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千年後の勇者召喚で再会した初恋の少女、だが本当に世界を救ったのは俺だった  作者: 暁牡丹


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第18話 その感情は、誰のものだ


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# 第18話 その感情は、誰のものだ


 四つ目の影が動いたあと、しばらく誰も口を開かなかった。


 壁に映った影は、もう何事もなかったみたいに静止している。だが、さっき確かに見た。俺たちの動きと無関係に、あの影だけが一歩前へ出た。しかも、唯愛の影が手を上げた。本人は微動だにしていないのに、だ。


 沈黙が重い。


 塔の中は相変わらず静かだった。静かすぎて、自分たちの呼吸音だけがやけに耳につく。そのくせ足音は半拍遅れて返ってくる。現実が薄くずれているみたいで、感覚が落ち着かない。


「……今の、見たよね」


 最初に口を開いたのはヤスナだった。


 声は低いが、怯えているわけではない。むしろ観察者のそれだ。珍しい現象を目の前にして、恐怖より先に興味が立つ。そんな響きがある。


「見間違いじゃない」


 俺がそう返すと、ヤスナは小さく笑った。


「だよね。よかった。私だけじゃなくて」


「よくねえよ」


「でも面白い」


「本音が漏れてるぞ」


「半分だけ本音」


 半分で済むのか、それは。


 そう思ったが、口には出さない。今はヤスナの危うさに付き合っている場合じゃない。問題は唯愛の方だった。


 彼女はまだ壁を見つめていた。いや、壁の向こうを見ているようでもあった。視線の焦点が曖昧で、何かに引かれるように立ち尽くしている。


「唯愛」


 呼ぶ。


 反応がない。


「……唯愛」


 少し強めに呼ぶと、ようやく肩がぴくりと震えた。


「え……?」


「大丈夫か」


「……わかんない」


 かすれた声だった。


 顔色が悪い。頬の血の気が引いている。けれど、青ざめているというより、内側に何かを飲み込まれているみたいな顔だった。


 俺は一歩近づく。


「無理するな。気分が悪いなら戻る」


「ちがう」


 即答だった。


 だが、その声には力がない。


「気分が悪いのとは……ちょっと違う」


 唯愛は胸元をぎゅっと押さえた。呼吸を整えようとしているのに、うまくいっていないのが分かる。細い肩が小さく上下する。


「じゃあ何だ」


 問いかける。


 唯愛はすぐには答えなかった。


 答えようとして、言葉が見つからない。そんな沈黙だった。


 やがて、絞り出すように言う。


「……重いの」


「重い?」


「胸の奥が。ずっと、下に引っ張られてるみたいで……でも、それだけじゃなくて」


 言いながら、彼女は困ったように眉を寄せる。


「変なの。怖い、とは違うのに、すごく苦しい」


 そこで言葉が切れた。


 俺は息を吐く。


 来たか、と思った。


 この塔は、ただ景色を見せる場所じゃない。もっとたちが悪い。魂の表面を撫でて、奥底に沈んでいるものを無理やり浮かび上がらせる。記憶だけならまだいい。問題は、感情まで引きずり出してくることだ。


 それも、本人のものとは限らない。


「ねえ」


 唯愛がぽつりと呟いた。


「なんで、こんなに寂しいの……?」


 その瞬間、背筋が冷えた。


 ヤスナが隣でわずかに目を細める。だが何も言わない。下手に言葉を挟めば、今この場で起きていることの輪郭を、本人に認識させてしまうと分かっているんだろう。


 俺もすぐには答えなかった。


 答えられなかった、が正しい。


 その感情に覚えがありすぎたからだ。


 寂しい。


 それは軽い言葉じゃない。ただ一人で取り残され、何かを待ち続け、それでも届かないと知ってなお消えなかった感情の底にあるものだ。孤独。喪失。執着。願い。諦めきれない未練。そういうものが全部沈殿した先に残る、重くて冷たい感情。


