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千年後の勇者召喚で再会した初恋の少女、だが本当に世界を救ったのは俺だった  作者: 暁牡丹


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第30話 逃げている


# 第30話 逃げている


 静かだった。


 何かが起きた直後とは思えないほど、空気は澄んでいる。

 結晶の淡い光が、何事もなかったみたいに石壁を照らしていた。

 音もない。

 揺れもない。

 さっきまで世界そのものが軋んでいたのが、嘘みたいだった。


 けれど。


 何もなかったわけじゃない。


 唯愛は、自分の指先を見つめた。


 まだ震えている。


 大きくではない。

 誰かに見られても気づかれないくらい、わずかに。

 それでも、自分には分かる。

 触れた感覚が残っている。

 抱き寄せられた、あの一瞬の距離が、体の奥に沈んだまま消えていない。


 あれは、自分じゃなかった。


 そう思う。


 思うのに。


 完全に否定しきれない。


 胸の奥が、静かに軋んだ。


「……」


 声を出そうとして、やめる。


 何を言えばいいのか分からなかった。

 今のは何だったのか。

 どうしてあの名前が出たのか。

 どうして自分は、あの一瞬だけ“そこにいた誰か”みたいに動いたのか。


 聞きたいことはいくらでもある。


 でも。


 たぶん、聞いたところで、今はまだ何も返ってこない。


 そんな気がした。


 少し離れたところで、ヤスナが壁に寄りかかっている。

 腕を組んだまま、何も言わない。

 顔にはいつもの気軽さが残っているのに、視線だけは妙に静かだった。


 そして、トバリは。


 視線を合わせない。


 それが、何よりも痛かった。


 ほんの少し前まで、目の前で起きたことから目を逸らせないでいたはずなのに。

 今は逆だ。


 見ない。


 見ようとしない。


 それがあまりにも露骨で、唯愛は逆に何も言えなくなった。


 トバリは、石室の奥に視線を向けたまま動かない。

 呼吸はもう落ち着いている。

 乱れは、外から見えるぶんには消えていた。

 声音も、表情も、いつものあの気怠げなトバリに戻っている。


 でも。


 戻っていない。


 そんなの、分かる。


 分かってしまう。


 肩の力の入り方が違う。

 呼吸を整える間が長い。

 何かを見ないようにする時の、目の伏せ方が違う。


 どうしてそんなことまで分かるんだろう。


 唯愛は、唇をきつく結んだ。


 さっき、自分は何を見たんだろう。

 誰を見たんだろう。

 あれはトバリの記憶だったのか。

 それとも、自分の中に残っている“誰か”の欠片だったのか。


 答えは、まだどこにもない。


 それでも、たった一つだけは分かる。


 あの時、トバリは確かに自分を見ていなかった。


 いや。


 見ていた。

 でも、今の自分を見ていたわけじゃない。


 そのことが、奇妙な形で胸に残っていた。


 苦しいのに。


 不思議と、嫌悪だけでは終わらない。


 それが、一番厄介だった。


「……戻るか」


 先に口を開いたのはヤスナだった。


 あまりにも普通の声だった。

 だから余計に、その一言が石室の空気に細くひびを入れる。


 唯愛はすぐに頷けなかった。


 戻る。


 どこへ。

 何に。

 さっきまでの自分に?


