第33話 拒絶
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# 第33話 拒絶
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歩きながら、唯愛はずっと考えていた。
考えないようにしても、思考は同じところへ戻る。
離れた時の違和感。
近づいた時の安定。
何度も繰り返して、確かめて。
もう、気のせいでは済まないところまで来ている。
結晶の光が、通路を淡く照らしていた。
冷たい色なのに、どこか輪郭だけはやけに鮮明で。
足元の影が、細く長く伸びている。
足音は三つ。
重なりそうで、わずかにずれて響く。
そのずれが、やけに気になった。
前を歩くトバリは、やはり振り向かない。
視線も寄越さない。
距離だけを、正確に保っている。
離れすぎない。
近づきすぎない。
その曖昧な位置を、ずっと維持している。
分かってやっている。
それが分かるから、余計に引っかかった。
「ずいぶん静かになったな」
ヤスナが、ぽつりと呟く。
軽い声音。
何気ない一言のはずなのに、やけに浮いて聞こえた。
「問題ない」
トバリが短く返す。
前を向いたまま。
それ以上続ける気はないという、切り方だった。
唯愛は、ほんの少しだけ唇を噛む。
(問題ない、って……)
胸の奥に、小さな棘が残る。
何もないなら、こんな距離の取り方はしない。
何もないなら、こんなふうに視線を逸らしたりしない。
何もないなら。
こんなに、苦しくならない。
「……ねえ」
気づけば、呼んでいた。
トバリの足は止まらない。
けれど、ほんのわずかに肩が揺れる。
聞こえている。
「さっきの話――」
「今はやめろ」
被せるように遮られる。
はっきりとした拒絶だった。
今までで一番、強い。
唯愛は一瞬だけ息を呑む。
でも、引かなかった。
「……なんで」
静かに問う。
怒っているわけじゃない。
責めたいわけでもない。
ただ、知りたい。
それだけのはずなのに、胸の奥は妙に熱を帯びていた。
「今じゃない」
短い返答。
「じゃあ、いつ」
間を置かずに返す。
怖い。
でも、止まれない。
ここで止まったら、また全部曖昧に戻る気がしたから。
トバリは答えない。
沈黙。
それが、そのまま答えだった。
唯愛は目を細める。
(まただ)
逃げている。
触れないようにしている。
何もなかったことにしようとしている。
「分かってるんでしょ」
声が少しだけ硬くなる。
空気が、張る。
「……」
「私も分かってる」
言い切った瞬間、胸の奥が冷たくなる。
全部分かっているわけじゃない。
でも。
分からないままでいることの方が、もう苦しかった。
通路の先で、空気がわずかに変わる。
ひらけた空間。
石柱が並び、その表面には風化しかけた刻印が残っている。
読めるわけでもないのに。
なぜか意味だけが、ぼんやりと浮かび上がる。
唯愛は足を止めた。
指先で、石の表面に触れる。
冷たい。
でも、その奥に何かが沈んでいる気がした。
「ここって……」
小さく呟く。
言葉を選ぶ余裕はなかった。
「死者に会える場所、なんだよね」
静けさが、深くなる。
ヤスナが石柱に寄りかかり、肩をすくめる。
「そういう話だね」
曖昧な肯定。
否定はしない。
唯愛は、ゆっくり顔を上げた。
視線の先にいるのは、タマモの背中。
変わらない。
何も言わないまま、そこにいる。
「行けば、分かるよね」
言葉にした瞬間、空気が止まる。
ヤスナは何も言わない。
トバリの返答は、早かった。
「行くな」
短く。
強く。
迷いなく。
唯愛は、静かに息を吐いた。
「……なんで」
問い返す声は、落ち着いていた。
怒鳴りたくなるのを、押し殺す。
「必要ない」
返ってきたのは、そんな言葉だった。
唯愛は、少しだけ目を細める。
「あるでしょ」
一歩、踏み出す。
距離が縮まる。
呼吸が整う。
それが、余計に確信を強める。
「必要ないなら、そんな顔しない」
言葉にする代わりに、さらに半歩近づく。
トバリの肩が、わずかに揺れる。
振り向きかけて――
止まる。
そのまま、動かない。
視線は、前を向いたまま。
「……逃げてるから?」
小さく言った。
その瞬間、空気が変わる。
ヤスナが、わずかに目を細める。
トバリの声が、低く落ちた。
「……違う」
否定。
でも、弱い。
「じゃあ何」
逃がさない。
沈黙が落ちる。
長くはない。
でも、十分すぎる。
やがて、トバリが絞り出すように言った。
「行けば戻れなくなる」
低い声だった。
押し殺していたものが、少しだけ漏れたみたいに。
唯愛は息を止める。
戻れなくなる。
その言葉が、胸の奥に沈む。
何に。
どこへ。
問いは浮かぶ。
けれど、その前に。
「それの、何が悪いの」
言っていた。
自分でも驚くくらい、自然に。
怖い。
分からないことも。
変わっていくことも。
全部、怖い。
でも。
このまま何も知らないままでいる方が、ずっと苦しい。
「分からないままの方が嫌だよ」
小さく、でもはっきりと。
それが本音だった。
トバリは答えない。
答えられない。
その沈黙が、何よりも重かった。
唯愛は、拳を握る。
「分かってるんでしょ」
「ここに何があるか」
「だから止めるんでしょ」
一つずつ、言葉を重ねる。
逃げ道を塞ぐみたいに。
「だったら――」
息を吸う。
怖さが、喉の奥に引っかかる。
それでも、押し出す。
「行かなきゃ駄目じゃん」
その瞬間。
トバリの肩が、大きく揺れた。
振り向きかけて。
やっぱり、止まる。
見ない。
最後まで、見ない。
「……やめろ」
さっきよりも弱い声だった。
止めたいのに、止めきれない。
そんな響き。
唯愛は首を振る。
「やめない」
引かない。
もう、ここまで来てしまったから。
ヤスナが、ぼそりと呟く。
「決まったね」
軽い声音。
でも、それがすべてだった。
唯愛は視線を落とす。
怖さは消えていない。
むしろ、はっきりしている。
この先にあるものが軽くないことも。
戻れなくなるかもしれないことも。
全部、分かった上で。
それでも。
(逃げてるのは分かってる)
でも、それでいい。
(私は、逃げない)
ゆっくりと顔を上げる。
トバリの背中は、まだこちらを見ない。
でも。
それでいい。
唯愛は静かに言った。
「それでも、行く」
その言葉は、もう迷いを含んでいなかった。
トバリは答えない。
けれど、その沈黙はさっきまでとは違う。
拒絶だけじゃない。
揺れている。
止めきれない何かが、そこにある。
やがて、トバリが歩き出す。
置いていくでも、合わせるでもない。
ただ、同じ先へ進むしかない速度で。
唯愛も足を動かす。
距離は、近い。
もう誤魔化さない。
三人の足音が、通路に響く。
静かだった。
でも、その静けさはもう。
何もなかった頃のものではなかった。