 それを唯愛が口にした。


 しかも、自分のものみたいに。


「……トバリ」


 ヤスナが小さく呼ぶ。


「これ、第2層でしょ」


「ああ」


 短く返す。


 違和感の層は、もう過ぎたらしい。ここからは追憶の層。記憶や感情の断片が、形を持って流れ込んでくる領域だ。


「早くない?」


「唯愛が鍵になってるなら、むしろ早いくらいだ」


「へえ」


 ヤスナはそこで初めて、はっきりと唯愛を見た。


 試すような、測るような目だ。


「ほんとにそういう存在なんだ」


「言葉にするな」


「してないよ。まだ」


 まだ、か。


 その一言だけで十分危うい。


 俺は唯愛に視線を戻した。


 彼女はもう壁を見ていなかった。代わりに、何もない宙を見つめている。瞳が揺れている。そこに映っているのはこの塔の通路じゃない。別の何かだ。


「唯愛」


 呼びかける。


 今度は返事があった。


「……ねえ、あの人」


 あの人。


 その呼び方に、心臓が妙にざわついた。


「誰のことだ」


「わかんない。でも」


 唯愛はひどく遠いものを見る目で言った。


「ずっと立ってる」


 空気がわずかに歪む。


 その瞬間、視界が揺らいだ。


 白い石壁が薄く透け、その向こうに別の景色が滲む。赤く濁った空。乾いた大地。割れた地面。朽ちた何かの残骸。吹いてもいないのに、砂だけが舞っている。


 塔の中じゃない。


 だが、この塔の奥に眠っている景色だ。


 俺は舌打ちしそうになるのを堪えた。


 この感覚は最悪に近い。直接見せるんじゃない。まず気配を流し込み、次に感情を移し、そのあとで景色を重ねる。逃げる間もなく、理解する順番だけを丁寧に作ってくる。


 悪趣味だ。


「……一人で?」


 ヤスナが妙に静かな声で尋ねた。


「うん」


 唯愛が答える。


「ずっと、一人」


 俺は目を閉じかける。


 だめだ。そこは掘るな。


 だが、止まらない。


 唯愛の肩が小さく震えた。次の瞬間、彼女はその場に膝をついた。


「っ、は……」


「唯愛!」


 反射的に手を伸ばしかけて、寸前で止める。


 触れればもっと深く繋がる。そう直感した。ここで感情を共有したまま接触したら、流れ込み方が段違いになる。


 だが止めたところで、苦しそうなのは変わらない。


 唯愛は片手で床を支え、もう片方で胸を押さえていた。息が浅い。涙が滲んでいる。


「苦しい……」


 かすれた声が漏れる。


「なんで……こんな……」


「見るな」


 低く言う。


「今はそれ以上、追うな」


「追ってない……っ」


 唯愛は苦しそうに顔を上げた。


「勝手に、入ってくるの……」


 その言葉に、ヤスナがかすかに息を吐く。


「なるほど。見てるんじゃなくて、流し込まれてる」


「分かってるなら黙ってろ」


「黙ってるよ。でも、これ記憶じゃないね」


 ヤスナはわずかに口元を歪める。


「記憶ならもっと映像が先に来る。これは逆だ。感情が先に来て、そこに意味が後からついてる」


 正しい。


 だから余計に腹が立つ。


 俺が理解していることを、こいつもかなりの精度で読んでいる。しかも楽しんでいる節があるからなお悪い。


「この塔、ほんとに性格悪いね」


 ヤスナが呟いた。


「一番痛いところから開けてくる」


「……笑えない冗談だ」


「冗談じゃないよ」


 そう言ってから、ヤスナは少しだけ真面目な顔になる。


「でもたぶん、これ序章だね。唯愛が反応してるってことは、もっと深いのがこの先にある」


 俺は答えなかった。


 言われなくても分かる。


 問題は、その“もっと深いもの”に唯愛を近づけていいのかどうかだ。


 否。


 近づけたくないに決まってる。


 だが、もう遅い。


 感情が繋がっている以上、ここで引き返しても終わらない。むしろ中途半端に切れば、後から別の形で噴き出す可能性すらある。


「……トバリ」


 唯愛が震える声で呼ぶ。


 俺はしゃがみこまず、そのままの位置で応じた。


「なんだ」


「この人……」


 そこでまた言葉が詰まる。


 俺は息を殺した。


 塔の中の空気がさらに重くなる。壁の白い石に、淡い脈動のようなものが走った気がした。塔そのものが、次の言葉を待っている。そんな錯覚を覚える。


「この人、待ってる」


 ようやく唯愛が言った。


「ずっと、誰かを……」


 その言葉に、胸の奥が鈍く痛んだ。


 待っていた。


 それはそうだろう。


 何を失ったのか。何を置いてきたのか。何を諦めきれなかったのか。全部分かっている。分かっているからこそ、そこを見られたくなかった。


「……違う」


 気づけば口から漏れていた。


 唯愛が顔を上げる。


「え……?」


「待ってるんじゃない」


 自分でも驚くくらい低い声だった。


「待つしかなかっただけだ」


 言った瞬間、失敗したと思った。


 言いすぎた。


 否定するならもっと平坦に切るべきだった。なのに今のは、感情が混ざっている。


 唯愛の瞳が揺れる。


 聞いてはいけないものを聞いたような顔だった。


 ヤスナだけが、静かに納得したように目を細めた。


「……ああ。そっちか」


「口を閉じろ」


「まだ何も言ってない」


「言うなって意味だ」


 ヤスナは肩をすくめた。


「はいはい」


 軽く流したが、視線は鋭いままだ。こいつはもうかなりのところまで察している。確証までは持っていないにせよ、唯愛が見ている感情の主と、俺が無関係ではないことくらいは読んでいる。


