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千年後の勇者召喚で再会した初恋の少女、だが本当に世界を救ったのは俺だった  作者: 暁牡丹


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第22話 消えない



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# 第22話 消えない


 呼吸だけが、やけに大きく聞こえた。


 誰も言葉を発しないまま、歪んだ空間の中に立ち尽くしている。さっきまで二重に聞こえていた足音も、遅れて揺れていた光も、少しずつ元に戻りつつある。けれど完全ではない。壁に埋め込まれた淡い結晶の明かりは、まだどこか鈍く、薄膜を隔てた向こうで瞬いているみたいだった。


 唯愛は自分の右手を見下ろした。


 指先が、熱い。


 もう触れていない。とっくに離したはずなのに、袖越しに伝わった感触だけが残っている。布の擦れた感覚。そこにあった体温。掴む強さまで、妙に鮮明だ。


 忘れたいのに、消えない。


「……まだ、変」


 口に出した途端、それが独り言ではなくなった。


「そりゃそうでしょ」


 気だるい声が、少し前から返ってくる。


 トバリは振り返らない。ただ足を止めたまま、肩越しにそれだけ言った。いつも通りの、投げやりにも聞こえる調子。けれど、いつもより少しだけ平らだった。感情の凹凸を、無理に均しているみたいに。


 唯愛はすぐに返事ができなかった。


 さっきまでなら、もう少し自然に言えたはずだ。軽く噛みつくことも、呆れた顔をすることもできたはずなのに、今は何をどう返せばいいのか分からない。


 何気ない声の距離さえ、定まらない。


「……歩ける?」


 数拍おいて、トバリがそう続けた。


 短い言葉。気遣いとしては最低限。けれどそれが逆に妙だった。もっとぞんざいに扱ってくることもできたはずだし、逆に踏み込んでくることもできたはずなのに、今のそれはどちらでもない。触れないようにしているのが、分かる。


 唯愛は喉の奥が少しだけ詰まるのを感じた。


「……うん」


 頷いて、それからすぐに言い足す。


「……たぶん」


 自分の声なのに、借り物みたいだった。


 トバリはそれ以上何も言わず、前を向いたまま小さく息を吐いた。安堵とも諦めともつかない、曖昧な音だった。


 ヤスナは少し離れた位置で、壁に肩を預けたまま二人を見ていた。口を挟むでもなく、急かすでもなく、ただ黙っている。その沈黙が妙に重い。全部見えているのに、あえて何も言わない人の沈黙だった。


 しばらくして、トバリが歩き出す。


 唯愛も遅れて足を動かした。


 石の床を踏むたび、足裏に伝わる冷たさがはっきりしていく。現実感を取り戻すには、それが一番早いはずなのに、なぜか身体の芯だけが現実に馴染まない。薄く膜を張られたみたいに、自分が自分から少し浮いている。


 数歩進んで、唯愛はまた右手を見る。


 何もない。


 けれど、そこにはまだ“残り方”があった。


 どう掴めば自然なのか。どれくらいの力なら嫌がられないのか。袖口に指をかける位置まで、身体が知っている。


 知っているはずがないのに。


 唯愛は指を握り込んだ。自分の爪が掌に食い込む。痛い。それで少しだけ落ち着くかと思ったが、だめだった。痛みは今ここにあるのに、残っている感覚はその外側にある。


「……なんで」


 思わず漏れた声に、前を歩いていたトバリの肩がほんのわずかに揺れた。聞こえたのだろう。けれど振り返らない。


 聞こえたのに、拾わない。


 それが今は妙に堪えた。


 優しくされるより、よほど苦しい。


 唯愛は唇を噛む。


 さっき、私は拒絶した。違うと口にした。私じゃないと、はっきり言った。なのに、どうしてまだここに残っているのだろう。追い出したはずのものが、胸の奥で静かに居座っている。


 感情ではない。


 もっと厄介な何かだ。


 触れたいと思った理由。近づいた距離。視線の置き方。言葉を失う前に手が伸びた、その自然さ。


 それが、“分かってしまう”。


 唯愛は自分でも気づかないうちに歩幅を変えていた。前を行くトバリとの間隔が、きっちり一定になる。近すぎず、遠すぎず。妙に収まりのいい距離。


 そのことに気づいた瞬間、ぞっとする。


 私は、今――何を基準にした?


