第17話 知らないはずの記憶
---
# 第17話 知らないはずの記憶
「――ねえ」
声がした。
すぐ隣で。
静かで、でも妙に耳に残る声だった。
「ここ、前にも来たよね?」
足が止まった。
俺はゆっくりと視線を上げる。
目の前には、バベルの塔。
空を貫くようにそびえ立つその姿は、遠くから見ていた時よりも歪んで見えた。まっすぐなはずの輪郭が、どこか捻じれている。
まるで、“形を保つことをやめた”みたいに。
「……来てない」
短く答える。
それ以上は言わない。
言いたくなかった。
「……そっか」
唯愛は小さく頷いた。
納得していない顔だった。
分かっている。
こいつ自身が、一番分かっていない。
だから余計に厄介だ。
ヤスナが横でくつくつ笑う。
「いいね、それ」
「何がだ」
「“来てないのに知ってる”ってやつ。典型的なやつじゃん」
「軽く言うな」
「軽く言ってるつもりはないよ」
そう言いながら、ヤスナの目は明らかに楽しんでいた。
危険な匂いがする。
……いつも通りか。
「行くぞ」
俺はそれだけ言って、塔の入口へと歩き出した。
これ以上ここで立ち止まっていても、意味はない。
もう始まっている。
だったら、進むしかない。
背後から足音が続く。
唯愛とヤスナ。
三人分の気配。
――のはずだった。
入口をくぐった瞬間、音が消えた。
いや、違う。
消えたんじゃない。
遅れている。
自分の足音が、半拍遅れて聞こえてくる。
「……気づいた?」
ヤスナが小さく言う。
「音がズレてる」
「分かってる」
短く返す。
余計な言葉は不要だ。
ここはもう、普通の場所じゃない。
中は、妙に静かだった。
外から見た時の歪さとは裏腹に、内部はやけに整っている。白い石壁、規則的な柱、均一な間隔。
だが、その“整いすぎた感じ”が逆に気味が悪い。
生きていない空間。
そんな印象を受けた。
「……静かだね」
唯愛が呟く。
「音が吸われてるみたい」
その言葉に、俺はわずかに目を細めた。
正確だ。
音が反響しない。
ここには“余白”がない。
だから、全部その場で沈む。
――記憶みたいに。
「進むぞ」
俺は前を向いたまま言う。
ここで立ち止まる理由はない。
進めば、何かが分かる。
進まなければ、何も分からない。
……分かりたくもないが。
数歩進んだところで、唯愛が足を止めた。
「……こっち」
小さく、そう言った。
「右に行く」
ヤスナが眉を上げる。
「分岐、見えてる?」
「……分からない。でも」
唯愛はゆっくりと右を指差した。
「こっち」
そこには、確かに通路がある。
だが、さっきまで気づかなかった。
いや――見えていなかっただけか。
俺はしばらくその通路を見つめた。
嫌な感じがする。
だが、それ以上に。
“正しい”気がした。
「……行く」
短く言う。
唯愛が少しだけ息を吐いた。
安堵したような、そんな音だった。
ヤスナが肩をすくめる。
「完全にナビ役じゃん」
「うるさい」
「いいねぇ、壊れてく感じ」
「黙れ」
軽く睨むと、ヤスナは楽しそうに笑った。
本当に、危機感がない。
……いや、ある上で楽しんでるな。
たちが悪い。
右の通路に入る。
空気が、わずかに変わった。
重い。
さっきより、ほんの少しだけ。
目に見えない圧がかかる。
呼吸がしづらいわけじゃない。
ただ、“奥に入り込んでくる感じ”がある。
「ねえ」
唯愛がぽつりと呟いた。
「……あの時さ」
心臓が止まりかけた。
「塔の上で――」
「……何の話だ」
できるだけ平坦に聞き返す。
だが、声が少しだけ低くなった。
唯愛は首を傾げる。
「え?」
「……」
「……あれ?」
自分で言っておいて、困った顔をする。
「なんで今のこと言ったんだろ」
ヤスナが小さく笑った。
「いいね、それ」
「よくない」
「いや、よくないけど面白い」
「同じだろ」
「違う違う」
軽口を叩きながらも、ヤスナの目は鋭かった。
「今の、“誰の記憶?”」
その一言で、空気が一段冷える。
唯愛が息を呑む。
「わ、分かんない……」
「だろうね」
ヤスナはあっさり頷いた。
「でも言った。ってことは、どこかにあるってことだ」
視界が、わずかに揺れた。
ほんの一瞬。
今いる通路の上に、別の景色が重なる。
崩れた石。
赤い光。
遠くで誰かが泣いている。
「……っ」
俺は目を細めた。
これ以上はまずい。
「それ以上喋るな」
低く言う。
唯愛がびくりと肩を揺らす。
「え……?」
「今は、やめろ」
「なんで」
一瞬、言葉に詰まる。
理由なんていくらでもある。
だが、説明できるものは一つもない。
「……壊れるぞ」
それだけ言った。
唯愛の目が揺れる。
理解はしていない。
でも、感じ取ったのは分かる。
それでいい。
今はそれでいい。
しばらく、誰も何も言わなかった。
足音だけが、遅れて響く。
気味の悪い沈黙。
だが、その沈黙が逆に現実を繋ぎ止めている気がした。
やがて、少し開けた空間に出る。
円形の広間。
天井は高く、中央には何もない。
ただ、壁に――影が映っていた。
俺は足を止める。
数を数える。
一つ。
二つ。
三つ。
……四つ。
「……おい」
ヤスナが小さく言う。
「これ、誰?」
唯愛がゆっくり振り向く。
誰もいない。
当然だ。
三人しかいない。
なのに、影は四つある。
しかも。
そのうちの一つが、わずかに動いた。
俺たちは動いていない。
なのに。
影だけが、一歩、前に出る。
空気が凍りつく。
唯愛の影が――
ゆっくりと、手を上げた。
本人は動いていない。
それでも、影は確かに動いた。
「……っ」
誰も声を出せない。
その瞬間。
『――遅かったね』
声がした。
すぐ後ろで。
俺は反射的に振り向く。
誰もいない。
だが、確かにいた。
空気が、そこに“いた”。
視線だけが、こちらを見ている。
逃げ場はない。
ここは、もう。
“外”じゃない。
俺はゆっくりと息を吐いた。
理解する。
これは塔だ。
ただの建物じゃない。
記憶を侵し、魂に触れる場所。
そして――
「……そういうことか」
小さく呟く。
答えは、もう出ていた。
最初から。
ただ、認めたくなかっただけだ。
「ここは……」
言葉を選ぶ。
一つでも間違えれば、全部崩れそうだった。
だから、ゆっくりと。
確かめるように。
「“来たことがあるやつ”しか、入れない」
沈黙が落ちた。
その言葉が、やけに重く響いた。
唯愛が息を呑む。
ヤスナが、静かに笑う。
「……なるほどね」
その声は、少しだけ楽しそうだった。
そして。
少しだけ、確信していた。
---




