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千年後の勇者召喚で再会した初恋の少女、だが本当に世界を救ったのは俺だった  作者: 暁牡丹


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第34話 記憶の底

# 第34話 記憶の底


 通路の奥へ進むほど、空気が変わっていった。


 冷たい。


 けれど、ただ寒いわけじゃない。


 肌の表面を撫でる冷気ではなく、胸の奥に直接触れてくるような冷たさだった。


 結晶の光は、さっきまでと同じように壁を照らしている。

 石の床も、古びた柱も、見慣れた遺構の一部にすぎないはずだった。


 それなのに。


 唯愛は、歩きながら何度も足元を見た。


 知らない場所だ。


 ここに来たことなんて、一度もない。


 なのに。


 曲がり角の先に何があるのか。

 次の石柱がどの位置に立っているのか。

 壁の欠けた部分に、どんな文様が残っているのか。


 分かる気がする。


 見えているわけじゃない。

 思い出しているわけでもない。


 ただ、体が先に知っているみたいだった。


「……」


 気持ち悪い。


 そう思うのに、足は止まらない。


 前を行くトバリは、さっきから一度も振り向いていない。

 それでも距離だけは崩さない。


 離れすぎない。

 近づきすぎない。


 まるで、目に見えない線の上を歩かされているみたいだった。


 唯愛はその背中を見つめる。


 細い背中。

 静かな足取り。

 何も言わない横顔。


 その全部が、どこか苦しそうに見えた。


 見えた、というより。


 分かってしまう。


 トバリが息を止める瞬間。

 言葉を飲み込む間。

 こちらを見ないように、わずかに顎を伏せる癖。


 そんな細かいものばかりが、勝手に目に入る。


 まるで、ずっとそうしてきたみたいに。


「右」


 ふいに、唯愛の口から声が出た。


 自分で言ってから、息を呑む。


 トバリの足が止まった。


 ヤスナも、少しだけ眉を上げる。


「……何が?」


 ヤスナが聞く。


 唯愛は、目の前の分かれ道を見た。


 左右に続く通路。


 どちらも同じように暗く、同じように結晶の光が揺れている。

 普通なら、どちらが正しいかなんて分からないはずだった。


 でも。


「たぶん、右」


 言いながら、自分の声が小さく震えているのが分かった。


「なんで?」


「分からない」


 即答だった。


 本当に分からない。


 分からないのに、間違っている気がしない。


 ヤスナは口元だけで笑う。


「便利になってきたね」


「便利とか、そういうのじゃない」


「じゃあ、何?」


 問い返されて、唯愛は黙った。


 何だろう。


 直感。

 違和感。

 記憶。


 どれも違う気がした。


 もっと、体の奥に沈んでいるもの。


 自分のものではないのに、自分の中にあるもの。


「……嫌な感じ」


 ようやく出てきたのは、そんな言葉だった。


 ヤスナは笑わなかった。


 トバリは、まだ振り向かない。


「左へ行く」


 短く言った。


 唯愛は目を上げる。


「なんで」


「右は駄目だ」


「どうして」


「駄目だからだ」


 それは答えではなかった。


 唯愛は、一歩だけ前に出る。


 距離が縮まる。


 呼吸が少し楽になる。


 その事実が、今はもう怖いだけではなくなっていた。


「知ってるんだ」


 トバリは答えない。


「右に何があるか、知ってるんでしょ」


 沈黙。


 また、沈黙。


 でも、その沈黙にも種類があることを、唯愛はもう知っていた。


 何も知らない沈黙じゃない。

 言えない沈黙だ。


「……行く」


 唯愛は言った。


 声は小さかったけれど、引くつもりはなかった。


 トバリの肩がわずかに揺れる。


「やめろ」


「やめない」


「唯愛」


 名前を呼ばれた。


