第20話 届かなかった手
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# 第20話 届かなかった手
闇の通路に足を踏み入れた瞬間、温度が落ちた。
ひやりとした、というより。
何かが“抜けた”。
そんな感覚だった。
空気が薄いわけじゃない。呼吸もできる。けれど、そこにあるはずの気配が、どこにもない。風もない。揺れもない。音もない。
足を踏み出す。
感触はある。
だが、音が返ってこない。
踏んだはずの一歩が、世界に受け取られていないみたいだった。
「……静かすぎる」
ヤスナが低く言う。
その声だけが、やけに浮いて聞こえた。
「ああ」
短く返す。
喉の奥が、妙に乾く。
水が欲しいわけじゃない。
ただ、この空気に触れているのが不快だった。
奥へ進む。
闇は深い。
だが完全な暗闇じゃない。目が慣れてくると、わずかに輪郭が浮かび上がる。通路はまっすぐ続いているだけだ。変化はない。
なのに。
足が重い。
何かに引かれているわけでも、押されているわけでもない。ただ、前へ出す一歩一歩に、意味がある気がしてならなかった。
「……トバリ」
後ろから唯愛の声。
振り返る。
顔色はまだ戻りきっていない。目の奥に、さっきまでのものが残っている。消えきらないまま、沈んでいる。
「平気か」
「……うん」
間があった。
それでも、頷く。
嘘ではないが、余裕もない。
それでいい。
ここで平気なやつの方がおかしい。
前を向く。
通路の奥に、光が見えた。
赤い。
揺れている。
炎のようで、違う。
もっと濁っている。
血の色に近い。
胸の奥がざわつく。
嫌な予感、という言葉じゃ足りない。
もっと直接的な拒絶。
行くな、と。
見たくない、と。
そういうものが、内側から浮き上がってくる。
「……行くぞ」
それでも言う。
止まる理由はない。
止まれる場所でもない。
歩き出す。
赤い光が、少しずつ大きくなる。
空気の匂いが変わる。
焦げた匂い。
それに、鉄の匂い。
鼻の奥に残る、嫌な感じ。
喉がさらに乾く。
数歩。
もう数歩。
通路の終わりが近づいた、その瞬間。
世界が剥がれた。
音もなく。
壁が崩れるでもなく。
ただ、そこにあったものが、薄く剥がれて消える。
その向こうから、別の景色が流れ込んできた。
熱はない。
だが、焼けていた。
ひび割れた地面。
崩れた建物。
空は赤黒く濁り、どこまでも低く垂れ込めている。
風は吹いていない。
なのに、灰だけがゆっくりと舞っている。
終わっている場所だった。
何も残っていない。
何も生きていない。
「……っ」
唯愛が息を呑む。
ヤスナも、言葉を失っている。
俺は、動かなかった。
視線の先。
そこに、立っている。
金色の髪。
血に濡れた衣。
手に握られているのは――太刀。
刃が赤く染まっている。
だが、その手にはもう力が入っていない。
落ちないだけだ。
ただ、それだけ。
「……タマモ」
唯愛の声が、震える。
違う。
今の俺じゃない。
もっと前だ。
全部を失った直後の、俺。
動いていない。
ただ、立っている。
目の前を見たまま。
視線を落とす。
そこに――いる。
黒い髪の少女。
血に濡れた体。
崩れるように地面に伏し、もう動かない。
呼吸もない。
声もない。
ただ、そこにある。
終わったものとして。
「……いや」
唯愛の声が掠れる。
だが、止まらない。
時間が、ゆっくりと動き出す。
いや。
流れているんじゃない。
繰り返されている。
あの瞬間が、そのまま。
何度でも。
目の前の“俺”が、一歩踏み出す。
遅い。
ひどく遅い。
分かっている。
もっと早く動けたはずだと、何度も思った。
それでも、その時の俺はこれが限界だった。
分かっているのに。
「……っ」
胸の奥が軋む。
足が、勝手に一歩出そうになる。
止める。
ここで踏み込めば、引きずられる。
分かっている。
分かっているのに。
目の前の“俺”が膝をつく。
ゆっくりと。
崩れるように。
太刀が地面に触れる。
乾いた音。
その音だけが、やけに大きく響いた。
手が伸びる。
震えている。
触れる。
その瞬間。
冷たい。
分かる。
自分のことみたいに。
いや、違う。
“自分のもの”だからだ。
「……っ」
唯愛が息を詰める。
肩が大きく揺れる。
視線は逸らさない。
逸らせない。
流れ込んでいる。
感情が。
そのまま。
絶望が。
喪失が。
理解が、遅れてやってくる。
終わっている、という事実が。
“俺”の口が動く。
声は聞こえない。
