第16話 魂の階層
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# 第16話 魂の階層
夢を見た。
崩れた塔だった。
空に届くほど高く、けれど途中で砕けたように歪んでいる。白い石のはずなのに、そこに差す光は赤く濁っていて、まるで血が染み込んでいるみたいだった。
音がない。
風もない。
なのに、耳の奥で何かが囁いている。
泣き声みたいで、笑い声みたいで、祈りにも呪いにも聞こえる曖昧な声。
その塔の前に――俺は立っていた。
いや、違う。
“立っている誰か”を、俺は見ている。
足元に影が二つあった。
一つは自分。
もう一つは、隣にいる誰か。
顔は見えない。
でも、知っている。
知っているはずなのに、思い出せない。
そのとき、上から何かが落ちてきた。
ゆっくりと。
確実に。
抗えない軌道で。
それが人だと分かった瞬間、喉が締めついた。
声が出ない。
ただ、見ていることしかできない。
――あの時と同じだ。
そう思った瞬間だった。
『――また来たのか』
声がした。
すぐ近くで。
振り向けない。
振り向いたら、何かが決定的に終わる気がした。
『遅かったな』
その声は、確かに“こちらを知っていた”。
そして――
目が覚めた。
「……っ、は……」
息が浅い。
胸の奥が妙に熱くて、気持ち悪い。
まだ夜明け前だ。薄暗い部屋の中で、しばらく天井を見上げたまま動けなかった。
「……なんだよ、今の」
夢にしては、感触が生々しすぎる。
塔。
落ちてくる人影。
そして、声。
――“また来たのか”。
まるで、あの場所に行ったことがあるみたいな言い方だった。
「……は、くだらねえ」
吐き捨てるように呟く。
あり得るわけがない。
俺はあそこに――
「……バベル」
無意識に出た言葉に、自分で眉をひそめた。
なんでその名前が出る。
知ってる。
いや、知っている“気がする”。
胸の奥がざわつく。
思い出しかけて、やめたくなる感覚。
……嫌な予感しかしない。
「……唯愛」
名前が口から漏れた。
理由はない。
だが、確信だけがあった。
あいつも同じものを見ている。
そう思った瞬間、体はもう動いていた。
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食堂に入った瞬間、空気が違うと分かった。
唯愛がいる。
窓際の席で、じっと一点を見つめたまま動かない。
その向かいにはヤスナ。
頬杖をつきながら、面白そうに観察している。
「……朝から嫌な光景だな」
そう言って近づくと、ヤスナが笑った。
「おはよ。顔死んでるよ」
「お前に言われたくない」
「それはそう」
軽く流してから、ヤスナは目を細める。
「で、どう? 夢」
足が止まった。
「……なんの話だ」
「とぼけるなって。同じの見たでしょ」
唯愛がゆっくり顔を上げる。
少し赤い目。
眠れていないのが分かる。
「トバリ……」
「なんだ」
「夢って、共有するもの?」
真っ直ぐな問いだった。
逃げ場がない。
「普通はしない」
「だよね」
唯愛は苦笑する。
「でも、おかしいの。知らない場所なのに……知ってる気がして」
心臓が一度、大きく脈を打つ。
ヤスナが指を立てた。
「崩れた塔、でしょ」
唯愛が頷く。
「うん」
「で、上から誰か落ちてきた」
「……見てた」
「声も聞いた?」
「聞いた」
二人の会話を聞きながら、俺は黙っていた。
完全に一致している。
偶然で済ませるには、出来すぎだ。
ヤスナがこちらを見る。
「で? トバリくんは?」
「……似たようなもんだ」
「へえ」
ヤスナの口元が歪む。
「じゃあこれ、“夢”じゃないね」
「断定が早い」
「でも外れてないでしょ?」
……否定できない。
俺は椅子に座りながら、短く息を吐いた。
「魂干渉だな」
二人が同時にこちらを見る。
「魂……?」
唯愛が不安そうに繰り返す。
「夢の共有じゃない。もっと浅い層で繋がってる。記憶の断片か、感情か、そのあたりだ」
「さらっと言うね」
ヤスナが笑う。
「知ってるんだ、そういうの」
「推測だ」
「はいはい」
全く信じていない顔だ。
だが構わない。
問題はそこじゃない。
「……バベルの塔、か」
口にした瞬間、唯愛の肩がぴくりと震えた。
「知ってるの?」
「名前くらいはな」
あえてそれ以上は言わない。
言いたくない。
あそこがどういう場所かなんて、説明したところで意味がない。
