第13話:呼ばれた声
それから、数時間後。気づけば夜になっていた。
イザベラとカシアンが出撃準備で不在となった夕食を、残されたアドルシュタイン家の面々は、簡単に済ませた。ヴィクトリアは執務室に残り、戦時物資の調達計画に目を通していた。
……兵糧、輸送、避難計画。
考えることはいくらでもある。それなのに、何度も視線が窓へ向いた。外は雪がちらついており、夜も深くなってきた。それでも、カシアンはまだ帰宅していなかった。
「……忙しいのでしょう。」と、ヴィクトリアは、誰に言うでもなく呟いた。当たり前だが、誰の返事もなかった。
時計を見る。
また、書類へ視線を戻す。
気づけば数分後には、再び時計を見ていた。
「⋯⋯。」
仕事は、こんなに進まないものだったのか。
今までのヴィクトリアからは、到底考えられなかった。
扉が小さくノックされたのは、それから、しばらく後であった。
「どうぞ。」
返事と共に扉が開く。そこに立っていたのはカシアンだった。肩には雪、いつも余裕そうなカシアンであったが、今日は疲労の色も濃く見える。
「まだ起きていたのか。」
「業務中です。」
「そうか。」
ヴィクトリアは、即答した。カシアンは、こんな日も変わりがないヴィクトリアの様子に少し笑った。ヴィクトリアには、不思議と今日は、その笑みが妙に気に障った。
「何ですか。」
「いや。」
カシアンは執務机の前まで歩いてきた。
「……待っていたのかと思った。」
ヴィクトリアのペン先が止まる。
「そのような事実は、ありません。」
「そうか。」
「ありません。」
「わかった。」
カシアンの表情は、ヴィクトリアの言葉を理解してないように思えた。彼は明日、戦地に向かう⋯⋯しかし、そのいつもと変わりない姿に、ヴィクトリアの気持ちがざわつく。
しばらく沈黙がつづいた。カシアンは、沈黙の間もヴィクトリアを見つめていた。
魔石暖炉の火だけが、静かに揺れていた。
沈黙にたまりかねて、ヴィクトリアはペンを置いた。
「カシアン。」
「ん?」
「無理は、しないでください。前線に上がる必要はないのでは?指揮官が倒れたら、騎士団員も困るでしょう。」
カシアンは少し目を細め、執務机に手を置いて前のめりになった。
「忠告か?」
「当然です。」
ヴィクトリアは言葉を続ける。
「貴方は、北部騎士団副団長です。」
「……。」
「騎士団にとって、必要不可欠な存在です。領地にとっても、必要な人間です。」
「……。」
カシアンが静かに息を吐いた。
「また、それか。」
ヴィクトリアが顔を上げる。
「何ですか。」
「副団長。」
「騎士団。」
「領地。」
カシアンが、一つずつ言葉を並べた。
その声は静かだったが、どこか少し苦しそうであった。
「――それで。」
カシアンは、ヴィクトリアを見つめる。
「ヴィクトリアに、とっては?」
机越しに至近距離まで近づいた彼の熱量に、ヴィクトリアの思考が一瞬止まる。しかし、すぐにヴィクトリアは、言葉を選んだ。
「副団長を失うわけにはいきません。」
ヴィクトリアは、視線を合わせること無く少しだけ俯いたまま言った。
「騎士団にとっても、領地にとっても、貴方は必要な存在です。」
カシアンは、ヴィクトリアを見たまま返事はしなかった。窓の外は、雪が静かに降り積もっている。
「兵たちも貴方を慕っています。戦争が始まった今、貴方を欠くことは……。」
「また、それか。」
低い声に、ヴィクトリアの言葉が止まる。
「……カシアン?」
「いつまで、俺を保護するつもりだ?」
カシアンは静かに言った。
「なぜ、俺を契約結婚の相手に選んだ?俺は、いつまでもヴィクトリアの保護対象じゃない。おまえは、俺をちゃんと見ていない。」
カシアンは、低い声で、はっきりと告げた。
「……契約結婚を承知したはずです。」
ヴィクトリアの心の中は、外の静けさとは真逆に波立っていた。カシアンは、机越しにヴィクトリアに近づいた。
「おまえは、そうやって全部を背負う。」
――今、何を言われているのか。アドルシュタイン家の当主としての役割以外の感情。それをヴィクトリアは、考えたくなかった。本当の感情に名前を付ければ、戦地に向かうカシアンを無理やり引き留めてしまいそうだった。
それは、アドルシュタイン家当主として許されることではない。ヴィクトリアは、この感情から逃げたい一心で言葉を探した。
「私には当主として、領地を守る義務があります。」
カシアンは、ヴィクトリアを見つめる。
昔からずっと見てきた。
母を失った日も。
泣けなくなった日も。
当主になった日も。
――全部、傍で知っていた。
「……ヴィクトリアは、そのままでいいのか。」
カシアンは、静かな声で尋ねた。
「何のことですか。」
ヴィクトリアは眉を寄せた。
意味が分からない。
……いや、本当は少しだけ気がついている。
「私は、アドルシュタイン家の当主です。」
そう言った瞬間。カシアンは、小さく目を閉じた。その姿には、寂しさが少し滲んでいるようにも思える。
「おまえは、ずっとそうやって、自分の気持ちを後回しにする。」
カシアンは、苦笑した。ヴィクトリアが何かを言う前に、カシアンは、少し震えたヴィクトリアの手をとった。
ヴィクトリアの手は、あの雪の日のように冷たかった。
カシアンの距離が近い。
心臓が妙に騒ぐ。
「カシアン。」
「ヴィクトリア。おまえは、本当にわからない奴だな。」
呼ばれた声が、いつもより近く感じた。
「俺は。」
カシアンは、いつものように少しだけ笑った。
それは、泣きそうにも見える笑みだった。
「ヴィクトリアが気がつくまで、待っていようと思った。だが、永遠に待てるほど、俺も立派な人間じゃなかったみたいだな。」
戦地で、父を失った男の言葉だった。
強がるカシアンの奥に隠された感情、その意味を理解した瞬間、ヴィクトリアの胸が強く痛んだ。
カシアンの左手が、ヴィクトリアの頬に触れた。
……ヴィクトリアは、逃げ場がなかった。
「俺は、もう、ヴィクトリアの隣に立てる人間だ。」
ヴィクトリアは、初めて、カシアンの視線を真っ直ぐ受け止めた。目を逸らせなかった。
「俺は、おまえの覚悟を一緒に背負うために生きる。だから、信じろ。」
カシアンは、それだけ告げた。
そして、ヴィクトリアから、そっと離れた。
つづく




