第10話:じりじりと熱い
会議を終えた翌朝。
王都を離れるにつれ、街道の空気は徐々に冷たさを増していく。灰色の空からは細かな雪が舞い落ち、馬車の屋根を静かに叩いていた。……冬の旅路は長い。会議室を満たしていた重苦しい空気だけが、まだ二人の胸の奥に残っていた。
昼過ぎに一行は宿場町へ向かう途中、街道脇で小休止を取っていた。冷えた身体を少しでも解そうと、ヴィクトリアは馬車を降りる。
「少し歩いてきます。」
そう言って雪の積もる路肩へ足を向けた、その時だった。踏み固められているように見えた雪の下に、足をとられる。
「……っ!」
足首が不自然に捻れる。
ヴィクトリアは、咄嗟に体勢を立て直したものの、足首に鋭い痛みが走った。
「ヴィクトリア。」
低い声が降ってくる。
振り返ると、いつの間にかカシアンがすぐ後ろに立っていた。
「問題はありません。」
「問題ある。」
白い雪の上に、小さな血の跡が落ちる。ヴィクトリアの洋服の裾は、何かに引っかけたようで、少し破れていた。
カシアンは眉一つ動かさず、彼女の軽い身体をひょいと横抱きにする。
「カシアン、普通に歩けます。」
「意地を張って長引かせる方が、よっぽど非効率だ。」
反論しようとしたヴィクトリアの言葉が詰まる。
カシアンは、そのまま大きな歩幅で迷いなく歩き始めた。待機させていた馬車の扉を片手で器用に開けると、戸惑う彼女を椅子の上へと、そっと優しくおろす。そして、カシアンは、ハンカチを取り出し、血がにじむ足首へ巻いた。
「宿へ先に出発すると、団長に伝えておけ。」
従者へ視線を向けてそう告げると、予定を早め近くの宿場町へ向かった。
到着した頃には夜となり、深々と雪が降り積もる宿の一室。外の苦しいほどの寒さとは対照的に、部屋の魔石暖炉には赤々と火が灯っていた。パチパチとした心地よい音が静寂を埋めている。
「……冷えたな。ヴィクトリア、足の痛みは大丈夫か?」
カシアンが雪を払いながら、心配そうにヴィクトリアを覗き込んだ。
「問題は、ありません。」
「小さな傷を侮らない方が良い。」
カシアンは手早く桶にお湯をためると、ヴィクトリアの前に膝をついた。そして、怪我をした足をそっと引き寄せて洗い始めた。
「……!」
(これは、怪我の処置ですね。)
触れられた肌は、じりじりと熱い。
(そんなに、ひどい怪我をしたのかしら。)
魔石暖炉の炎に照らされるカシアンの真剣な横顔を見つめながら、ヴィクトリアは理由の分からない妙な気恥ずかしさを、必死に誤魔化そうとしていた。沈黙に耐えかねて、ヴィクトリアは口を開く。
「カシアン、お母様の教えですか?手際が良いですね。」
「……まあ、母親が薬師だからな。ある程度の処置は、叩き込まれている。」
カシアンは、手際よくヴィクトリアの足を拭き、清潔な布で傷口を保護した。
「深い傷じゃなくて良かったな。」
「ありがとうございます。」
手際よく足を拭き終え、カシアンが桶を片付けていた。室内に、再び魔石暖炉のパチパチと爆ぜる音だけが戻ってくる。カシアンの背中を見つめながら、ヴィクトリアは、ふと思い出した疑問を口にした。
「……カシアン。あなたのお母さまに、私たちの結婚の報告をしていないのは、本当に良かったのでしょうか。」
唐突なヴィクトリアの言葉に、カシアンの動きがピタリと止まる。ヴィクトリアとしては、純粋な確認のつもりだった。
「ヴィクトリアも知っているだろう? 母は、今は放浪の旅に出かけているからな。」
カシアンは肩をすくめ、事も無げに言った。
カシアンの母親は、彼が独り立ちしてから、各地を回り病に苦しむ人々を助ける旅を続けていた。アドルシュタイン領に戻ってくるのは、一年に一度あるかないかだ。
「便りを出したところで、今どこにいるかも分からない。まあ、あの人のことだから、どこかで元気にやってるだろ。」
カシアンは、どこまでも自由奔放な母のことを思い出し、少し呆れ気味に言った。そう言ったカシアンの顔を、ヴィクトリアはじっと見つめた。母親の話をすると、少し幼さの残る穏やかな横顔は、昔のカシアンの面影と重なる。……その笑った顔を見ていると、ヴィクトリアの胸の奥には別の感情が沸き上がってくる。
これから、戦争が起こるかもしれない。
もしそうなれば、目の前で優しく微笑むこの男も、容赦なく戦火の渦へと巻き込まれていくのだ。
窓の外で深々と降り積もる雪のように、逃れようのない不安が、じわじわと彼女の心を支配していく。 その気持ちを埋めたくて、ヴィクトリアは口を開いた。
「カシアンのお母さまは、自由で強い方でしたね。」
「……ああ。父が戦死してからは、余計に強くなったな。」
カシアンは、懐かしむように短く返事した。
「お父様が亡くなって、今はお母さまも旅に出てしまわれて……カシアンは、寂しくなかったのですか?」
カシアンは、少しだけ目を伏せた。父のことを思い出したのか、それとも母のことを思い出したのか。ヴィクトリアには、わからなかった。カシアンは、ゆっくりとヴィクトリアへ視線を戻す。
「……ずっと、ヴィクトリアが居ただろう?」
暖炉の光に照らされた彼の瞳が、悪戯っぽく揺れている。
「契約上の妻」に過ぎない自分に向けられたその言葉に。ヴィクトリアは、鼓動を隠すように、慌てて視線を泳がせた。
つづく