 立ち止まりそうになって、けれど足は勝手にその距離を保ち続ける。


 怖い。


 でも、それ以上に。


 気持ちが悪いほど、しっくりくる。


「……消えない」


 今度は、はっきりと零れた。


 トバリがぴたりと足を止める。


 唯愛も反射的に止まり、顔を上げた。細い通路の先、淡い光の中で、トバリの横顔だけが見える。表情はよく分からない。けれどその沈黙が、さっきより深かった。


「何が」


 ようやく返ってきた言葉は、短かった。


 問いかけの形をしているのに、そこには追及の色がない。答えたくなければ、それで終われる余地を残している。


 唯愛は少しだけ息を吸った。


「……分かんない」


 先にそう言ってから、続ける。


「分かんない、けど……消えない」


 喉がひどく乾く。


「変な感じが。さっきの……あれが」


 自分の言葉がうまく足りない。何をどう言えばいいのか、本当に分からない。感情でも、記憶でも、声でもない。もっと曖昧で、もっと深いところにあるものだ。


 トバリは何も答えない。


 代わりに、ゆっくりと目を伏せた。


 その仕草を見た瞬間、唯愛の胸の奥に、説明できない痛みが走った。


 ――ああ、この顔を知っている。


 思った途端、背筋が冷える。


 違う。そんなはずない。知っているはずがない。なのに、その“知っている”は、確信みたいな形でそこにあった。目を伏せるのは、隠す時だ。何かを飲み込む時だ。言わないと決める時だ。


 どうして、そんなことが分かるの。


 唯愛が一歩後ずさろうとした、その時だった。


 床が、かすかに鳴る。


 ひびが入ったわけじゃない。崩れたわけでもない。ただ通路そのものが、静かに息をしたみたいに、足元の感触だけが変わった。


 ヤスナが顔を上げる。


「……来たか」


 小さな呟きと同時に、壁に埋まっていた結晶の光が一斉に脈打った。淡かったはずの光が、鼓動みたいな間隔で強弱を繰り返し始める。低い振動が足元から這い上がり、通路の奥で何かが擦れ合うような音がした。


 一本道だったはずの先が、揺れる。


 石壁が動く。音もなく、けれど確かに。


 左右に裂けるように、通路が分かれていった。


「……え」


 唯愛の声が、細く漏れる。


 さっきまで一つだった道が、二つになっていた。左はそのまま奥へ続く、緩やかな下り。右は少し幅が狭く、どこかひんやりとした空気を吐き出している。


 トバリは何も言わず、ただその変化を見ていた。


 ヤスナだけが、面白くもなさそうに鼻を鳴らす。


「露骨」


 唯愛は一歩、無意識に足をずらした。


 その瞬間だった。


 床の感触が変わる。自分が立っている場所だけが、わずかに沈み込んだように感じた。視界の端で光が揺れ、次の瞬間には自分が右の細い通路の入り口に立っていることに気づく。


「え……?」


 たった一歩しか動いていないはずなのに、距離が開いていた。


 トバリは左の通路側。唯愛は右。真ん中には、いつの間にか薄い光の膜みたいなものが揺れている。壁ではない。手を伸ばせば触れられそうなのに、触れたらひどく嫌なことになる気がした。


 思わずトバリを見る。


 追ってくるかと思った。


 けれど、来ない。


 ただじっと、唯愛を見ているだけだ。


「……来ないの?」


 口から出た瞬間、自分で驚いた。責めるような響きが混じっていたからだ。


 トバリの目が、ほんの少しだけ揺れる。


「今、そっちに行くのはまずい」


「なんで」


「壊れるから」


 あまりにも即答だった。


 その言葉だけが、不思議なくらい重く落ちる。


 何が、と聞こうとして、唯愛はできなかった。トバリの声が平坦すぎたからだ。冗談ではない。誤魔化しでもない。本当にそうなると知っている声音だった。


 唯愛の喉がきつく締まる。


 右の通路の奥から、風が吹いた。


 冷たい。けれど嫌な冷たさではない。どこか、ひどく懐かしい温度。夕暮れの終わりみたいな、優しくて寂しい風だった。


 その風が頬を撫でた瞬間、視界がぶれる。


 通路が、二重に見えた。


 今いる石造りの細い道と、別の場所。もっと明るい、けれど遠い光に満ちた回廊のようなものが、重なって見える。耳の奥で誰かの笑う気配がした。言葉にはならない。けれど温度だけが残る。


 唯愛は息を呑む。


 右手が、勝手に持ち上がる。


 見えているのは自分の手なのに、その動きが自分のものではないみたいだった。指先が空気を撫でる。誰かの袖を確かめるみたいに、丁寧な動き。


 違う。


 私は、こんなふうに手を伸ばさない。


 そう思うのに、身体は知っている。


 すぐそこに、誰かがいるみたいに。


「……っ」


 頭の奥が熱い。


 景色がまたぶれる。


 今度は、はっきりと二つになった。現在の石壁と、知らないはずの光景。柔らかい色の布。差し込む斜めの光。すぐ傍にある、誰かの気配。


 声がする。


 優しい声。


 でも言葉は拾えない。


 ただ、その声に向ける感情だけが流れ込んでくる。


 安心。親しさ。触れたら許される距離。何度も積み重ねた後の自然さ。


 唯愛の膝が震える。


「……違う」


 口にした途端、それが何に向けた言葉なのか分からなくなった。見えている景色に対してなのか。流れ込んでくる感覚に対してなのか。それとも、自分自身に対してなのか。


 右手はまだ宙にある。


 下ろしたいのに、下ろせない。


 その手の向こうに、確かに“誰か”がいる。


 見えないのに、分かる。


 そのことが一番恐ろしかった。


「これ……」


 喉が震える。


 息が浅い。


「これ、私が……感じてるんじゃ……」


 違う。


 そうじゃない。


 もっと直接的だ。


 胸の奥に落ちた言葉を、唯愛は震える声で形にする。


「……私が、やってる」


 言った瞬間、空気が凍った気がした。


 受け取っているだけじゃない。流れ込んでいるだけじゃない。今この手の動きも、距離の測り方も、息を止める間合いさえも、“自分の外から来たもの”として身体の内側で実行されている。


