第15話 触れてはいけない共鳴
## 第十五話 触れてはいけない共鳴
翌朝の高天原は、ひどく静かだった。
空はよく晴れている。夜の名残をすっかり失った淡い青が、どこまでも薄く、高く広がっていた。城壁の白い石肌は朝日を受けて冷たく光り、城下から吹き上がってくる風はまだ少しだけ夜の冷たさを含んでいる。訓練場へ続く石畳の回廊には、兵士たちの規則正しい足音と、遠くで交わされる号令が細く響いていた。
何も変わっていないように見える朝だった。
けれど唯愛には、その全てがほんの少しだけズレて見えた。
朝日が眩しすぎる。
兵士の鎧の縁で弾かれた光が、目の奥まで刺さるように痛い。風の音は聞こえているのに、葉が揺れるのが半拍遅れて見える。遠くで誰かが笑った声も、最初はずっと遠くで鳴って、それからようやく耳元へ届いたように感じられた。
世界そのものが薄い膜を一枚かぶっていて、その内側に自分だけが取り残されている。
そんな感覚が消えない。
昨夜も、ほとんど眠れなかった。
目を閉じるたび、断片が浮かぶ。夕焼け。草原。誰かの横顔。泣きたいほど懐かしい温もり。伸ばした手の先で、届きそうで届かない何か。あまりにも曖昧なのに、感情だけはやけに鮮明だった。
そして、あの声。
――落ち着け。
あの一言だけが、今も胸の奥に静かな重みを残している。
唯愛は無意識に、自分の胸元をそっと押さえた。熱は引いたはずだ。あの暴走めいた感覚も、今は表面には出ていない。だが火種が消えたわけではないと、身体の奥が知っている。少しでも触れ方を誤れば、またあれは燃え上がる。
「……大丈夫?」
横から彩葉が覗き込んできた。
短く結んだ髪の先が、朝の風に揺れる。昨日から何度も向けられている問いだったが、彩葉の声だけはまだ変わらず近かった。
「うん」
唯愛は小さく笑う。
「大丈夫、とは言えないかもだけど……立てないほどじゃない」
「それ、大丈夫って言ってないよね」
彩葉は苦笑した。けれどその笑みの奥に、やはり昨日までにはなかった慎重さがある。心配してくれているのは分かる。けれど、どう触れていいのか分からないのも伝わってしまう。
それが少しだけ苦しかった。
訓練場へ向かう途中、何人かのクラスメイトとすれ違う。剣斗は視線を合わせて軽く頷いてくれた。東堂は何か言いたげに眉を動かしたが、結局何も言わずに目を逸らした。別の女子二人は、唯愛に気づいた瞬間に声の調子を少しだけ落とし、そのまま会話を切り上げるように歩いていった。
露骨ではない。
けれど十分だった。
昨日までと同じようにはいかない。そのことを、一つ一つの視線が静かに教えてくる。
怖がられている。
正確には、扱いを迷われている。
それが分かる。
自分だって迷っているのだから、相手にだけ今まで通りを求めるのは間違っている。それは頭では理解できた。理解できるからこそ、余計に胸が痛んだ。
食堂に入っても、その空気は変わらなかった。
長い木卓の上には温かいスープと焼きたてのパンが並び、朝の匂いはいつも通り食欲を誘うはずなのに、唯愛にはその香りがどこか遠い。席に着くと、すぐ近くに彩葉と剣斗が座った。ありがたいと思う一方で、それ以外の席には小さな空白ができているのが目に入ってしまう。
誰かがわざと空けたわけではないのかもしれない。
けれど、結果としてそこに距離が生まれていた。
「……昨日のことなんだけどさ」
パンをちぎりながら、剣斗が低い声で言った。
周囲の数人も反応する。
「結局、何だったんだろうな」
「分かるわけないだろ」
東堂が苦い顔で返す。
「でも、あれ普通じゃなかったのは確かだ」
「普通じゃないって……」
誰かが言い淀む。
その先の言葉が飲み込まれる。唯愛がいるからだ。気を遣っているのだろう。そのことがかえって、今の自分の立ち位置をはっきりさせてしまう。
彩葉が話題を変えるように口を開いた。
「トバリさんが何か知ってる感じはあったよね」
その名が出た瞬間、唯愛の指先がわずかに止まった。
「まあ、止めたのあの人だしな」
剣斗が頷く。
「正直、グラドさんでも無理だった気がする」
「いや、どうだろ……でも、なんか違ったよな」
東堂が腕を組む。
「強いとかそういうのじゃなくて、もっと……」
