第19話 選ばなかった未来
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# 第19話 選ばなかった未来
広間に足を踏み入れた瞬間、空気が変わった。
さっきまでまとわりついていた重さが、ふっと薄くなる。楽になったわけじゃない。むしろ逆だった。何か大事なものだけが、音もなく削り取られていくような、妙な不安がある。
白い石でできた円形の広間。
高い天井。
何もない中央。
見た目はそれまでと変わらない。なのに、ここだけ世界の厚みが違っていた。
足音が遠い。
自分で踏みしめているはずなのに、どこか別の場所で鳴っているみたいに遅れて聞こえる。
「……変な感じ」
唯愛が小さく呟いた。
その声は少しかすれている。呼吸もまだ浅い。けれど、さっきみたいに感情に押し潰されているわけじゃない。胸の奥に残ったものを抱えたまま、どうにか立っている。そんな顔だった。
「さっきと違う」
「ああ」
俺は短く答えた。
「ここは、たぶん次の層だ」
「次って……」
唯愛が俺を見る。
横からヤスナが口を挟んだ。
「追憶の次、ってこと?」
「たぶんな」
確信に近い。
この空気は記憶そのものじゃない。もっと曖昧で、もっと質が悪い。事実じゃなく、願いや悔いが形になって漂っている感じがする。
「……戻るなら今かもね」
珍しくヤスナがそう言った。
俺はそちらを見ずに返す。
「お前がそんなこと言うの、意外だな」
「だって、これはさすがにね」
ヤスナは広間の中央を見つめたまま続けた。
「事実を見るのはまだいい。でも、“こうだったかもしれない”ってやつは、人を壊す」
その言葉に、唯愛の肩がわずかに揺れた。
俺は黙る。
分かっている。
分かっているから、踏み込みたくなかった。
けれど。
「……行く」
そう言ったのは、唯愛だった。
俺でもヤスナでもない。
彼女はまだ少し顔色が悪い。なのに目だけは逸れていなかった。
「怖いけど、ここで止まったら駄目な気がする」
「唯愛」
「分かってる。危ないのも、嫌なもの見せられるかもしれないのも」
そこで言葉が切れる。
少しだけ息を整えてから、唯愛は静かに続けた。
「でも、さっき感じたもの……あれで終わりじゃない」
その一言に、空気がかすかに揺れた。
塔が耳を澄ませたみたいだった。
「……そうだな」
否定はできない。
18話で流れ込んできた孤独も、痛みも、好きだという感情も、あれだけで終わるはずがない。あそこまで強く残っているなら、その先にあるものもある。
「じゃ、決まりだね」
ヤスナが言う。
軽い調子に戻っていたが、目は鋭い。
「壊れるなら見届ける」
「縁起でもないこと言うな」
「可能性の話だよ」
「笑って言うな」
「笑ってないと、こういうの飲まれるから」
それには言い返せなかった。
俺は広間の中央へ歩き出す。
二人分の足音が遅れて続いた。
中心に近づくにつれて、床の感触がさらに曖昧になる。石の上を歩いているはずなのに、水の膜を一枚挟んでいるようだった。
嫌な予感しかしない。
その時。
どくん、と。
足元から明確な脈動が伝わった。
床に細い光が走る。複雑な紋様が円を描き、三人の足元をつなぐ。
「……っ」
唯愛が息を呑む。
ヤスナが一歩引こうとして、間に合わなかった。
世界が反転する。
白い光に包まれたわけじゃない。
むしろ、色がめくれた。
広間も壁も天井も、薄い膜みたいに剥がれて消える。輪郭が溶け、その向こうから別の景色が流れ込んできた。
草の匂い。
水の音。
やわらかな日差し。
風が頬を撫でる。
目を開いた時、そこはもう塔の中じゃなかった。
「……何だ、ここ」
自分でも驚くほどかすれた声が漏れる。
森の中だった。
高い木々の隙間から光が差し込み、木漏れ日が地面をまだらに照らしている。少し先には小川が流れ、その向こうには煙の上がる家々が見えた。小さな村か、集落か。少なくとも、さっきまでの薄暗い広間とは何もかも違う。
「綺麗……」
唯愛が呟く。
その声には、思わず見惚れてしまうような柔らかさがあった。