 面倒なやつだ。


 だが今はそっちより唯愛だ。


 彼女の呼吸は少しずつ整いつつあった。けれど、楽になったわけじゃない。苦しさに慣れただけだ。そういう顔をしている。


「……寂しい」


 また呟く。


 今度はさっきより静かだった。


「すごく、寂しい。でも、それだけじゃない」


 唯愛は自分の胸に手を当てたまま、必死に言葉を探していた。


「苦しいし、痛いし、泣きたくなるのに……でも、あったかい」


 ぞくりとした。


 そこまで触れるのか。


 孤独だけじゃない。その奥に沈んでいた、もっと別の感情まで。


「なんで……」


 唯愛の目から涙が一筋こぼれる。


「なんで、こんなに好きなの……?」


 呼吸が止まる。


 ヤスナが珍しく何も言わなかった。


 この場で一番軽口を叩きそうなやつが黙った。それだけで、その言葉の重さが分かる。


 好き。


 その一言は、簡単なようで一番厄介だった。


 寂しい、苦しい、痛い。それらはまだ説明できる。だが“好き”だけは違う。誰に向いている感情なのか、それを認識した瞬間に全部が繋がる。


 だから、止めなきゃいけない。


 今すぐに。


「唯愛」


 俺はできるだけ静かな声で呼んだ。


「それはお前の感情じゃない」


「……うん」


 意外なほど素直に頷く。


「たぶん、そう」


 だが次の言葉が問題だった。


「でも、分かるの」


 唯愛は涙で濡れた目のまま、まっすぐこちらを見た。


「この人が、どれだけその子のこと好きだったか」


 塔の奥で、何かが脈打つ。


 耳の奥で微かな音がした。鼓動に似ている。塔のものか、俺のものか分からない。


「一人だったのに」


 唯愛は言葉を継ぐ。


「ずっと苦しかったのに」


 唇が震える。


「それでも、その子のこと嫌いになれなかったんだね」


 だめだ。


 そこまで踏み込むな。


 俺は奥歯を噛みしめる。


 認めれば崩れる。否定すれば嘘になる。どちらにしても、ここで正面から受け止めるわけにはいかない。


「……やめろ」


 低く言う。


 だが唯愛は止まらない。


「忘れられなかったんだ」


 その声は、まるで自分のことみたいに痛んでいた。


「ずっと、会いたかったんだ」


「やめろ」


「会えないって分かってても」


「唯愛」


「それでも――」


「やめろ!!」


 声が響いた。


 塔の中に、鋭く。


 自分でも驚くくらい強い声だった。


 唯愛が息を呑む。


 ヤスナも黙る。


 静寂が落ちた。


 遅れて、自分の叫びが壁の向こうから返ってくる。


 ひどく不快だった。


 俺は息を乱さないように意識しながら、唯愛を見下ろした。


 言いすぎた。


 分かっている。


 だが、止めるにはそれしかなかった。


「……それ以上、知るな」


 今度は抑えて言う。


「お前が触っていいものじゃない」


 唯愛の目が揺れた。


「でも……」


「でもじゃない」


 言い切る。


「今、見えてるもの全部、お前の人生とは関係ない」


 その瞬間、自分で吐いた言葉にわずかな違和感を覚えた。


 関係ない。


 本当にそうか?


 そう思いたいだけじゃないのか?


 唯愛が見ている感情の先にいる“誰か”と、こいつが無関係だと言い切れるのか?


