第23話 名前を、呼びかけた
# 第23話 名前を、呼びかけた
風が、まだ残っていた。
奥から流れてくるそれは冷たいはずなのに、どこか柔らかい。頬を撫でるたび、胸の奥の何かがわずかに軋む。
結晶の光は落ち着きを取り戻しつつある。脈打つような揺らぎも、もうほとんど見えない。さっきまで歪んでいた空間が、ゆっくりと“元に戻ろうとしている”。
――でも。
唯愛の中だけは、戻っていなかった。
右手を握る。
熱はもうない。触れていたはずの感触も、表面からは消えている。
なのに。
指先の奥に沈んだものだけが、残っている。
どう触れるのが自然なのか。
どれくらいの距離が心地いいのか。
その“正解”だけが、身体の中に残っている。
知らないはずなのに。
分かってしまう。
「……まだ、ある」
小さく漏れた声に、自分で息を詰める。
認めたくなかった。
消えていてほしかった。
でも、消えていない。
その事実だけが、やけに重く残る。
通路の向こう側で、トバリがわずかに目を細めた。
何か言うかと思った。
けれど、その前に――境目が消える。
揺れていた膜のようなものが、音もなく薄れていく。最初からそこになかったみたいに、静かに。
道が、戻る。
ただ、それだけ。
なのに。
唯愛は、すぐに足を動かせなかった。
戻れる。
けど。
同じ場所には、戻れない。
その感覚だけが、はっきりしている。
「……戻るよ」
トバリの声が落ちる。
いつも通りの調子。
なのに、妙に平らだった。感情を削ぎ落として、形だけ残したみたいな声。
唯愛は一度、息を飲んでから頷く。
「……うん」
同時だった。
互いに、息を吸う。
互いに、止める。
ほんのわずかな一致。
それだけで、胸の奥が強く鳴った。
顔を上げる。
視線が、合う。
ほんの一瞬。
それだけなのに。
“知っている”が、増える。
――だめだ。
唯愛はすぐに目を逸らした。
見てはいけない気がした。
見続ければ、もっと分かってしまう。
ヤスナが鼻で笑う。
「空気悪」
軽い声音。
けれど、視線は笑っていない。
何も言わずに歩き出す。
トバリも続く。
唯愛も遅れて足を動かす。
石の床に、三つの足音が重なる。
先頭がヤスナ。
その後ろにトバリ。
さらに後ろに、唯愛。
数歩進んだところで、違和感に気づいた。
遠い。
距離は変わっていないはずなのに。
感覚だけが、“遠い”と言っている。
足が、勝手に速くなる。
一歩。
さらに一歩。
気づけば、手を伸ばせば届く位置にいた。
そこでようやく、止まる。
何してるの。
慌てて距離を取る。
でも今度は。
胸の奥が、空く。
おかしい。
こんなの、おかしい。
前を歩くトバリの肩が、ほんのわずかに強張る。
気づいている。
全部。
なのに、振り返らない。
何も言わない。
それが、苦しい。
通路が開ける。
小さな石室。
中央に、光を溜めた窪み。
水はない。
光だけが、静かに揺れている。
「少し休む」
ヤスナが壁にもたれかかる。
トバリも何も言わない。
唯愛は距離を取るように動く。
――はずだった。
気づけば。
隣にいた。
自然に。
当たり前みたいに。
そこにいる。
なんで。
移動した記憶はある。
でも、“そこに立つ理由”が分からない。
「……座れば」
トバリが言う。
短い。
それだけ。
唯愛は言われるまま腰を下ろす。
隣に、トバリも座る。
距離はある。
触れてはいない。
なのに。
近い。
空気が近い。
言葉にならない圧が、胸に溜まる。
視線を逸らす。
それでも、隣の気配は消えない。
トバリの手が見える。
膝の上で組まれた指。
力は入っていないようで、わずかに白い。
――ああ。
この人も、平気じゃない。
その認識が落ちた瞬間。
胸が、痛む。
どうして分かるの。
唯愛は窪みを見る。
光が揺れる。
その揺れに合わせて、何かが掠める。
断片。
光景。
感情。
