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千年後の勇者召喚で再会した初恋の少女、だが本当に世界を救ったのは俺だった  作者: 暁牡丹


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第35話 戻れない

# 第35話 戻れない


 手が、離れなかった。


 トバリの指は唯愛の腕を掴んだまま、しばらく動かなかった。


 強すぎるほどではない。

 痛みが残るほどでもない。


 でも、離そうとしていない。


 その事実だけが、妙に胸の奥へ残った。


 さっきまで、あれほど距離を測っていたのに。

 近づきすぎないように。

 離れすぎないように。

 まるで見えない線でも引いているみたいに、ずっと気にしていたのに。


 今は、掴んでいる。


 逃げるように見ないふりをしていた人が、今は自分を離せないでいる。


 その矛盾が、息苦しい。


「……もう、大丈夫」


 唯愛は小さく言った。


 大丈夫かどうかなんて、本当は分からない。


 足元はまだ少し頼りない。

 胸の奥には、知らない痛みが残っている。

 視界も、ほんの少しだけ現実からずれている気がした。


 それでも、言わずにはいられなかった。


 これ以上掴まれていたら、安心してしまう。


 それが怖かった。


 トバリの指が、わずかに緩む。


 けれど、すぐには離れない。


 その沈黙の数秒が、やけに長く感じた。


 やがて。


 ゆっくりと手が離れる。


 空気が、少し冷たくなる。


 ほんの少し前まで触れていた場所に、熱だけが残った。


 唯愛はそこを見ないようにして、壁へ視線を向ける。


 刻印の光はもう消えていた。


 ただの古い石壁。

 ひび割れた文字。

 風化した文様。


 それだけのはずなのに、指先はまだ覚えている。


 温かい回廊。

 指輪。

 冷たい手。

 届かなかった声。


 その全部が、胸の奥で静かに沈んでいる。


 自分のものじゃない。


 そう思う。


 思うのに。


 完全には切り離せない。


「歩ける?」


 ヤスナの声がした。


 いつもより少しだけ軽さが薄い。


 唯愛は頷く。


「歩ける」


「無理すると、あとで面倒だけど」


「無理じゃない」


 即答した。


 強がりかもしれない。


 でも、止まりたくなかった。


 ここで座り込んだら、見たもの全部が重さを増して、自分を動けなくする気がした。


 トバリは何も言わない。


 ただ、少し先を見ている。


 進むべきか。

 戻るべきか。


 そのどちらかを考えている顔だった。


 唯愛は、それを見るだけで胸がざわつく。


 また止めるのだろうか。


 また、行くなと言うのだろうか。


 そう思った瞬間、自分の中に小さな反発が生まれる。


 怖い。


 でも、それだけじゃない。


 もう、見てしまった。


 あの人をひとりにしてはいけなかったという感覚を。

 届かなかった手の痛みを。

 誰かを置いていったような、置いていかれたような、ぐちゃぐちゃの後悔を。


 あれを見なかったことにはできない。


「先に行く」


 唯愛は言った。


 トバリの肩が、わずかに動く。


「まだ駄目だ」


「どうして」


「負荷が強すぎる」


 それは、さっきまでのような雑な拒絶ではなかった。


 ちゃんとした理由がある言い方だった。


 だから余計に、唯愛は黙りそうになる。


 でも、首を振った。


「それでも行く」


「唯愛」


「止めないで」


 自分でも驚くくらい、静かな声だった。


 怒ってはいない。


 ただ、はっきりしていた。


「さっき見たものが何なのか、私はまだ分からない」


 言葉にするたび、胸の奥が痛む。


「でも、分からないまま戻る方が嫌だ」


 トバリは答えない。


 ヤスナが、壁にもたれたまま小さく息を吐く。


「ここまで来たら、止める方が壊れるよ」


 トバリの視線が、鋭くヤスナへ向く。


「黙れ」


「黙ってても変わらないでしょ」


「お前は関係ない」


「あるよ」


 ヤスナは、珍しく笑わなかった。


「見てるんだから」


 その一言で、空気が少し沈む。


 唯愛は二人の間に流れるものを感じながら、もう一度壁へ目を向けた。