だが、俺はそう思えなかった。
胸の奥がざわつく。
この空気を、俺は知っている気がした。
「……やめろよ」
思わず漏れる。
「トバリ?」
唯愛が振り向く。
俺は答えず、視線の先を見た。
開けた草地がある。
その真ん中に、二人の人影が立っていた。
一人は金色の髪を持つ狐人の女。
そして、その隣にいるのは――
「……っ」
息が詰まる。
黒い髪。
細い肩。
やわらかく笑う横顔。
名前を呼ぶことすら、今はできなかった。
ただ、一目で分かった。
「……これ」
ヤスナが低く呟く。
「もしも、か」
その通りだった。
記憶じゃない。
事実でもない。
叶わなかった願いの形だ。
それでも、あまりにも鮮やかだった。
少女が小川の方を見て、振り返る。
「見て、すごく綺麗」
狐人の女――タマモが、少し面倒そうに目を細めた。
「そんなにはしゃぐなよ」
「いいじゃん。綺麗なものは綺麗なんだから」
「まあ……それはそうだけど」
その声に、胸の奥が大きく揺れた。
女王の口調じゃない。
もっと低くて、もっと素っ気なくて、でもどこか優しい。
今の俺より、少しだけ若い。
まだ千年の重みを背負う前の、素のままのタマモだった。
「ねえ」
少女は笑う。
「これが終わったら、今度はちゃんと旅しようよ」
「今それ言う?」
「今だから言うの」
「お前ほんと急だな……」
「だって、まだ行ってない場所いっぱいあるし。海とか、山とか、雪の国とか」
タマモは小さく息を吐く。
「お前、移動だけで絶対途中で倒れるだろ」
「倒れないもん」
「信用できない」
「ひどい」
そう言いながら少女は笑っていた。
その笑顔が、何の曇りもなくて。
見ていられないのに、目が逸れない。
こんな時間、実際にはほとんどなかった。
だから分かる。
これは塔が見せている“あり得たかもしれない未来”だ。
戦いの合間に零れた願いと、口に出せなかった約束を、勝手に形にした幻。
それでも。
それでも、眩しすぎた。
「……こっちがよかった」
唯愛がぽつりと呟く。
振り向くと、彼女は涙をにじませながらその景色を見つめていた。
「このまま、ずっと笑っていられたなら……」
その言葉が、鋭く胸に刺さる。
やめろ。
そう言いたいのに、声が出ない。
少女は草の上にしゃがみこんで、小さく手を伸ばした。
「じゃあ約束」
「何が」
「旅」
タマモは少しだけ眉を寄せる。
「まだ諦めてなかったのか」
「当たり前でしょ。今度こそ、戦うためじゃなくて遊ぶために行くの」
「……分かってるって」
「ほんとに?」
「ほんとに」
「じゃあ絶対」
差し出された小さな手。
その仕草に、心臓が嫌な音を立てた。
約束。
そんなもの、いくつ交わした。
守れなかったものばかりじゃないか。
タマモは少しだけ困ったように笑って、それでもその手に自分の手を重ねた。
「分かったよ。約束」
「よし」
少女が嬉しそうに笑う。
それだけだ。
それだけの光景なのに、どうしてこんなに苦しい。
命懸けの別れより、世界を賭けた戦いより、こんな何気ない約束の方がよほどきつい。
普通の未来だったからだ。
叶っていれば、たぶんありふれていたはずの日々だからだ。
「……何で」
気づけば口から漏れていた。
「何で、こっちじゃない」
誰に向けた言葉か、自分でも分からない。
塔か。
運命か。
それとも、自分自身か。
少女の声がまた聞こえる。
「帰ったら甘いもの食べたいな」
「さっき食べたばっかだろ」
「別腹」
「便利な言葉だな」
「タマモも食べる?」
「いらない」
「絶対あとで一口ちょうだいって言う」
「言わない」
「言うって」
軽いやり取り。
他愛もない日常。
それが一番きつい。
失ったのが誰かの命だけじゃなく、その先にあったはずの普通の時間だったと、突きつけられるからだ。
「……やめろ」
今度は幻に向かって言っていた。
向こうにこちらの声は届かない。
分かっている。
それでも言わずにいられなかった。
「こっちの方がいいのに」
唯愛がまた呟く。
「このままなら、誰も苦しまないのに」
「違う」
即座に否定していた。
唯愛が目を見開く。
