第31話 距離
# ■第31話 距離
歩いていた。
さっきと同じように。
何も変わらない顔をして。
結晶の光が、静かに道を照らしている。
石壁も、足音も、全部がさっきと同じはずなのに。
違う。
空気が、わずかにずれている。
誰も何も言わないまま、三人は通路を進んでいた。
前を行くヤスナとトバリ。
その少し後ろを、唯愛が追う。
距離は変わらない。
詰めてもいないし、離れてもいない。
なのに。
そのわずかな間が、やけに遠く感じた。
「……で、どうする?」
沈黙を破ったのは、ヤスナだった。
軽い声音。
いつも通りの、どうでもよさそうな調子。
だからこそ、その一言がやけに浮く。
トバリは、少しも振り向かないまま答えた。
「進む」
短い。
余計なものを全部切り落としたみたいに、乾いた声だった。
唯愛は、その背中を見た。
振り向かない。
視線も寄越さない。
ただ前だけを見て、歩いている。
(……何も、言わないんだ)
胸の奥に、小さく何かが沈む。
さっきのことを。
あの一瞬のことを。
まるで最初から存在しなかったみたいに。
「さっきの、結構ヤバかったけどな」
ヤスナが、わざとらしく軽く言う。
少し笑うような響き。
でも、その目は笑っていない。
トバリは、間を置かずに返した。
「別に」
切るような一言だった。
それ以上続けるなと、はっきり線を引く声。
唯愛は思わず口を開く。
「……本当に?」
問いかけた瞬間、自分でも分かる。
声が少し硬い。
トバリは変わらない。
「問題ない」
淡々と。
何もなかったみたいに。
その言葉が、逆に胸をざらつかせる。
(……あるでしょ)
言葉にはならないまま、喉の奥で止まる。
ヤスナが肩をすくめた。
「問題ない顔には見えないけど?」
「お前の基準は知らん」
会話は続いている。
形だけは、成立している。
なのに。
どこにも噛み合っていない。
唯愛は少しだけ息を吸った。
「……ねえ」
声をかける。
ほんの少しだけ。
間を置いて。
「さっきの……」
言いかけた瞬間だった。
「気にするな」
被せるように、遮られる。
あまりにも自然に。
あまりにも早く。
唯愛は言葉を失った。
「……っ」
続きが、出てこない。
拒絶されたわけじゃない。
強く言われたわけでもない。
ただ。
触れさせないようにされた。
それだけで、十分だった。
胸の奥が、じわりと冷える。
ヤスナがちらりとこちらを見る。
何も言わない。
でも、全部分かっている顔をしている。
そのまま、前を指した。
「じゃ、分かれるか」
「え?」
唯愛は思わず声を上げた。
「この先、道分かれてるだろ」
ヤスナは軽く顎で示す。
少し先。
結晶の光の先に、左右に分かれる通路が見える。
トバリが短く答えた。
「……そうだな」
迷いがない。
考える間もなく、決めたみたいに。
唯愛は一歩踏み出す。
「ちょっと待って」
初めて、はっきり止めた。
トバリは足を止めるが、振り向かない。
「効率の問題だ」
理由をつける。
でも、それが本音じゃないことくらい、分かる。
唯愛は小さく言う。
「……そういう話じゃないでしょ」
一瞬だけ、沈黙が落ちた。
誰も何も言わない。
結晶の光だけが、静かに揺れている。
トバリは、やがて一歩踏み出した。
「行くぞ」
それだけ言って、右の通路へ進む。
ヤスナが肩をすくめて、左を指した。
「じゃ、そっち頼むわ」
軽く言って、逆方向へ。
取り残される形になる。
唯愛は、ほんの一瞬だけ迷った。
でも。
足は、勝手にトバリの背を追っていた。
距離はすぐに開く。
さっきと同じはずの距離なのに、やけに遠い。
足音が響く。
自分のものだけが、妙に浮いて聞こえる。
(……なんか、おかしい)
胸の奥に、違和感が滲む。
数歩、進む。
それだけで。
呼吸が、ほんの少しだけずれる。
「……」
足が止まる。
何かが引っかかる。