 通路は、さらに奥へ続いている。


 結晶の光は薄くなり、代わりに石の隙間から白い靄のようなものが滲んでいた。


 煙ではない。

 霧でもない。


 もっと、曖昧なもの。


 現実と何かの境目が、ゆっくり溶けているように見えた。


 唯愛は歩き出す。


 一歩。


 足音が響く。


 でも、すぐ後ろから遅れて、もう一つの足音が聞こえた気がした。


 振り返る。


 誰もいない。


 トバリとヤスナは少し離れたところにいる。


 今の足音は、二人のものではない。


「……」


 背筋が冷える。


 けれど、不思議と恐怖だけではなかった。


 懐かしい。


 その感覚が、一番嫌だった。


 通路を進むたび、音が増える。


 自分の足音。

 遅れて重なる足音。

 遠くで聞こえる笑い声。

 誰かが名前を呼びかけて、途中で消える声。


 全部、はっきりとは聞こえない。


 でも、聞こえないと言い切るには近すぎる。


 唯愛は胸元を押さえる。


 呼吸が浅い。


 けれど、トバリが近づくと少しだけ楽になる。


 それが分かるたびに、胸の奥がざらついた。


 頼りたくない。


 でも、近くにいると安定する。


 その事実を、もう誤魔化せない。


 トバリも分かっているのだろう。


 一定の距離を保ったまま、唯愛の少し後ろを歩いている。


 前には出ない。

 離れもしない。


 逃げたいのに逃げられない。


 その背中ではなく気配が、そう言っている気がした。


「……あの人」


 唯愛は、ふいに口を開いた。


 自分でも、なぜ今言ったのか分からない。


 でも、言葉が勝手に出た。


「あの記憶の中にいた人」


 トバリの足音が止まりかける。


 でも、完全には止まらない。


「泣いてなかった」


 声が、少し掠れる。


「でも、泣いてるよりずっと……苦しそうだった」


 胸が痛い。


 あの目が忘れられない。


 世界を失ったみたいな目。

 何も映していないのに、たった一つだけを見ていた目。


「あの人、ずっと待ってた気がする」


 言った瞬間。


 空気が揺れた。


 トバリの気配が、ほんのわずかに乱れる。


 それだけで、唯愛は分かってしまう。


 今の言葉は、何かに触れた。


 深く。

 不用意に。

 でも、確かに。


「……それ以上は言うな」


 トバリの声は低かった。


「どうして」


「壊れる」


「何が」


 問い返す。


 トバリは答えない。


 また、沈黙。


 でも、もうその沈黙に一方的に傷つくだけではなかった。


 言えないのだ。


 言ったら壊れるものがある。


 そのことだけは、分かる。


 けれど。


「言わなくても、もう壊れかけてるよ」


 唯愛は静かに言った。


 トバリの足が止まる。


 今度は、完全に。


 唯愛も立ち止まる。


 振り返らない。


 振り返ったら、見てはいけない顔を見てしまう気がしたから。


 代わりに、前を向いたまま続ける。


「私、自分の中に知らないものがあるのが怖い」


 白い靄が、通路の奥で揺れている。


「でも、知らないまま誰かに止められる方が嫌」


 指先が震える。


 でも、声は止まらない。


「それが私を変えるとしても」


 一瞬、喉が詰まる。


 変わる。


 その言葉は怖い。


 今の自分が薄れていくような気がする。

 誰かの記憶に、自分の輪郭が塗り替えられていくような気がする。


 でも。


 その恐怖ごと、見なければならないと思った。


「私は、見たい」


 沈黙。


 ヤスナも何も言わない。


 ただ、遠くの靄だけが静かに揺れている。


 その奥で、何かが光った。


 小さな扉だった。


 扉と呼ぶには、輪郭が曖昧すぎる。

 石でできているようにも、光でできているようにも見える。


 その中央に、円形の窪みがある。


 指輪の形に似ていた。


 唯愛は息を呑む。


 足が、勝手に前へ出る。


「待て」


 トバリの声。


 でも、体が止まらない。


 扉に近づくほど、胸の奥で何かが強く鳴る。


 知らないはずの音。

 でも、聞いたことがある気がする音。


 鼓動ではない。


 呼び声でもない。


 もっと、深い場所で響くもの。


 唯愛の右手が、自然に上がった。