 そんなものが、まだ残っているんだろうか。


「……そうだな」


 トバリが、短く返す。


 その声に、唯愛は思わず顔を上げた。


 やっぱり、視線は合わない。


 こちらを見ずに歩き出す。

 ヤスナが先に動き、トバリが続く。


 唯愛は、一拍遅れてその背を追った。


 石の床に響く三人分の足音。

 前を行く二つの背中。

 その間に割り込めない空気。


 さっきまで、距離なんて勝手に縮まっていたはずなのに。


 今は違う。


 唯愛は一歩進むたび、妙な不安に胸を掴まれた。

 近づきたいわけじゃない。

 でも、このまま離されるのは嫌だと、どこかが勝手に騒ぐ。


 おかしい。


 自分でも、そう思う。


 近づけば危ないと、もう分かっている。

 触れれば何かが崩れる。

 あの一瞬で、それを思い知ったばかりだ。


 なのに。


 離れていくことが、怖い。


 唯愛は思わず歩幅を速めそうになって、止めた。

 その衝動自体が嫌だった。

 意識して抑え込む。


 でも。


 そのせいで今度は、胸の奥に小さな痛みが残る。


 距離が正しくない。


 そんなふうに感じてしまう自分が、ひどく気持ち悪かった。


 前を歩いていたヤスナが、ちらりと振り返る。

 何か言うかと思ったが、何も言わない。

 ただ一瞬だけ唯愛の顔を見て、それから視線を前へ戻した。


 分かってる。


 その無言にそう言われた気がして、唯愛はさらに唇を噛んだ。


 通路を折れる。

 結晶の明かりが細く連なり、三人の影を長く伸ばしていた。


 唯愛は見ないようにしていた。


 けれど、視界の端にどうしても映る。


 前を行くタマモの影。

 そのすぐ横にあるヤスナの影。

 そして少し離れた、自分の影。


 それが、耐え難かった。


 さっきまであれほど近くにあったものが、今はわずかに遠い。

 それだけで、胸の奥に冷たい隙間が生まれる。


 変だ。


 こんなの、自分の感情じゃない。


 そう思いたいのに、完全には言い切れない。


 あの一瞬のあとで、なおさら。


 唯愛は目を閉じたい衝動をこらえた。


 目を閉じたら、また見えてしまいそうだったからだ。

 柔らかい光。

 近い距離。

 自然に伸びる手。

 そして、呼ばれた名前。


 ――トバネ。


 あの音が、まだ耳の奥に残っている。


 自分のことじゃないはずなのに。

 自分に向けられたものじゃないはずなのに。


 その響きだけが、奇妙なくらい胸の深いところへ落ちていた。


 しばらく歩いて、少しひらけた場所へ出る。

 休憩に使われていたらしい石台と、古びた支柱。

 ヤスナが先にその一つへ腰を預けた。


「少し休むか?」


 問いかけというより、確認みたいな声音。


 トバリは首を横に振る。


「いや、進む」


 即答だった。


 早すぎるくらいに。


 唯愛はその声音に、思わず視線を向けた。

 まただ。


 見ない。


 こっちを見ようとしない。


 進む理由なんて、本当はただ一つだ。

 ここに留まりたくない。

 今の空気の中に、少しでも長くいたくない。


 そのことが、あまりにも分かりやすい。


 胸の奥が、ひどく静かに冷えた。


 トバリは逃げている。


 その言葉が、まだ輪郭を持たないまま胸の内側に沈んでいく。


 唯愛は、そこで初めて気づいた。


 自分は、さっきからずっとそのことばかり考えている。


 あれが何だったかよりも。

 誰だったのかよりも。

 まず、トバリの反応ばかり見ている。


 どうして。


 どうして、そんなふうに見てしまうんだろう。


 知りたいのは自分のことのはずなのに。


 なのに、目が追うのはいつもあっちだ。


 トバリが何を見ていないか。

 何を言わないか。

 どこで息を止めるか。


 そんなことばかりが、目につく。


 気づいた瞬間、唯愛はぞっとした。


 これじゃまるで。


 まるで、ずっとそうしてきたみたいじゃないか。


「……唯愛」


 突然、ヤスナに呼ばれて顔を上げる。


「え」


「顔、やばいぞ」


 軽く言う。


「そんなに分かりやすいと、隠してる意味ない」


「……何も隠してない」


 反射的に返した声音は、自分でも驚くほど固かった。


 ヤスナは肩をすくめる。


「そりゃどうも」


 そこで会話を切った。


 追及してこない。

 その代わり、全部見えてる顔をしている。

 それが腹立たしいのに、反論の材料がない。


 トバリはやはり何も言わない。


 ただ、先へ進もうとする。


 その背を見ているうちに、唯愛の胸の奥に、さっきよりももっとはっきりした感情が浮かぶ。


 腹が立つ。


 静かに、でも確かに。


 何も言わないことに。

 見ないことに。

 なかったことにしようとしている、その態度に。


 自分だって何も分かっていない。

 怖いし、混乱している。

 なのに、あっちだけ先に距離を取ろうとしているのが、妙に許せなかった。


 違う。


 許せないというより。


 置いていかれるのが、嫌なんだ。


 そのことに気づいて、唯愛は息を止めた。


 嫌だ。


 離れたくない。


 でも、どうして?


