第25話 重なる呼吸
# 第25話 重なる呼吸
静かだった。
何も変わっていないはずの通路。
同じ光。
同じ空気。
それでも。
昨日までとは、明らかに違っていた。
唯愛は歩きながら、息を整えようとする。
意識して、ゆっくりと。
吸って。
吐いて。
そのリズムを、保とうとする。
――でも。
揃う。
ぴたりと。
隣の呼吸と。
意識した瞬間に、ずれる。
外そうとした分だけ、不自然になる。
やめる。
もう、整えること自体をやめる。
それでも。
気づけば、また揃っている。
どうして。
考える前に。
身体が、そうしている。
唯愛は目を伏せた。
見ないようにする。
隣を。
そこにある気配を。
意識すればするほど、引き寄せられる。
だから。
見ない。
見ないでいれば、少しはましになる。
――ならない。
気配は消えない。
むしろ、はっきりする。
距離。
位置。
温度。
全部が、輪郭を持つ。
トバリは何も言わない。
歩幅も、変えない。
ただ、そこにいる。
それが逆に、逃げ場をなくす。
ヤスナは前を歩きながら、何も言わない。
見ている。
分かっている。
でも、何も言わない。
その沈黙が、余計に重い。
やがて。
通路が、分岐する。
左右に、細く。
ほとんど同じ形で。
「……どっちだ」
ヤスナが立ち止まる。
軽く言っただけ。
判断を委ねるように。
トバリが視線を巡らせる。
少しだけ間を置いて。
「……右」
そう言う。
根拠は、ない。
でも。
迷いもない。
唯愛は、その言葉を聞いた瞬間。
同時に、思っていた。
――右だ。
理由は分からない。
でも。
“そうするべきだ”と、分かる。
ヤスナが小さく笑う。
「はい一致」
軽く言う。
けれど。
その一言が、重く落ちる。
唯愛は何も言えない。
言えないまま。
右へ進む。
トバリと、同じ方向へ。
同じタイミングで。
歩き出す。
また。
揃う。
足音が。
呼吸が。
わずかな間が。
全部。
揃っていく。
意識しない方が、揃う。
意識すると、崩れる。
でも。
崩したくない自分が、どこかにいる。
――怖い。
なのに。
どこか、落ち着く。
その矛盾が、一番嫌だった。
通路の奥。
少し広い空間に出る。
石壁に囲まれた、簡素な場所。
中央に、何もない。
ただ、静かな空間。
「ここでいいか」
ヤスナが言う。
トバリも、何も言わない。
唯愛も、頷く。
自然に。
考えるより先に。
足が止まる。
そして。
また。
隣にいる。
トバリの。
当たり前みたいに。
そこにいる。
もう。
驚きもしない。
ただ。
受け入れている自分がいる。
それが、怖い。
唯愛はゆっくりと腰を下ろす。
トバリも、同じタイミングで座る。
呼吸が、重なる。
また。
ぴたりと。
合わせようとしていないのに。
自然に。
重なる。
唯愛は目を閉じた。
ダメだ。
このままじゃ。
でも。
どうすればいいか分からない。
その時だった。
トバリが、ぽつりと呟く。
「……何か、あるな」
同時だった。
「……ある」
唯愛の口からも、同じ言葉が出る。
重なる。
完全に。
ぴたりと。
沈黙が落ちる。
ヤスナが、ゆっくりと顔を上げる。
面白そうに。
「……はは」
小さく笑う。
「ここまで来たか」
唯愛は目を開ける。
何もないはずの空間。
でも。
分かる。
“ここに何かがある”。
見えないのに。
確信できる。
トバリも、同じだった。
視線が、同じ場所に向く。
同じタイミングで。
同じ角度で。
その瞬間。
視界が、揺れる。
重なる。
今じゃない景色が。
一瞬だけ。
差し込む。
柔らかい光。
近い距離。
当たり前の空気。
そこにいる誰か。
顔は見えない。
でも。
“そこにいる”と分かる。
唯愛の手が、動く。
無意識に。
自然に。
その誰かに触れるように。
――触れる。
感触はない。
でも。
触れた“はず”の感覚だけが、残る。
トバリも、同じだった。
指先が、わずかに動く。
同じ動き。
同じタイミング。
完全に。
揃う。
唯愛は、息を呑む。
怖い。
でも。
安心する。
その両方が、同時に来る。
逃げたい。
でも。
離れたくない。
手が、止まらない。
触れたまま。
そこにあるものを、確かめるみたいに。
その時。
トバリが、わずかに動く。
一歩。
近づく。
距離が、縮まる。
自然に。
当たり前みたいに。
唯愛は、動けない。
逃げるべきだと、頭は言う。
でも。
身体が、動かない。
そこにいることを、選んでいる。
そのまま。
距離が、重なる。
――触れそうになる。
その瞬間。
空間が、歪んだ。
音が遅れる。
光が揺れる。
足元が、わずかにずれる。
世界が、“おかしい”と主張する。
ヤスナが舌打ちする。
「やりすぎ」
その声で。
唯愛は、我に返った。
反射的に、後ろへ下がる。
一歩。
距離が、離れる。
同時に。
歪みが、収まる。
静寂が戻る。
何もなかったみたいに。
でも。
さっきの感覚だけが、残る。
触れたはずの距離。
そこにあった気配。
全部が、消えない。
唯愛は息を荒げる。
心臓が、うるさい。
「……今の」
声が震える。
何が起きたのか。
分かっている。
分かってしまう。
トバリも、同じだった。
何も言わない。
でも。
分かっている顔をしている。
それが、怖い。
ヤスナが笑う。
「ほらな」
軽く言う。
「近づくと壊れる」
事実だけを。
そのまま。
唯愛は、言葉を失う。
逃げ場が、また一つ減る。
否定できない現象。
誤魔化せない距離。
もう。
“偶然”じゃない。
はっきりと。
そう分かる。
唯愛は、ゆっくりと息を吐いた。
震えが、止まらない。
でも。
その奥にある感覚は、消えない。
安心。
懐かしさ。
触れた時の、あの自然さ。
全部が、残っている。
――嫌だ。
そう思うのに。
完全には、拒絶できない。
トバリが、静かに言う。
「……離れてた方がいいな」
短く。
それだけ。
唯愛は、何も言えない。
ただ。
頷くことしかできなかった。
でも。
分かっている。
離れても。
消えない。
この距離も。
この感覚も。
この関係も。
全部。
もう、戻らない。
静かに。
確実に。
進んでいる。