 窪みに触れようとする。


 その瞬間。


 自分の手ではない動きが重なった。


 指先の角度。

 手首の返し方。

 扉に触れる前に、一度だけ胸元へ手を置く癖。


 知らない。


 そんな動き、知らない。


 なのに、体が勝手にそうしようとする。


「……っ」


 唯愛は歯を食いしばった。


 手を止める。


 止めた。


 指先が扉の寸前で震える。


 胸の奥から、誰かの感情がせり上がってくる。


 早く。

 開けなきゃ。

 行かなきゃ。

 あの人が待っている。

 今度こそ。


 今度こそ、置いていかない。


 唯愛の視界が滲む。


 足元が揺れる。


 その感情は強かった。

 自分の意思を押し流すほどに。


 でも。


「違う」


 声が出た。


 小さく。


 けれど、確かに。


 トバリが息を呑む気配がした。


「違う……」


 唯愛は、自分の手首を左手で掴んだ。


 震える右手を、無理やり止める。


「これは、私が選ぶ」


 胸の奥の感情が、激しく揺れる。


 知らない悲しみ。

 知らない愛しさ。

 知らない後悔。


 どれも本物みたいに痛い。


 でも。


 痛いからといって、自分が消えていい理由にはならない。


「私は……誰かの代わりに行くんじゃない」


 息が苦しい。


 それでも言う。


「誰かになるために行くんじゃない」


 扉の光が、かすかに強くなる。


 まるで、その言葉を聞いているみたいに。


 唯愛は震える手をゆっくり下ろした。


 そして、自分の意思で、もう一度手を上げる。


 今度は違う。


 胸元には触れない。

 知らない癖もなぞらない。


 自分の手で。

 自分の速度で。

 自分の呼吸で。


 扉へ触れる。


「私が、知るために行く」


 指先が窪みに触れた瞬間、白い光が広がった。


 音はなかった。


 ただ、通路全体が深く息を吸ったように感じた。


 扉の奥で、何かが動く。


 開いたわけではない。


 でも、閉じてもいない。


 まるで、こちらを認めたみたいに、薄く光の筋が走る。


 唯愛はその光を見つめる。


 怖い。


 怖さは消えていない。


 むしろ、さっきよりもはっきりしている。


 けれど、もう足を引きたいとは思わなかった。


 後ろで、トバリが何かを言いかけた。


 声にならない。


 言葉が、途中で消える。


 唯愛は振り返らない。


 でも、その沈黙だけで分かった。


 止めたいのだろう。


 止めたくて、でも、もう止められないのだろう。


 ヤスナが小さく笑った。


 いつもの軽い笑いではない。


 少しだけ、寂しそうにも聞こえた。


「自分で止まったか」


 その声に、唯愛はゆっくり息を吐く。


「止まったんじゃないよ」


 扉に触れたまま、答える。


「選んだだけ」


 ヤスナは何も言わなかった。


 トバリも、何も言わない。


 通路の奥で、白い光が静かに揺れている。


 唯愛は、自分の指先を見る。


 まだ震えている。


 でも、それはもう誰かに動かされている震えではなかった。


 怖くても進むと決めた、自分の震えだった。


 扉の向こうから、遠い風のようなものが吹く。


 そこにはきっと、もっと深い記憶がある。


 もっと痛いものがある。


 見たくないものも。

 知ってしまえば戻れないものも。


 それでも。


 唯愛は手を離さなかった。


 背後で、トバリの気配が動く。


 近づいてくる。


 けれど、今度は止めるためではなかった。


 すぐ隣ではない。

 少しだけ後ろ。


 でも、離れない距離。


 それが今の精一杯なのだと、唯愛には分かった。


 だから、何も言わない。


 責めもしない。


 ただ、前を見る。


 白い光の向こうに続く道を。


 もう、戻れない。


 それは怖い言葉だった。


 けれど今は、同時に別の意味も持っている。


 戻らない。


 そう決めたのは、自分だ。


 唯愛はゆっくりと息を吸い、扉の光を見つめた。


 誰かの記憶に飲まれるためじゃない。


 誰かの代わりになるためじゃない。


 自分が、自分のまま知るために。


 そのために、進む。


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