第21話 それは、私じゃない
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# ■第21話
静かだった。
――違う。
静か、というより。
音が、遠い。
足音が、少しだけ遅れて耳に届く。
自分の呼吸さえ、どこか外側で鳴っているみたいに感じた。
……おかしい。
唯愛は、ゆっくりと瞬きをした。
視界に映る石壁。
淡い光を帯びた結晶。
変わらないはずの光景。
なのに。
胸の奥が、わずかに軋む。
――懐かしい。
理由は、分からない。
ここに来たのは、初めてのはずだ。
知っているはずがない。
それでも。
この光。
この温度。
この空気の重さ。
全部が、知っている。
「……変、だな」
思わず、零れた。
誰に向けた言葉でもない。
ただ、自分の中に落とすような、呟き。
「何が?」
すぐ隣から、声が返る。
早い。
思考が追いつくより先に、返事が来た。
唯愛は、わずかに顔を上げる。
そこにいるのは――トバリ。
いつもと同じ、気怠げな表情。
変わらない距離。
変わらない温度。
なのに。
どこか、噛み合わない。
「……なんか」
言葉を探す。
うまく、掴めない。
「変な感じ、する」
それしか言えなかった。
トバリは、一瞬だけ目を細める。
ほんの、わずかに。
「そういう日もあるでしょ」
軽い調子で返す。
正しい。
間違っていない。
でも。
――違う。
それじゃない。
何かが、すり抜ける。
唯愛は、無意識に一歩だけ近づいていた。
理由は、分からない。
ただ。
この距離が、正しい気がした。
……正しい?
何が?
思考が追いつく前に、身体が動く。
手が、伸びる。
自然な動きだった。
あまりにも自然で。
自分でも、驚くほどに。
――触れた。
トバリの袖口。
指先が、かすかに布を掴む。
その瞬間。
世界が、止まった。
音が、消える。
光が、固まる。
空気が、凍りつく。
トバリが、動かない。
呼吸すら、止まっているように見えた。
……なんで?
唯愛の中で、何かがひび割れる。
今の動き。
今の距離。
今の触れ方。
全部が――
**知っている。**
でも。
知らない。
「……え」
声が、震える。
指先に残る感触が、生々しい。
温度。
硬さ。
距離。
全部が、“正解”みたいに馴染んでいる。
おかしい。
こんなの。
知らない。
「……なんで」
言葉にならない。
ただ、喉の奥で絡まる。
トバリが、ゆっくりと視線を落とす。
唯愛の手へ。
その動きが、妙に遅く見えた。
時間が、引き延ばされているみたいに。
……違う。
遅れている。
世界が。
足元で、影が揺れる。
ほんの一瞬、遅れて。
壁に映る影が、わずかにズレる。
音が、二重になる。
遠くで鳴ったはずの音が、今、届く。
――歪んでる。
空間が。
違う。
これは。
**おかしい。**
唯愛は、反射的に手を引いた。
指先が、離れる。
それだけで。
何かが、途切れた気がした。
胸の奥にあった“繋がり”が、ぷつりと切れる。
「……ちがう」
思わず、零れる。
自分に向けた否定。
違う。
違う。
これは。
「……ちがう」
もう一度。
今度は、はっきりと。
息が、乱れる。
胸が、苦しい。
何かが、入り込んでくる。
知らないはずのものが。
勝手に。
溢れてくる。
笑い方。
距離の取り方。
視線の置き方。
全部が。
“この人との関係”として、存在している。
でも。
それは。
**私じゃない。**
「これ……」
言葉が、震える。
喉が、拒絶する。
でも、出る。
「……私じゃ、ない」
空気が、重くなる。
トバリが、わずかに動いた。
一歩。
前へ。
それだけで。
唯愛の身体が、勝手に反応する。
――下がる。
理由なんて、分からない。
ただ。
怖い。
何が、怖いのかも分からない。
でも。
近づかれたくない。
「……っ」
息が詰まる。
視界が揺れる。
頭の奥で、誰かの声がする。
懐かしい声。
優しい声。
でも。
――知らない。
「……と……」
口が、勝手に動く。
音になりかけて。
止まる。
出してはいけない。
それだけが、分かる。
何を、言おうとしたのか。
考えた瞬間。
怖くなる。
――違う。
違う。
違う。
これは。
私じゃない。
私の感情じゃない。
私の記憶じゃない。
なのに。
どうして。
こんなにも。
“本物みたい”なんだ。
膝が、震える。
立っているのが、やっとだった。
トバリは、何も言わない。
ただ、そこに立っている。
動かない。
触れない。
距離を、詰めない。
その沈黙が。
余計に、苦しい。
全部、分かっているような顔をして。
何も、言わない。
それが。
怖い。
「……やだ」
かすれた声が、漏れる。
誰に向けたものでもない。
ただ。
拒絶。
その時。
少し離れた場所で。
ひとつ、息が漏れた。
「……ああ」
ヤスナが、壁にもたれたまま、目を細めている。
ずっと、見ていた。
最初から。
何も言わずに。
ただ、観測していた。
その視線が、ゆっくりと二人をなぞる。
重なる位置。
ズレた影。
歪んだ空間。
全部を、拾って。
繋げて。
理解する。
そして。
口元だけが、わずかに歪む。
「……最悪だな」
それだけだった。
説明はない。
補足もない。
ただ。
確信だけが、そこにあった。
静寂が、落ちる。
誰も、動かない。
唯愛は、その場に立ち尽くしたまま。
トバリを、見れない。
トバリは、何も言わないまま。
ただ、そこにいる。
ヤスナは、視線を外さないまま。
状況を、受け入れている。
歪んだ空間だけが。
わずかに、脈打つ。
近づけば、崩れる。
離れれば、保たれる。
そんな、不安定な均衡。
誰も、それを壊さない。
壊せない。
壊した瞬間。
何かが、決定的に戻らなくなると。
全員が、理解しているから。
だから。
何も、しない。
ただ。
立ち尽くす。
その沈黙が。
何よりも重く。
何よりも、確かな変化だった。
もう。
同じ距離には、戻れない。
誰も、言わないまま。
それだけが。
そこに、残った。