言葉を探して、結局見つからない顔。
唯愛は黙ってスープに視線を落とした。表面に薄く張った油が、朝の光を受けて揺れている。その揺らぎを見ていると、不意に昨日の熱が胸の奥に蘇りかけて、慌てて息を整えた。
「唯愛?」
彩葉の声。
「ほんとに大丈夫?」
唯愛は少しだけ間を置いてから、答えた。
「……分かんない」
正直な言葉だった。
「でも、このまま何も分からないままなのは嫌」
彩葉が目を瞬く。
剣斗も、東堂も、言葉を止めた。
唯愛は自分でも驚くほど静かな声で続ける。
「怖いのは怖い。でも、ただ怖がってても何も変わらない気がするから」
そこまで言ってから、小さく息を吐いた。
そうだ。
昨日からずっと、自分の中で揺れていたものの正体はこれだった。
怖い。逃げたい。でも、それ以上に知りたい。
あの景色の意味を。
あの感情の正体を。
そして何より、どうしてあの人の声で、自分は戻れたのかを。
食堂を出たあと、唯愛は一人で中庭へ向かった。
訓練が始まるまでにはまだ少し時間がある。誰にも話しかけられずに、自分の考えを整理したかった。石造りの回廊を抜けると、小さな中庭に出る。背の低い木々と、手入れされた芝、中央に据えられた浅い石の水盤。風が水面を撫でるたび、細かなさざ波が揺れた。
その揺れを見つめながら、唯愛はゆっくり息を吐いた。
「……このままじゃ、嫌だ」
声にしてみると、不思議と少しだけ輪郭がはっきりする。
逃げていても、世界のズレは消えない。
黙っていても、自分の中の熱はなくならない。
なら、踏み込むしかない。
そう思った、そのときだった。
「ねえ」
すぐ後ろから声がした。
近い。
あまりにも近くて、唯愛は反射的に振り返った。
そこにいたのはヤスナだった。
赤みの強い長髪が朝日を受けて燃えるように光っている。狐耳がぴくりと動き、細い目が面白そうに唯愛を見下ろしていた。いつ現れたのか分からない。足音も、気配も、何もなかった。
「っ……」
唯愛が半歩下がると、ヤスナは笑う。
「そんな怖がらなくてもいいのに」
そう言いながらも、その目は笑っていなかった。好奇心と、警戒と、もっと原始的な何かが混ざった、獣じみた光を宿している。
「何か用?」
唯愛はできるだけ平静を装って尋ねた。
ヤスナは首を傾げる。
「うん。あるよ」
一歩、近づく。
「それ、何?」
「……それ?」
「中にあるやつ」
唯愛の胸元を指さすような仕草。
ぞくりと背筋が粟立つ。
「分かんない」
正直に言う。
「分かんないから、困ってる」
「へえ」
ヤスナは妙に嬉しそうな声を漏らした。
「気持ち悪くない?」
唐突な言葉に、唯愛は眉を寄せる。
「……何が」
「自分じゃない感じ」
さらりと言う。
「勝手に見えて、勝手に動いて、勝手に苦しくなるんでしょ?」
核心だった。
唯愛の喉が詰まる。
「それ、すごく気持ち悪いと思うけど」
ヤスナの声は軽い。けれど軽いからこそ、余計に刺さる。
唯愛は唇を噛んだ。
否定できなかった。
実際、その通りだからだ。自分の意思とは関係なく流れ込んでくる感情。知らない景色。勝手に反応する身体。全部、気味が悪い。怖い。昨日まではそうとしか言えなかった。
だが。
「……そうだよ」
唯愛はヤスナを見返した。
「気持ち悪い。怖い。意味分かんない」
自分でも驚くほど、言葉ははっきり出た。
「でも、それでも知りたい」
ヤスナの目が細くなる。
「どうしてこんなことが起きるのか、知りたいし……逃げるのは違うと思ったから」
朝の風が二人の間を吹き抜けた。
ヤスナはしばらく唯愛を見つめて、それから小さく鼻で笑った。
「変なの」
「そっちに言われたくない」
「あは」
今度は少しだけ、本当に面白そうに笑う。
「いいね。やっぱり普通じゃない」
唯愛はその言い方に引っかかりを覚えた。
「普通じゃないって、何?」
「そのまま」
ヤスナは肩をすくめる。
「それ、あんたじゃないよ」
ぞわ、と空気が冷えた気がした。
唯愛の心臓が嫌な跳ね方をする。
「……どういう意味」
「言葉通り。中で動いてるの、あんたのものじゃない」
無邪気ですらある口調だった。
だからこそ怖い。
「けど」
ヤスナは少しだけ身を乗り出す。