 私の中にある何かが、私として動いている。


 恐怖より先に、理解が来た。


 だから余計に、逃げ場がなかった。


「……やだ」


 拒絶の声は小さかった。


 けれど、さっきみたいな鋭さがない。ただ震えているだけだ。切り捨てるような力が、もうそこにはなかった。


 消えない。


 追い出せない。


 それどころか、少しずつ馴染んでいく。


 それが何より恐ろしい。


 左の通路の向こうで、トバリが微かに息を吐くのが見えた。


 来ない。


 助けない。


 けれど目を逸らさない。


 あまりにも静かなその在り方が、ひどく残酷だった。手を差し伸べてくれないのに、見捨ててもくれない。唯愛が一人でこれを越えるのを、最初から知っているみたいに。


 どうしてそんな顔をするの。


 問いかけたいのに、声にならない。


 ヤスナが二人の間に視線を往復させ、肩をすくめた。


「……あーあ」


 呆れたような、諦めたような声。


「そりゃ、混ざるよな」


 その一言だけが、やけに鮮明に響いた。


 混ざる。


 唯愛はその言葉を頭の中で繰り返す。


 混ざるって、何が。誰と誰が。そんなの、考えたくもない。けれど、今の自分の中の感覚には、その表現がひどくしっくりきてしまう。


 完全に他人ではない。


 でも、全部が自分でもない。


 境界が、曖昧になっていく。


 右手がようやく下りた。


 唯愛は自分の手首を左手で掴む。震えはまだ止まらない。けれど、さっきみたいにただ怖いだけではなかった。怖いのに、どこかで認め始めている自分がいる。


 それが、嫌だった。


 しばらくして、通路の脈動が静まっていく。結晶の光も落ち着きを取り戻し、左右に分かれていた道の境目が少しだけ薄くなった。


 今なら戻れるのかもしれない。


 そう思っても、唯愛はすぐには動けなかった。


 戻ったら、元に戻れるわけじゃない。


 もう知ってしまったから。


 自分の中に、自分一人ではない何かがあることを。


 それがトバリに触れる時だけ、あんなにも自然に動いてしまうことを。


 左の通路の先で、トバリが静かに言う。


「……唯愛」


 名前を呼ばれただけで、胸の奥がひどく軋んだ。


 自分の名前のはずなのに、それが今は確認みたいに聞こえる。お前はお前だと、そこで繋ぎ止めるための声みたいに。


 唯愛はようやく顔を上げた。


 トバリの表情は変わらない。けれど、瞳の奥だけが静かに揺れていた。何かを押し殺し、何かを待ち、何もかもを知った上で立っている人の目だった。


 その目を見た瞬間、また胸の奥に“知っている”が生まれかけて、唯愛は慌てて視線を外した。


 見てはいけない気がした。


 見たら、もっと分かってしまう。


 もっと、自分じゃないものが自分の中で形を持ってしまう。


 唯愛はそっと、自分の手を見る。


 さっきまで宙を撫でていた右手。何かを探すみたいに伸びていた指先。


 今はもう、ただの自分の手だ。


 でも。


 そこに残った感覚だけは消えていない。


 消えないまま、確かにここにある。


 唯愛は唇をきつく結ぶ。


 拒絶はできる。嫌だと言うこともできる。けれど、それで無くなるわけじゃない。切り離せるものなら、もうとっくに切れている。


 なのに残っている。


 自分の内側に、静かに沈んだまま。


「……これが」


 声が掠れる。


 誰に聞かせるでもなく、ただ零れた。


「……これが、私じゃないなら」


 続きは、すぐに出なかった。


 喉の奥で形になりかけた言葉を、唯愛は一度飲み込む。けれど飲み込んでも、問いそのものは消えない。むしろ、輪郭だけがはっきりしていく。


 右手を胸元に引き寄せ、唯愛はようやくその先を口にした。


「……じゃあ、これは……誰?」


 返事はなかった。


 けれど沈黙だけが、どこまでも深く落ちていく。


 答えがないからではない。


 たぶん、誰もがもう、その先にあるものを見ているからだ。


 見えていて、まだ口にしないだけで。


 通路の奥から、また風が吹く。


 今度はもう、唯愛は後ずさらなかった。


 怖いまま。


 分からないまま。


 それでも、その場に立っていた。


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