けれど、分かる。
呼んでいる。
何度も。
同じ名前を。
返ってこないのに。
それでも。
何度も。
「……やめろ」
気づけば、呟いていた。
意味なんてない。
それでも言わずにいられない。
呼ぶな。
そんなふうに。
その名前を。
唯愛が一歩踏み出す。
腕を掴む。
「っ」
細い腕が震える。
「行くな」
「でも……」
「……行くな」
強く言えない。
言い切れない。
それでも、離さない。
ここで触れれば、もっと深く繋がる。
それだけは避ける。
「……なんで」
唯愛が泣きながら言う。
「なんで、こんなの……」
言葉が続かない。
分かる。
理解しきれないまま、感じてしまっている。
ヤスナが、低く呟く。
「……逃げ場、ないね」
軽さはない。
ただの事実として言っている。
その通りだ。
逃げ場なんてない。
目の前で、“俺”が少女の頬に触れる。
血がつく。
それでも構わず、もう一度呼ぶ。
何も返らない。
瞳は閉じたまま。
唇も動かない。
何も。
何一つ。
返ってこない。
「……っ」
唯愛の呼吸が崩れる。
膝が落ちる。
それでも、倒れない。
手をついて、耐える。
逃げない。
その視線の先で、“俺”は止まった。
それ以上、動けない。
抱き上げることもできない。
ただ、そこにいる。
そのまま。
時間だけが、過ぎていく。
いや。
過ぎていない。
止まっている。
あの瞬間で。
唯愛が、震える声で言う。
「……この人……」
続かない。
言葉にならない。
それでいい。
全部言葉にしなくていい。
その方が、まだ壊れない。
俺は目を逸らさないまま、低く言った。
「……見ろ」
唯愛が、こちらを見る。
「最後まで」
声が、少しだけ掠れる。
「途中でやめるな」
静かに。
強く。
「全部、見ろ」
唯愛は震えていた。
怖いに決まってる。
それでも。
ゆっくりと、頷いた。
「……うん」
弱い声。
だが、逸らさない。
ヤスナも何も言わない。
そのまま、見ている。
“俺”が、もう一度少女の名前を呼ぶ。
届かない。
それでも呼ぶ。
何度も。
何度も。
やがて。
動かなくなる。
呼ぶことすらやめる。
ただ、そこにいる。
何も持たず。
何も残らず。
その姿だけが、やけに重かった。
景色が、揺れる。
空にひびが入る。
大地が崩れる。
終わる。
再生が。
最後に、“俺”が顔を上げた。
こちらを見る。
気がした。
目が合ったような錯覚。
次の瞬間、すべてが崩れた。
赤い空が砕ける。
灰が光に変わる。
少女も、“俺”も、全部が粒になって消える。
――静寂。
気づけば、通路に戻っていた。
冷たい空気。
死んだような静けさ。
誰も、すぐには動かなかった。
唯愛はその場に膝をついたまま、呼吸を整えている。
涙は止まっていない。
それでも、目は逸れていない。
ヤスナも黙っている。
やがて、小さく言った。
「……きついね」
それだけだった。
それで十分だった。
俺は、壁に手をつき、ゆっくり息を吐く。
胸の奥に、さっきの感触が残っている。
冷たい。
消えない。
消えるはずもない。
唯愛が、ゆっくり顔を上げた。
「……トバリ」
声が震えている。
「さっきの……」
言葉が途切れる。
最後まで言わせない。
「今は考えるな」
低く言う。
唯愛が目を見開く。
「でも」
「……今は、だ」
それ以上言わせないように、続ける。
「ここで止まるな」
ヤスナが周囲を見る。
「……来るね」
通路の奥。
闇の中で、何かが動く。
さっきまでとは違う。
もっと近い。
もっと直接的な気配。
冷たい風が吹く。
その奥に、階段が見えた。
下へ続いている。
光はない。
ただ、暗い。
深い。
唯愛が息を呑む。
「……まだ、あるの」
「ああ」
短く答える。
終わっていない。
ここから先がある。
逃げたい。
そう思う。
だが、足は止まらない。
止められない。
「……行くぞ」
そう言って、階段へ足をかける。
一歩。
また一歩。
下るたび、温度が落ちていく。
背後に、二つの気配。
そして。
もう一つ。
ひたり、と。
すぐ後ろで、別の足音が混じった気がした。
振り向く。
誰もいない。
闇だけ。
だが。
そこに“いる”。
見ている。
待っている。
ようやく来たな、と。
そんなふうに。
背筋が冷える。
俺は前を向いた。
この先にあるのは、優しさじゃない。
ただの現実でもない。
もっと深い。
もっと触れたくないもの。
階段の下の闇が、口を開けていた。
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