そんな方が面倒だ。」
ヴィクトリアは、少し考えた。確かに、その理屈は、一理あるような気がする。
「それに。」
「お前の睡眠管理と、朝が起きられない体質が心配だ。」
「夜は寝ますし、朝も起きられます。」
「嘘だな。」
「子供じゃありません。」
二人の様子に困惑するメイドたちをよそに、カシアンは当然のように寝室へ歩き出した。
「ま、待ちなさい。」
ヴィクトリアは、珍しく少し声を荒げた。
「なんだ。」
「まだ、私の許可が――」
「契約書に、寝室を分けるとは書いてなかったな。」
ヴィクトリアが、固まった。
(……初めて、契約書を武器に使われましたね。)
「……詭弁です。」
「そうか。」
カシアンは、それ以上反論せず、当然のように寝室へ入っていった。
ヴィクトリアは、その背中を見送りながら言葉を失った。
(……なぜでしょう。)
契約結婚を提案したのは自分のはずなのに。
気付けば今、この場の主導権は、完全に彼に握られていた。
つづく