「嫌いじゃないな、そういうの」
「は……?」
「だって壊れそうじゃん」
にっこりと笑う。
その笑顔は美しいのに、底の方に鋭い刃を隠していた。
「壊れる寸前のものって、一番綺麗だから」
唯愛は思わず睨み返した。
「意味分かんない」
「分かんなくていいよ」
ヤスナはあっさり言う。
「ただ、確かめたいだけ」
「何を」
「ほんとに“そう”なのか」
その一言のあと、空気が変わった。
ヤスナの足が砂を踏むみたいにわずかに動く。ここは石畳だというのに、唯愛には足元の感触が一瞬だけ訓練場の砂地に切り替わったように感じられた。身体が先に危険を察する。
来る。
そう思った瞬間には、ヤスナの姿が目の前から消えていた。
「っ!」
反射的に身をひねる。
すぐ横を、風を裂くような気配が通り抜けた。普通なら反応できない速度だった。自分でもどうして避けられたのか分からない。ただ、身体がそうするしかないと知っていた。
石畳の上にヤスナが軽やかに着地する。
「へえ」
楽しそうな声。
「今の避けるんだ」
「何するの!?」
唯愛が叫ぶと、ヤスナは肩をすくめた。
「試しただけ」
再び踏み込む。
速い。
今度は拳ではなく、手刀のような軌道。けれどそれだけで十分危険だった。唯愛は後ろへ飛ぶ。かすかに袖が裂ける感触。遅れて空気が頬を打った。
心臓が激しく脈打つ。
怖い。
けれど同時に、頭が妙に澄んでいた。
ヤスナの動きが“読める”わけではない。だが、来る場所の輪郭だけが先に見える。世界が少しだけゆっくりになる。風の流れ、筋肉の動き、視線の重さ。そういうものが一度に流れ込んできて、身体が勝手に答えを選んでいく。
「やっぱり」
ヤスナの声が弾む。
「それ、面白い」
唯愛は息を乱しながら距離を取った。
「やめて……!」
「嫌」
即答だった。
「だって今のあんた、すごく反応いいもん」
その言葉の直後、ヤスナがさらに速度を上げた。
視界から消える。
左。
反応する。
次は上。
腕を上げる。
骨に響く衝撃。痺れが走る。受けきれずによろめいた瞬間、胸の奥の熱が跳ねた。
「あ……」
息が漏れる。
まずい、と思った時にはもう遅い。
熱が広がる。
昨日と同じ。いや、少し違う。今回は恐怖だけではない。ヤスナと向き合うことで、自分の中に沈んでいた何かが無理やり表へ引きずり出されていくような感覚があった。
視界が揺れる。
石畳が消え、代わりに赤い地平が見えた。
風に舞う灰。血の匂い。誰かの手を強く握っている感触。守らなければならないという切実すぎる願い。喪うわけにはいかないという痛み。
その中に、もう一つ別の視線が入り込む。
赤い瞳。
獣めいた笑み。
同じものを、見ている。
「……っ!」
唯愛が息を呑む。
目の前のヤスナも、わずかに動きを止めていた。
「……ああ」
ヤスナの口元がゆっくり歪む。
「そういうこと」
その声は、さっきまでよりもずっと低かった。遊びではない何かを見つけたときの声だった。
「見えたんだ」
唯愛の声は震えていた。
「今、何を……」
「内緒って言いたいところだけど」
ヤスナは一歩下がり、細めた目で唯愛を見つめる。
「なるほどね。あんた、ただの器じゃないんだ」
「器……?」
「でもまだ足りない」
ヤスナは独り言みたいに続ける。
「薄い。中途半端。壊れかけてるのに、まだちゃんと割れてない」
唯愛にはその意味が分からなかった。
ただ、その言葉一つ一つが胸の奥に不快な爪を立てるようで、無性に腹が立った。
「分かったふうに言わないで」
思わず声が強くなる。
「私だって、分からないのに」
「だからでしょ」
ヤスナは不思議そうに首を傾げた。
「分からないから、壊しがいがある」
その瞬間、唯愛の中で何かが弾けた。
恐怖ではない。
怒りだった。
どうしてそんなふうに言えるのか。どうして自分の分からなさも、不安も、痛みも、全部面白がるみたいに扱えるのか。
その怒りに熱が呼応する。
胸の奥の火種が一気に燃え上がりかけた、そのとき。
「――それ以上は、やめろ」
低い声が空気を裂いた。
次の瞬間、二人の間に黒い影が滑り込んでいた。
トバリ。
いや、その立ち方はもう単なる冒険者のものではなかった。