 それだけで、胸の奥が跳ねる。


 優しい声ではなかった。

 むしろ低く、抑えた声だった。


 それなのに。


 その呼び方の奥に、別の何かが重なった気がした。


 もっと古い声。

 もっと近い距離。

 もっと、壊れそうな感情。


 唯愛は息を止める。


 今、何かが聞こえかけた。


 でも、届かない。


 霧の奥に沈むみたいに、消えていく。


「……大丈夫」


 誰に向けた言葉なのか、自分でも分からなかった。


 トバリにか。

 自分にか。


 それとも。


 その奥にいる、誰かにか。


 唯愛は右の通路へ足を踏み入れた。


 瞬間。


 空気が変わった。


 音が、遠のく。


 ヤスナの気配も、トバリの足音も、結晶の淡い光さえも。


 全部が一枚薄い膜の向こう側に押しやられたみたいだった。


 通路は短かった。


 けれど、歩いているうちに時間の感覚が曖昧になっていく。


 一歩進むたびに、胸の奥が重くなる。


 懐かしい。


 嫌だ。


 帰りたい。


 行かなきゃ。


 感情が、順番を無視して胸の中に落ちてくる。


 唯愛は壁に手をついた。


 冷たい石の感触。


 その瞬間、指先に小さな熱が走った。


「……っ」


 壁の刻印が、淡く光る。


 そこに書かれている文字は読めない。


 読めないはずなのに。


 意味だけが、胸の中へ流れ込んでくる。


 待つ場所。


 失ったものを置く場所。


 忘れられなかった者が、最後にたどり着く場所。


「唯愛、離れろ」


 トバリの声が聞こえた。


 近い。


 いつの間にか、すぐ後ろまで来ている。


 でも、もう遅かった。


 唯愛の視界が白く滲む。


 世界が、裏返る。


 最初に聞こえたのは、足音だった。


 今いる場所とは違う。


 もっと明るい。

 もっと温かい。


 石の回廊に、柔らかな光が差している。


 誰かが隣を歩いていた。


 顔は見えない。


 でも、距離が近い。


 近すぎるくらい近いのに、不思議と嫌ではなかった。


 むしろ、その位置が当たり前みたいに思えた。


 手と手が触れそうで、触れない。


 歩幅が自然に合っている。


 呼吸も、同じ間隔で重なる。


 誰かが笑った。


 声は、遠い。


『また、ひとりで行くつもり?』


 自分の声ではない声が、胸の中に響いた。


 けれど、それを自分が言ったような気がした。


 隣の誰かが、少しだけ困ったように黙る。


『置いていかないって言ったでしょ』


 指先が伸びる。


 その手には、指輪があった。


 光を受けて、淡く輝く小さな輪。


 それを見た瞬間、唯愛の胸が強く痛んだ。


 知っている。


 知らないのに。


 知っている。


 場面が揺れる。


 温かい回廊が消える。


 次に来たのは、夜だった。


 風の音。

 血の匂い。

 崩れた石。

 遠くで誰かが叫んでいる。


 足が動かない。


 体が重い。


 手が冷たい。


 誰かの手を握っている。


 握っているのに、力が抜けていく。


 嫌だ。


 離さないで。


 離したくない。


 声を出そうとしても、喉が動かない。


 目の前にいる誰かが、壊れたような顔をしていた。


 泣いてはいない。


 涙なんて流していない。


 ただ、世界の全部を失ったみたいな目で、こちらを見ている。


 その目を見た瞬間、唯愛は理解した。


 この人を、ひとりにしてはいけなかった。


 それだけが、痛いほど分かった。


『――』


 名前を呼ぼうとする。


 でも、音にならない。


 喉の奥で引っかかって、消える。


『――、』


 届かない。


 届かなかった。


 伸ばした手は、最後まで何にも届かなかった。


 白い光が弾ける。


 唯愛は現実に引き戻された。


「……っ、は……!」


 息が詰まる。


 膝から力が抜ける。


 倒れる、と思った瞬間、腕を掴まれた。


 強く。


 痛いくらいに。


 トバリだった。