形にならないまま、すり抜けていく。
その時。
トバリが、息を吐いた。
同時に。
唯愛も、吐いていた。
重なる。
ぴたりと。
唯愛は反射的に横を見る。
トバリも同じだった。
また、目が合う。
その瞬間。
胸の奥が、ほどける。
懐かしい。
あまりにも自然に。
それが、そこにあった。
――違う。
違う。
そう思った瞬間。
視界が、揺れた。
一瞬だけ。
今じゃない光景が、重なる。
やわらかい布。
夕方の光。
すぐ傍にいる、誰か。
見えない。
でも、分かる。
その人に、何かを渡そうとしている。
その距離が、当たり前みたいに馴染んでいる。
指が、自然に動く。
――違う。
知らない。
こんなの、知らない。
なのに。
身体が、知っている。
「……ねぇ、ト——」
こぼれた。
止めるより先に。
音が、出る。
その瞬間。
トバリの呼吸が、わずかに乱れた。
ほんの一瞬。
抑えきれなかったものが、滲む。
目が、揺れる。
――その揺れは。
今の自分に向けられたものじゃない。
唯愛は、凍りついた。
「……違う」
声が、弱い。
切り捨てる力がない。
「違う、今のは……」
言葉が続かない。
何を言おうとしたのか。
分かっているのに、認めたくない。
トバリは、何も言わない。
ただ、見ている。
その沈黙が、痛い。
ヤスナが口を開く。
「……そっち、出るか」
軽い声。
でも、逃げ道はない。
唯愛の心臓が強く鳴る。
“そっち”。
その言葉だけで、意味が分かってしまう。
分かってしまうことが、怖い。
「……もう遅いな、それ」
続けて、呟く。
否定を、切り捨てるみたいに。
唯愛は唇を噛む。
違う、と言いたい。
まだ決まってない、と。
でも。
さっきの音が、それを許さない。
身体が、知っている。
それだけで、十分だった。
「……やだ」
小さく零れる。
拒絶。
でも弱い。
消せないと、分かっているから。
トバリが、静かに言う。
「……無理に止めなくていい」
優しくない。
でも、確かだ。
「止めたって、消えないから」
唯愛の喉が詰まる。
「じゃあ……どうすればいいの」
ほとんど、祈りだった。
トバリは少しだけ間を置いて。
「……見失わないで」
低く言う。
「自分を」
それだけ。
それ以上は言わない。
でも。
それで十分だった。
唯愛は拳を握る。
怖い。
でも。
逃げられない。
ヤスナが立ち上がる。
「行くぞ」
軽く言って、先に歩き出す。
トバリが続く。
唯愛も、歩き出す。
気づけば。
また、隣にいた。
自然に。
当たり前みたいに。
そこにいる。
トバリは何も言わない。
否定もしない。
ただ、歩幅を合わせる。
それが、まずい。
身体が覚える。
この距離を。
この位置を。
唯愛は前を向いたまま、息を押し殺す。
ヤスナが振り返る。
「隠す気ある?」
「うるさい」
反射的に返す。
その声すら、どこか自然すぎた。
通路の影が伸びる。
二つの影が、近い。
離れていない。
その事実が、逃げ場を奪う。
やがて、扉が見える。
重い石の扉。
「開けるぞ」
ヤスナが手をかける。
唯愛は、扉を見ない。
隣の気配が、近すぎて。
喉の奥に、また音が浮かぶ。
さっきの続き。
最後まで出なかった名前。
出してしまえば、終わる。
分かっている。
それでも。
確かめたくなる。
唯愛は唇を噛む。
トバリの指が、わずかに動く。
触れない。
でも、触れかける。
その距離。
その躊躇。
全部が。
“知っている”。
扉が、開く。
冷たい空気が流れ出る。
ヤスナが入る。
トバリが続く。
唯愛も、一歩踏み出す。
その瞬間。
声にならない音が、胸を掠めた。
呼びかけようとした名前。
その残響だけが、確かに残る。
唯愛は胸を押さえる。
消えない。
消えるはずがない。
そう思ってしまう自分がいる。
それでも。
隣の気配から、離れたくないと思ってしまう。
その矛盾が、何よりも確かだった。