 言い切れない。


 だからこそ、余計に近づけたくない。


 唯愛はしばらく黙っていた。


 床に落ちた涙が、白い石に小さな跡を作る。


 やがて、彼女は弱い声で言った。


「……ごめん」


 謝る必要なんてない。


 そう言いかけて、飲み込む。


 優しくしたらだめだ。ここで揺らげば、また踏み込む。


「立てるか」


 代わりにそう言うと、唯愛は少し間を置いて頷いた。


 俺は手を差し出しかけて、また止めた。


 一瞬の迷い。


 だが、その一瞬をヤスナは見逃さなかったらしい。


「触るとまずい?」


 小声で訊いてくる。


「たぶんな」


「へえ。じゃあ今のかなりギリギリなんだ」


「楽しそうに言うな」


「だって面白いよ。危ないのに、触れないくせに離れもしないんだもん」


 嫌な言い方をする。


 しかも図星だから腹が立つ。


 俺が黙っていると、ヤスナは少しだけ声を落とした。


「でも、あんたがそうしてるってことは、本当にまずいんだね」


「ああ」


「……そっか」


 その返事には、珍しく軽さがなかった。


 唯愛が壁に手をつきながら、どうにか立ち上がる。膝がまだ少し震えている。けれど、瞳の奥にはさっきとは別の色があった。


 苦しさに飲まれているだけじゃない。


 もう一歩先へ進もうとしている目だ。


 嫌な予感しかしない。


「トバリ」


 唯愛が俺を見る。


 俺は身構えた。


 今度は何を言うつもりだ。


 だが、唯愛はすぐには言葉を続けなかった。息を整え、迷って、それでも覚悟を決めたみたいに唇を開く。


「私……この人のこと、知ってる」


 全身の感覚が一瞬で研ぎ澄まされた。


 ヤスナが小さく息を呑む。


 俺は何も言えなかった。


 知ってる。


 その言葉は、さっきまでの“感じる”“分かる”とは違う。もっと危うい。感情の共有から、一歩認識に踏み込んでいる。


「顔は見えないのに」


 唯愛は困ったように言う。


「名前も分からないのに……でも、知ってる気がするの」


 塔の壁が、微かに脈打った。


 今度は気のせいじゃない。白い石の表面に、淡い光が波紋みたいに走っている。まるで塔そのものが、今の言葉を歓迎したみたいに。


 最悪だ。


 こいつは認識を深める言葉に反応する。


 つまり、核心に近づけば近づくほど塔は奥へ誘導してくる。


「……知るな」


 絞り出すように言う。


 唯愛の肩が揺れる。


「それ以上はだめだ」


「どうして」


「だめだからだ」


「理由になってない」


 弱った声のくせに、言い返すところは言い返す。


 その意志の強さが、今は怖い。


 俺はしばらく黙った。


 言えるはずがない。お前が触れているのが、俺の――なんて。そんなことをここで言えるわけがない。


 言った瞬間、全部が壊れる。


 だから、別の言葉を選ぶしかない。


「……人の一番深いところは、知らないままの方がいい時がある」


 ようやくそう言うと、唯愛は目を見開いた。


 たぶん、俺が少し本音を混ぜたと気づいたんだろう。


「それ、トバリの話?」


 鋭い。


 ほんの少し漏れただけでこれだ。


「違う」


「嘘」


「……お前な」


「今のは、そういう顔だった」


 困る。


 こういう時だけ妙に勘がいい。


 ヤスナがくつくつ笑った。


「いやあ、分かりやすいね」


「殴るぞ」


「怖い怖い」


 そう言いながら一歩下がる。だが本気で怖がってはいない。


 その軽さが、逆に場を少しだけ緩めた。


 唯愛の呼吸も、さっきよりは落ち着いている。