距離を詰めたというより、最初からそこにいたような入り方。空気の密度が変わる。石畳の上に立っているだけなのに、周囲の景色ごと静止したような圧が広がった。
ヤスナが嬉しそうに目を細める。
「来た」
トバリは唯愛を背に庇う位置に立っていた。
ほんの少しだけ振り返る。
「下がって」
静かな声。
けれど逆らえない強さがある。
唯愛は言われた通り一歩下がった。胸の熱はまだ収まり切っていない。けれど、背中越しにその姿を見た瞬間、不思議と呼吸が少しだけ楽になった。
ヤスナは腕を組む。
「やっぱり守るんだ」
「……何を見た」
トバリの声が低く落ちる。
「さあ?」
ヤスナは笑った。
「でも、だいたい分かった」
「答えろ」
「嫌」
あっさりと言い切る。
「だって、その顔見るの楽しいし」
トバリの纏う空気がさらに冷えた。
唯愛ですら、その変化が分かるほどに。
ヤスナはそれを見て、ますます愉快そうに笑う。
「そんなに怖いんだ」
「……」
「失うのが?」
その言葉に、空気が止まった。
唯愛の胸が大きく鳴る。
トバリは答えない。
だが答えないこと自体が、答えのように見えた。
ヤスナは小さく肩を揺らす。
「ふうん。やっぱりそうなんだ」
「ヤスナ」
初めて、トバリの声音に明確な警告が混じった。
「これ以上踏み込むな」
「踏み込んだのはそっちでしょ」
ヤスナは首を傾げる。
「今さら隠しても遅いよ」
そう言ってから、ちらりと唯愛を見た。
「ねえ、あんた」
視線が合う。
「今の、少しでも分かった?」
唯愛は息を呑んだ。
答えられない。
分かったこともある。分からないことの方が多い。でも一つだけ、確かに感じたものがある。
あの断片の中にあった“守る”という感情。
それがあまりにも強くて、痛いほど真っ直ぐで、胸の奥を引き裂くみたいに熱かった。
「……分からない」
かすれた声で言う。
「でも、何かはあった」
「そう」
ヤスナは満足そうに目を細めた。
「なら十分」
くるりと踵を返す。
「今日はこれくらいでいいや」
「待て」
トバリが低く呼び止める。
ヤスナは振り返らない。
「また来る」
軽い口調。
「だって面白いもん」
一歩、二歩。危ういほど軽やかな足取りで中庭の出口へ向かう。その背中に、朝の光が淡く差していた。
出口の手前で、ヤスナはふと思い出したように立ち止まる。
「――もう、戻れないところまで来てるよ」
その言葉だけを残して、彼女は消えた。
しばらく誰も動かなかった。
風が木の葉を揺らす音だけが、中庭に小さく残る。
唯愛は自分の胸元を押さえた。熱はまだある。怖さも消えていない。けれど、それだけではなかった。今の一瞬で、自分がもう元の場所には戻れないことを、嫌でも理解してしまった。
トバリがゆっくりと振り向く。
「……怪我は?」
唯愛は首を振った。
「ない……と思う」
実際、掠った袖以外に大きな傷はない。だが心の方は、確実に何かが変わっていた。
「ごめんなさい」
思わず口にすると、トバリはわずかに眉を寄せた。
「君が謝ることじゃない」
「でも、また……」
「それでもだ」
言い切る。
その強さに、唯愛は言葉を失った。
トバリはほんの一瞬だけ目を伏せ、それから静かに続けた。
「次からは一人になるな」
指示の形を取っている。だが、その実、明らかに別の意味を帯びていた。
「しばらくは、僕が近くにいる」
その言葉に、唯愛の胸がまた小さく鳴る。
安心なのか、不安なのか、自分でも分からない。けれど少なくとも、その一言だけは今の自分を繋ぎ止める重さを持っていた。
「……はい」
小さく答える。
トバリはそれ以上何も言わなかった。ただ、中庭の出口の方へ一度だけ視線を向ける。その横顔には、昨日までよりもずっとはっきりとした決意が刻まれていた。
守る、と。
言葉にしなくても、それだけは分かる。
そして唯愛は、自分がその決意に救われてしまったことを、否定できなかった。
中庭の上には、変わらず青い空が広がっている。けれどその青さの向こうに、夕焼け色の断片がまだちらついていた。
何かが近づいている。
まだ見えない、けれど確実な何かが。
そして自分たちはもう、その中へ踏み込んでしまっている。
引き返せる場所は、もう背後にはなかった。




