第24話 この距離
# 第24話 この距離
静かだった。
昨日と同じはずの空気。
同じ通路。
同じ光。
なのに。
どこか、違っていた。
唯愛は足を止めかけて、やめる。
立ち止まったところで、何も変わらないと分かっているからだ。
――分かっている、はずなのに。
視線だけが、無意識に横へ流れる。
隣。
そこにいる気配を、確かめるみたいに。
トバリはいつも通りの顔で歩いている。
特別なことは何もしていない。
歩幅も、姿勢も、呼吸も。
全部、変わっていない。
なのに。
それを“変わっていない”と判断できている自分が、どこかおかしい。
昨日まで、こんなふうに気にしていなかった。
隣にいることも。
距離も。
呼吸も。
意識なんて、しなかった。
今は違う。
全部が引っかかる。
全部が、気になる。
全部が――
**分かってしまう。**
唯愛は小さく息を吐いた。
揃う。
ぴたりと。
トバリの呼吸と。
――まただ。
気づいた瞬間、わずかにズレる。
意識して外した。
でも、それが逆に不自然だった。
ヤスナが前を歩きながら、ちらりと振り返る。
「……息、揃ってるぞ」
「揃ってない」
反射的に返した。
自分でも驚くくらい早く。
ヤスナは肩をすくめる。
「そういうことにしとくか」
それ以上は言わない。
でも、見ている。
全部。
分かっていて、何も言わない。
その態度が、ひどく落ち着かない。
やがて通路が開ける。
昨日と同じ、小さな休憩所。
中央に浅い窪み。
底に溜まる淡い光。
「ここでいいか」
ヤスナが勝手に決める。
トバリも否定しない。
唯愛も、何も言わない。
ただ――
足が、勝手に動く。
中央を避ける。
壁際へ。
そして。
**その隣に、立つ。**
トバリの。
ぴたりと。
昨日と同じ。
いや。
昨日より、自然に。
そこにいる。
――なんで。
頭では分かっている。
まただ、と。
おかしい、と。
でも。
身体は、それを“正しい”と認識している。
「……座れば」
トバリが言う。
昨日と同じ言葉。
でも。
少しだけ、違う。
声が低い。
わずかに。
ほんの少しだけ。
唯愛は頷く。
言われるまま、腰を下ろす。
隣に。
自然に。
そこにあるべき場所みたいに。
トバリも、同じタイミングで座る。
間にある距離は、変わらない。
拳ひとつ分。
触れていない。
なのに。
――近い。
昨日よりも、はっきりと。
“ここが正しい”と感じてしまう。
唯愛は視線を落とす。
膝の上の自分の手。
わずかに震えている。
怖い。
でも。
それだけじゃない。
逃げたい。
でも。
逃げたくない。
矛盾が、静かに混ざる。
その時だった。
トバリの手が、わずかに動く。
ほんの、少し。
唯愛は反射的に、それを見た。
次の瞬間。
自分の手も、動いていた。
意識より、先に。
自然に。
迷いなく。
――差し出す。
何も持っていないのに。
何かを渡すみたいに。
その動きが、あまりにも滑らかで。
あまりにも自然で。
唯愛は、固まった。
なんで。
どうして。
こんな動き、知らない。
なのに。
身体が、知っている。
トバリが止まる。
視線が、唯愛の手に落ちる。
その一瞬の沈黙が、やけに長い。
「……何」
ようやく出た言葉。
唯愛は慌てて手を引いた。
「え……あ……」
言葉が出ない。
自分が何をしたのか、理解が追いつかない。
「……分かんない」
小さく、呟く。
それしか言えない。
トバリは、しばらく何も言わなかった。
ただ、見ている。
その視線が、逃げ場をなくす。
やがて。
「……そっか」
それだけ。
何も追及しない。
何も聞かない。
それが、逆に苦しい。
ヤスナが笑う。
「ほらな」
「うるさい」
また、反射的に返す。
自分でも、何に対して怒っているのか分からない。
ただ。
見られていることが、嫌だった。
全部。
分かっているみたいに。
そのまま、沈黙が落ちる。
誰も話さない。
何も起きていないはずなのに。
何かが、確実に変わっている。
唯愛は、そっと距離を取ろうとした。
ほんの少しだけ。
横へ。
離れるように。
――でも。
気づけば。
また、戻っていた。
同じ距離に。
同じ位置に。
当たり前みたいに。
――戻るな。
頭ではそう思う。
でも。
身体が、そっちを選ぶ。
逃げるより。
そこにいることを。
唯愛は目を閉じた。
呼吸を整えようとする。
でも。
また揃う。
トバリと。
ぴたりと。
――やめて。
そう思っても、止まらない。
その時。
トバリが、ぽつりと呟いた。
「……無理に離れなくていい」
低い声。
昨日と同じ。
でも、少しだけ違う。
唯愛は目を開ける。
「……え?」
「離れようとしてるでしょ」
言い当てられる。
何も言ってないのに。
何もしてないつもりなのに。
全部、見えているみたいに。
「……分かるの?」
思わず聞いてしまう。
トバリは少しだけ間を置いて。
「分かる」
短く答える。
それ以上は言わない。
でも。
それだけで、十分だった。
分かっている。
全部。
その前提で、そこにいる。
唯愛の胸が、強く鳴る。
怖い。
でも。
安心してしまう。
それが、何よりも怖い。
ヤスナが立ち上がる。
「はいはい、終わり」
軽く手を叩く。
「それ以上やると、また歪むぞ」
冗談みたいな口調。
でも、目は本気だった。
トバリが立つ。
唯愛も続く。
そして――
また。
隣に並ぶ。
自然に。
迷いなく。
そこにあるべき場所みたいに。
もう、止められない。
止めようとしても、戻る。
身体が、覚えている。
この距離を。
この位置を。
この関係を。
唯愛は、前を向いたまま小さく呟く。
「……これ」
声が、かすれる。
「……私じゃない」
でも。
その続きは、出なかった。
言えない。
否定しきれない。
だから。
ただ。
そのまま歩く。
隣にいるまま。
離れられないまま。
それが、当たり前みたいに。
静かに。
確実に。
変わっていく。