上手く言葉にできない、微妙なズレ。
もう一歩。
踏み出した瞬間。
――息が合わない。
「……え」
小さく声が漏れた。
空気を吸うタイミングが、ずれている。
胸が、妙に重い。
頭の中に、薄くノイズが走る。
(なに、これ……)
視界が、ほんの一瞬だけ遅れる。
自分の動きに、自分の感覚が追いついてこない。
「……待って」
思わず声が出る。
自然に。
考える前に。
前を行くトバリの足が止まった。
振り向かない。
けれど、分かる。
止まっている。
そして。
「……っ」
小さく、息を詰める音。
それは、トバリのものだった。
ほんのわずかに、肩が揺れる。
同じだ。
同じように、何かがおかしくなっている。
その確信が、背筋を冷やす。
少し離れた場所で、ヤスナが止まる。
振り返る。
そして、ぼそりと呟いた。
「……あー、来たか」
分かっている声音だった。
「なに、これ……」
唯愛は、息を整えようとする。
でも、上手くいかない。
呼吸が合わない。
体が、自分のものじゃないみたいに重い。
トバリが低く言った。
「……戻れ」
「は?」
反射的に返す。
「いいから戻れ」
少し強い。
さっきよりも、明らかに。
その声音に、わずかに焦りが滲む。
唯愛は、一瞬だけ動けなかった。
でも。
体が先に動いた。
足が、勝手に前へ出る。
距離を詰める。
一歩。
二歩。
そのたびに。
――呼吸が、戻る。
「……」
足が止まる。
さっきまでの違和感が、嘘みたいに消えている。
胸が、ちゃんと動く。
思考も、元に戻る。
唯愛は小さく呟いた。
「……戻った」
トバリは、しばらく何も言わなかった。
そして。
「……そうか」
短く返す。
それだけ。
でも。
ほんのわずかに、力が抜けたのが分かった。
ヤスナが、鼻で笑う。
「分かりやす」
軽い声。
でも、その一言が妙に刺さる。
唯愛はトバリを見た。
やっぱり、目は合わない。
でも、さっきとは違う。
さっきよりも、明らかに。
距離を意識している。
離れすぎないように。
近づきすぎないように。
その“調整”が見える。
唯愛は、ゆっくり口を開いた。
「……ねえ」
少し間を置く。
言葉を選ぶ。
でも、選びきれない。
そのまま、出す。
「離れると、おかしくなる」
静かに。
でも、はっきりと。
トバリは、何も言わない。
否定もしない。
肯定もしない。
ただ、沈黙する。
それだけで、十分だった。
(やっぱり)
胸の奥で、何かが固まる。
唯愛は、ほんの少しだけ視線を落とした。
そして、心の中で言う。
(逃げてるくせに)
さっき、そう思った。
今も、同じだ。
でも。
(離れるなって、どういうこと)
さっきよりも、はっきりしている。
離れようとしているのに。
離れると、おかしくなる。
その矛盾が、胸の奥で静かに広がる。
トバリは、やっぱり前を向いたまま動かない。
でも。
もう分かる。
見ないようにしている。
近づかないようにしている。
全部、意識してやっている。
だったら。
唯愛は、もう一度だけその背中を見る。
少しだけ、距離を詰める。
さっきと同じくらい。
でも、ほんのわずかに近い位置。
それで、呼吸が安定する。
それで、思考がぶれない。
それで。
安心してしまう。
その事実が、何よりも気持ち悪かった。
でも。
同時に。
どうしようもなく、納得してしまう。
唯愛は、小さく息を吐いた。
もう、分かってしまったから。
見ないふりでは済まない。
この距離は、偶然じゃない。
この違和感は、勘違いじゃない。
そして。
トバリは、それを知っていて――
逃げている。
通路の奥へ、また歩き出す。
今度は、ほんの少しだけ距離を意識しながら。
近すぎず。
遠すぎず。
その曖昧な位置を、無意識に探るみたいに。
誰も何も言わない。
でも。
さっきまでの沈黙とは違う。
分かってしまった沈黙。
それが、三人の間に静かに落ちていた。