 答えは出ない。


 出ないまま、感情だけがそこに残る。


 トバリが歩き出す。


 ヤスナがそれに続く。


 唯愛も足を動かした。


 今度は、無理に追いすがらない。

 でも離れすぎない。

 そのぎりぎりを探るみたいに、慎重に歩幅を選ぶ。


 それでもやっぱり、前との距離が気になる。

 息が合うかどうかが気になる。

 手を伸ばせば届くかどうかが気になる。


 全部、気になる。


 全部、鬱陶しい。


 通路を進むうち、結晶の光が少しずつ弱くなっていく。

 足元に落ちる影が濃くなる。

 空気も少し冷たくなった。


 誰も話さないまま、その冷えた静寂の中を歩く。


 さっきまでなら、その沈黙に押し潰されそうになっていたかもしれない。

 けれど今は違う。


 唯愛の中には、別の熱が残っていた。


 理解できないものへの恐怖。

 否定しきれない感覚。

 それから。


 視線を逸らし続けるあの背中への、静かな苛立ち。


 やがて、また小さな部屋の前でトバリが足を止める。

 何かを確認するように石壁へ手を触れ、結晶の光を一度だけ見上げた。


 その横顔を、唯愛は今度こそはっきりと見る。


 きれいだとか、そういう話じゃない。

 ただ、その顔があまりにも静かすぎて。


 それが余計に、逃げているように見えた。


 たぶん、本当に怖いのはあっちも同じだ。

 それくらいは、分かる。

 分かってしまう。


 でも。


 だからって、何もなかったみたいな顔をされるのは、違う。


 唯愛は立ち止まり、短く息を吸った。


 今、ここで何か言うべきなのかもしれない。

 問いただすとか、責めるとか、そういうことじゃなくて。

 せめて、無視するなと。

 そう言ってもいいのかもしれない。


 でも、喉は動かない。


 言葉が、出ない。


 その代わりに、胸の奥で言葉だけが形になる。


 ――逃げてる。


 それは、あまりにも自然に浮かんだ。


 驚くほど、迷いなく。


 唯愛はその言葉を、しばらく飲み込んだまま立ち尽くす。


 ヤスナが何か言いたげに視線を寄越す。

 トバリは、やはりこちらを見ない。


 だからこそ、余計にはっきりする。


 逃げている。


 あの時、自分を抱き寄せたことから。

 あの名前を呼んだことから。

 そこに一瞬だけいた“誰か”を、自分の目で認めてしまったことから。


 全部まとめて。


 逃げている。


 唯愛は、ようやく小さく息を吐いた。


 口には出さない。


 でも、その認識だけが、胸の中で静かに定着していく。


 怖いのは、自分だけじゃない。


 揺れているのは、自分だけじゃない。


 それを知ってしまったことは、少しだけ救いで。


 同時に、どうしようもなく厄介だった。


 だって、もう。


 見ないふりでは済まないのだから。


 唯愛は視線を上げ、前にいるトバリの背中を見つめた。


 その背中は、少しも振り向かない。


 けれど。


 それでも、さっきよりははっきりと分かる。


 避けている。

 見ないようにしている。

 近づかないようにしている。


 それは全部、意識してやっていることだ。


 だったら――


 やっぱり、逃げている。


 唯愛は、誰にも聞こえないくらいの声で、ようやくそれを口にした。


「……逃げてる」


 その言葉は小さすぎて、風にもならなかった。

 けれど、自分の中には確かに落ちた。


 認識として。

 現実として。

 そして、次に進むための、最初の輪郭として。


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