「トバリ……?」
「それは、存在しない」
声が荒くなる。
「こういうのは、失ったあとだから綺麗に見えるだけだ」
「でも……」
「でもじゃない」
止められなかった。
「選ばれなかった未来が、全部正しかったなんて思うな」
言い切った瞬間、景色がかすかに揺れた。
森の色がぶれる。
少女の笑顔の向こうに、別の光景がちらつく。
血。
崩れ落ちる体。
伸ばした手。
届かなかった指先。
「……っ」
息が詰まる。
視界が一瞬で冷えた。
「トバリ!」
唯愛の声が、急に近くなる。
気づけば足元がふらついていたらしい。森の景色と現実の広間が二重に重なって、吐き気がするほど気持ち悪い。
「……大丈夫だ」
そんなわけがない。
自分でも分かるくらい、声が死んでいた。
ヤスナが静かに言う。
「なるほどね」
反射的に睨みつける。
「何がだ」
「取り戻したいもの、なんだ」
その声に軽さはなかった。
観察して、理解した者の目だ。
「だから怒ってる。悲しいっていうより、見せられること自体に腹が立ってる」
「……」
「こんなの本物じゃないって、分かってるから」
何も言い返せなかった。
その通りだった。
悲しいだけなら、まだ耐えられた。だが今の俺は、それ以上に腹が立っていた。手に入らなかった願いを、今さら綺麗な形で差し出してくる塔のやり方が、どうしようもなく気に食わなかった。
「トバリ」
唯愛が不安そうに名前を呼ぶ。
その声で、ようやく少しだけ頭が冷えた。
だめだ。
ここで感情を見せすぎれば、また塔に食われる。
俺は長く息を吐いた。
「……これは罠だ」
できるだけ平坦に言う。
「感情を寄せて、判断を鈍らせるための」
ヤスナが頷く。
「しかも一番効くやつ」
「だから飲まれるな」
自分に言い聞かせるように続ける。
「ここで立ち止まったら終わる」
唯愛はすぐには返事をしなかった。
まだあの景色を見ている。
森の中で笑う二人。
叶うはずだったかもしれない時間。
しばらくしてから、彼女は小さく言った。
「……でも、綺麗だった」
その一言に、また胸が痛んだ。
綺麗だった。
そうだろう。
だからこそ質が悪い。
「だから危ないんだ」
それだけ返した。
次の瞬間、幻の景色が大きく揺れた。
森がかすむ。
少女の笑顔が遠ざかる。
タマモの姿も光の粒みたいに崩れていく。
消える。
全部。
最初からなかったみたいに。
唯愛が息を呑み、一歩踏み出す。
「……っ」
だが、届かない。
伸ばした指先は空を切る。
そのまま世界が反転した。
足元の石の感触が戻る。
白い広間。
薄暗い空気。
現実だ。
だが、さっきよりずっと冷えている。
誰もすぐには動かなかった。
それぞれ違うものを失ったみたいに、しばらく黙っていた。
やがてヤスナがぽつりと言う。
「次、たぶん優しくないね」
「ああ」
俺も短く返す。
さっきのはまだ優しかった。
塔が本当に見せたいのは、その先だ。
起こらなかった幸福じゃない。起きてしまった現実の方。
「……トバリ」
唯愛がゆっくりこちらを見る。
「さっきの子」
言わせたくなくて、先に言葉を重ねる。
「今は考えるな」
「でも」
「考えるな」
強く言うと、唯愛は黙った。
納得していない顔だったが、それ以上は踏み込まない。
今はそれでいい。
広間の奥から、冷たい風が吹いた。
さっきまでなかった通路が、闇の中に口を開けている。下へ続いているらしい。光はない。ただ、見ているだけで胸の奥がざわついた。
そこにある。
答えの続きが。
俺が本当に見たくなかったものが。
「……行くぞ」
そう言って、俺は闇を見据えた。
今度こそ綺麗じゃないものが来る。
分かっている。
分かっていても、足を止めるわけにはいかなかった。
背後で唯愛が小さく息を整える。ヤスナはもう何も言わない。ただ、静かに目を細めていた。
塔の奥から、誰かの気配がする。
待っている。
ずっと前から。
俺たちがここへ辿り着くのを。
それが、たまらなく気持ち悪かった。
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