 唯愛の体を支えたまま、トバリは何も言わない。


 けれど、その手が震えている。


 ほんのわずかに。


 誰かに見せるつもりなんてない、小さな震え。


 唯愛はそれを見て、胸が締めつけられた。


 今の記憶の中で見た人と、目の前の人が重なる。


 でも、同じだとは言えない。


 言ってはいけない気がした。


 まだ、そこへ触れたら駄目だ。


 そう分かる。


 それでも。


 逃げられない。


「今の……」


 声が掠れる。


 トバリの手に力が入った。


「忘れろ」


 低い声。


 苦しそうな声だった。


 唯愛は首を振る。


「無理だよ」


 だって、見てしまった。


 感じてしまった。


 自分のものではないはずの痛みが、まだ胸の奥で息をしている。


 手を離したくなかった後悔。

 置いていってしまった罪悪感。

 置いていかれた寂しさ。


 どれが誰のものなのか、もう分からない。


「……私の記憶じゃない」


 唯愛は呟く。


 トバリは答えない。


「でも、知らないって言えない」


 言葉にすると、胸の奥がまた痛んだ。


 涙は出ない。


 泣きたいのかも分からない。


 ただ、痛い。


 ひどく、痛い。


 ヤスナが少し離れたところで壁の刻印を見ていた。


 いつもの軽さは薄れている。


「ずいぶん深いところまで触ったね」


 その声に、唯愛は顔を上げる。


「深い……?」


「今のは、ただの断片じゃない」


 ヤスナは石壁から視線を外す。


「入口の匂いじゃなくて、奥に沈んでるものだよ」


 トバリが低く言う。


「余計なことを言うな」


「余計かな」


 ヤスナは肩をすくめる。


「もう、隠してどうにかなる段階じゃないと思うけど」


 空気が張る。


 トバリは何も返さない。


 唯愛は、支えられている腕を見る。


 まだ掴まれている。


 逃げるように距離を取っていた人が、今は離さない。


 その矛盾が、痛いほど胸に刺さる。


「……ねえ」


 唯愛はゆっくり顔を上げた。


 トバリは見ない。


 それでも、聞いている。


「今の中にいた人」


 喉が震える。


 でも、聞かずにはいられない。


「あれ、誰?」


 トバリの指が、かすかに強くなる。


 答えはない。


 ただ、沈黙だけが落ちる。


 唯愛はもう一度聞こうとして、やめた。


 たぶん、今はまだ答えない。


 答えられない。


 それでも、その沈黙が前よりも苦しくなかった。


 答えを隠されていることが苦しくないわけじゃない。


 でも。


 見えたものがある。


 触れてしまったものがある。


 もう、完全な暗闇ではない。


 唯愛は、まだ震える息を整えながら言った。


「私、誰のことを見たの?」


 トバリは答えない。


 ただ、掴んでいた手を離せないまま、静かに立っている。


 その横顔は、やっぱりこちらを見ない。


 でも。


 逃げているだけではないことも、今なら分かった。


 怖いのだ。


 自分が知ることが。

 自分が近づくことが。

 そして、きっと。


 また何かを失うことが。


 ヤスナが、小さく息を吐いた。


「もう、入口じゃ済まないね」


 その言葉は、石の部屋に静かに落ちた。


 唯愛は壁の刻印を見る。


 もう光は消えている。


 けれど、指先にはまだ熱が残っていた。


 知らないはずの温度。

 知らないはずの痛み。

 知らないはずの約束。


 その全部が、胸の奥で静かに沈んでいる。


 違和感ではなかった。


 もう、そんな曖昧なものではない。


 唯愛はゆっくりと息を吸った。


 そして、トバリの手がまだ自分を離していないことに気づいたまま、目を伏せた。


 この先に進めば、もっと見てしまう。


 もっと知ってしまう。


 たぶん、本当に戻れなくなる。


 それでも。


 足を止めたいとは、思えなかった。


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