 なら今は、無理に答えを出させるべきじゃない。


「進むぞ」


 俺は言った。


「ここで立ち止まってても、塔の方から寄ってくる」


 ヤスナがすぐに頷く。


「同感。この場に留まる方が危ない」


「……うん」


 唯愛も小さく返事をした。


 まだ完全には立て直せていない。それでも進むと言うあたり、もう覚悟はできているんだろう。


 俺は先に歩き出した。


 通路の奥へ。


 今までより、ずっと重くなった空気を押し分けるように。


 背後で二人の足音が続く。


 相変わらず、半拍遅れて。


 その遅れた足音の向こうに、別の足音が混じった気がした。


 四人目のものかもしれない。


 だが振り向かない。


 振り向いたら、そこに何がいるのか確かめなければならなくなる。


 それは今じゃない。


 通路を進むにつれて、塔の気配が変わっていく。


 さっきまでの無機質な静けさとは違う。もっと湿っていて、もっと生き物じみていた。壁の向こうに巨大な何かが眠っていて、その寝息だけが石を通して伝わってくるような感覚。


 塔が俺たちを認識している。


 しかも、歓迎している。


 胸糞が悪い。


「……トバリ」


 後ろから唯愛の声。


「なんだ」


「さっきの、まだ少し残ってる」


「感情か」


「うん」


 短い返事のあと、少し間が空く。


「でも、さっきほど苦しくない」


「そうか」


「代わりに……なんか、怖い」


 俺は足を止めずに訊く。


「何が」


「この先に、もっと大きいのがある気がする」


 その言葉に、ヤスナが小さく笑った。


「正解っぽいね」


「嬉しくない」


「私もそう思うよ」


 珍しく同意する。


 俺もだ。


 感情の共有は入口にすぎない。この塔が本当に見せたいものは、もっと奥にある。さっきの反応は、その予告だ。


 そしてたぶん――俺が一番見たくないものでもある。


 通路の先に、薄暗い広間が見えてきた。


 その入口に差しかかった時だった。


 どくん、と。


 明確な振動が足元から伝わった。


 塔そのものが脈打ったような感覚。


 同時に、壁一面に淡い光の筋が走る。まるで血管みたいに。


「……うわ」


 ヤスナが、さすがに少しだけ引いた声を出す。


「これ、露骨だね」


 露骨すぎる。


 歓迎か、警告か、あるいはその両方か。


 唯愛が俺のすぐ後ろで息を呑むのが分かった。


「呼ばれてる」


 小さな声。


 俺はゆっくり目を細めた。


 否定できない。


 この塔は、奥へ進ませたがっている。唯愛を。あるいは俺たち全員を。


 だが、その理由はろくでもないに決まっている。


「……ここからが本番だ」


 誰に言うでもなく、そう呟いた。


 その声に反応するみたいに、広間の奥の闇がわずかに揺れる。


 何かがいる。


 まだ姿は見えない。


 だが、確かに待っている。


 俺は息を整え、前を見る。


 見たくない過去も、知りたくない真実も、この先にあるのかもしれない。


 それでも、もう引き返せない。


 背後では唯愛がまだあの感情の残り香を抱えたまま立っている。ヤスナはそのすべてを見逃すまいと目を光らせている。そして俺は――その二人を連れたまま、触れたくなかった場所へ踏み込もうとしている。


 最悪だ。


 だが、ここで目を逸らしたら、たぶんもう二度と追いつけない。


「行くぞ」


 そう言って、俺は広間の闇へ足を踏み入れた。


 その瞬間。


 耳の奥で、誰かが笑った気がした。


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