――踏み込んだやつしか分からない。
ヤスナが口を挟む。
「ちょうどいい話あるよ。最近あそこ、ちょっとした騒ぎになってる」
「騒ぎ?」
「入った探索者が変になって帰ってくる」
唯愛の顔が強張る。
「変って……」
「名前忘れるとか、知らない記憶を語り出すとか。“懐かしい”って泣き出すやつもいるらしいよ」
沈黙が落ちた。
重い。
あまりにも分かりやすすぎる。
「……やっぱりな」
俺は小さく呟いた。
「思ったより進行が早い」
「進行って?」
ヤスナが聞く。
「侵食だよ」
短く答える。
「夢だけで終わる段階じゃない。接触が始まってる」
唯愛が息を呑む。
「接触……」
「このまま放置すれば、もっと深く繋がる」
言いながら、内心で舌打ちした。
最悪の流れだ。
よりにもよって、こいつと。
「……ねえ」
唯愛が小さく呟く。
「私、そこ行かなきゃいけない気がする」
「行く必要はない」
即答した。
「でも」
「ない」
空気が張り詰める。
唯愛が唇を噛む。
「どうして?」
「危険だからだ」
「それだけ?」
「それだけで十分だろ」
「納得できない」
即答だった。
目が逸れない。
強い目だ。
……ああ、本当に似てる。
だから厄介なんだよ。
「怖いの」
唯愛が言う。
「分かる。でも、それ以上に……知らないのが怖い」
「……」
「このまま何も知らないでいる方が、もっと変なことになりそうで」
言っていることは正しい。
だから困る。
俺は視線を逸らした。
考えたくない。
あの塔に近づくこと自体が、もう間違いだ。
なのに。
「ここ、右に行くんだよね?」
唯愛がぽつりと言った。
空気が止まる。
「……は?」
ヤスナが眉を上げる。
「どこの話?」
「え……」
唯愛が困ったように首を傾げる。
「なんか、さっきからずっと……」
「塔の中の話か?」
俺が低く聞く。
「……うん」
背筋が冷えた。
まだ行ってもいない場所の“ルート”を、口にした。
しかも無自覚で。
ヤスナがくつくつ笑う。
「いいね、それ」
「何がいい」
「完全に繋がってるじゃん」
楽しそうだった。
危険を前にしている人間の顔じゃない。
「壊れるかもね」
さらっと言う。
「面白い」
「……お前」
「冗談だよ。半分は」
半分本気だな、こいつ。
だが今はそれどころじゃない。
「……もう止まらない」
ヤスナが言う。
「これは“過去”じゃない。“今”起きてることだよ」
その通りだ。
放っておいても収まらない。
むしろ悪化する。
なら――
「……分かった」
俺は小さく息を吐いた。
「行く」
唯愛が顔を上げる。
「トバリ」
「勘違いするな。お前を放り込むわけじゃない」
俺は淡々と言う。
「俺も行く」
それだけだ。
それ以上でも、それ以下でもない。
唯愛の表情が、少しだけ緩む。
ヤスナが肩をすくめた。
「はい、知ってた」
「お前も来るのか」
「当然でしょ。こんな面白――重要案件」
「今、面白いって言ったな」
「気のせい」
絶対違う。
だが止める気もない。
「出るのは昼前だ。準備する」
「うん」
唯愛が頷く。
「一人で動くな」
「分かってる」
「本当にか?」
「分かってるってば」
少しだけ笑う。
その顔を見て、視線を逸らした。
……ほんと、やめろ。
そういう顔。
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裏庭に出る。
朝の空気は冷たいのに、胸の奥だけが妙に熱い。
「……ふざけんな」
吐き捨てる。
嫌な流れだ。
最悪に近い。
バベルの塔。
魂干渉。
記憶の混線。
全部繋がっている。
「……あそこは」
言いかけて、止めた。
違う。
正しくは――
あそこは、触れていい場所じゃない。
あの塔は。
あの場所は。
――
『――待ってる』
耳元で、声がした気がした。
反射的に振り向く。
誰もいない。
だが、確かに“いた”。
空気が、こちらを見ている。
遠く。
見えないはずの場所から。
確実に。
呼ばれている。
「……ちっ」
舌打ちする。
逃げられない。
分かってる。
最初から。
「行くしかねえか」
呟いた声は、思ったより静かだった。
その瞬間、風が吹いた。
冷たい風。
まるで――歓迎するみたいに。
俺は目を細める。
塔の方角を、ただ睨んだ。
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