第14話 もう戻れない場所
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## 第十四話 もう戻れない場所
訓練場に、奇妙な静けさが落ちていた。
先ほどまで確かに存在していた熱の名残が、まだ空気の底に沈んでいる。砂は落ち着きを取り戻しているのに、踏みしめるたびにどこか軽く、現実に触れている感触がわずかに曖昧だった。朝の光は変わらず白く降り注ぎ、城壁の影は同じ角度で伸びている。だがそのどれもが、ほんの少しだけ現実から浮いているように見える。
誰も、すぐには動けなかった。
さっき何が起きたのか、理解が追いついていない。いや、理解してはいけないものを見てしまった、と本能が告げているのかもしれない。
唯愛はその中心に立っていた。
呼吸は落ち着きつつある。涙ももう止まっている。けれど胸の奥に残った熱の残滓が、まだ消えない。皮膚の内側に薄く残った火種のように、触れればまた燃え上がりそうな予感を伴っていた。
怖い。
そう思う。
同時に、なぜか少しだけ、名残惜しい。
その感覚が、自分でも理解できなかった。
「……永久野」
誰かが名前を呼ぶ。
振り返ると、神崎剣斗が少し距離を置いた位置に立っていた。その顔には明確な戸惑いが浮かんでいる。近づこうとして、しかし踏み出しきれない足。心配と警戒が混ざった、どう扱っていいか分からない相手に向ける視線。
「大丈夫、か?」
その問いは、普段より少し低かった。
唯愛は一瞬だけ言葉に詰まる。
「……うん。大丈夫」
自分でも頼りないと分かる声だった。
その言葉を聞いても、剣斗の表情は完全には緩まなかった。頷きはした。けれどその頷きは、納得ではなく、これ以上踏み込まないための区切りのように見えた。
東堂が腕を組んだまま、少し離れたところからこちらを見ている。
「今の……何だったんだよ」
問いというより、独り言に近い声。
誰も答えられない。
彩葉が、やや強引に空気を切り替えるように言った。
「とりあえずさ、ここじゃなんだし、一回戻ろ?」
その言葉に、何人かが頷く。動き始める。だが完全に元通りではない。視線が微妙に逸らされる。話しかけるタイミングが一拍遅れる。
ほんの少しだけ。
けれど確かに、距離が生まれていた。
唯愛はそれをはっきりと感じ取ってしまった。
喉の奥がきゅっと締まる。
仕方ない。
自分でも怖いと思ったのだ。
あれを見て、何も思わない方がおかしい。
そう頭では理解しているのに、胸の奥では別の感情が静かに軋んでいた。
――少しだけ、痛い。
その痛みの正体を、まだ言葉にできなかった。
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勇者たちの滞在区画へ戻る途中、会話はいつもより少なかった。
石の廊下に足音が反響する。規則的に響くそれが、やけに大きく感じられた。壁にかけられた燭台の炎は昼間でも消されず、わずかに揺れている。その橙色の光が、白い壁に淡い影を落としていた。
「……なあ」
東堂が口を開く。
「さっきの、魔法か?」
「いや……」
剣斗が首を振る。
「魔法っていう感じじゃなかっただろ」
「じゃあ何だよ」
「分かんねえよ」
短い会話。
結論は出ない。
「でもさ」
別の男子が口を挟む。
「危なかったよな、あれ」
その一言で、空気が少しだけ固まった。
誰も否定しない。
できない。
確かに危なかった。あのまま続いていたら、何が起きていたか分からない。
その“何が起きるか分からない”という事実そのものが、恐怖だった。
「永久野はさ……」
言いかけて、言葉が止まる。
続けていいのか分からない、という躊躇。
唯愛はその先を待たなかった。
「……ごめん」
自然に口から出た。
場が静まる。
「迷惑、かけたよね」
視線を落とす。
床の石の継ぎ目がやけにはっきり見えた。
「いや、そういうんじゃ……」
剣斗が慌てて言う。
「ただ、ちょっとびっくりしたっていうか」
「うん」
頷く。
「私も、びっくりしてる」
それは本音だった。
自分の中で何が起きているのか、まるで分からない。
ただ一つだけ分かるのは。
もう、前と同じではいられないということ。
「……唯愛」
彩葉が隣に寄る。
その距離は、さっきまでと変わらない。むしろ少し近いくらいだった。
「ほんとに大丈夫?」
小さな声。
周りに聞かれないように。
「うん」
頷く。
「大丈夫」
同じ言葉を繰り返す。
けれど今度は、さっきよりも少しだけ力が入っていた。
嘘ではない。
ただ、完全な真実でもない。
その曖昧さを抱えたまま、唯愛は歩き続けた。
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同じ頃。
城の一角、人気の少ない回廊にトバリは立っていた。
外套の裾がわずかに風に揺れる。窓の外から差し込む光が、石の床に細い帯を作っていた。
右手を軽く握る。
指輪の感触が、やけに意識に残る。
先ほどの反応。
あれはもう、偶然ではない。
確定したと言っていい。
「……」
タマモはゆっくりと息を吐いた。
頭の中で、いくつもの可能性を並べる。否定する。再構築する。その繰り返しを何度も行ってきた。千年の間、そうやって自分の世界を整えてきた。
だが今は。
その前提そのものが揺らいでいる。
魂は巡る。
だが記憶は残らない。
それがこの世界のルールだ。
例外はない。
自分が作り、自分が守ってきた原則。
なのに。
「……例外、か」
低く呟く。
ありえない、と切り捨ててきた可能性が、現実として目の前に現れようとしている。
唯愛の反応。
指輪の応答。
そして何より――あの瞬間に感じた“重なり”。
あれは錯覚ではない。
錯覚であってほしかったが、そうではないと身体の奥が理解している。
「放置は、無理だな」
結論は出ていた。
これ以上様子を見るだけでは、いずれ取り返しのつかないことになる。
あの熱は危険だ。
制御できなければ、本人も周囲も巻き込む。
そして。
もし本当に、あの可能性が現実なら。
「……なおさら、な」
守る必要がある。
それは理屈ではなく、もっと根の深いところから出てくる判断だった。
タマモは壁から背を離す。
足を向ける先は一つ。
唯愛のいる場所へ。
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滞在区画の奥、人気の少ない中庭に唯愛はいた。
石で囲まれた小さな空間。中央には低い木が一本植えられていて、淡い緑の葉が風に揺れている。上を見上げれば空が切り取られ、白い雲がゆっくりと流れていた。
人の気配はない。
ようやく一人になれた。
「……」
深く息を吐く。
胸に手を当てる。
まだ、わずかに熱が残っている。
怖い。
それが正直な気持ちだった。
さっきの感覚。
自分ではない誰かの感情が流れ込んできて、自分の体が自分のものじゃなくなるあの瞬間。
もし、また起きたら。
もし、次は止まらなかったら。
そう考えると、足元が不安定になる。
でも。
「……知りたい」
ぽつりとこぼれる。
怖い。
でも、同じくらい。
知りたい。
あの景色の正体を。
あの感情の意味を。
そして――
どうしてトバリの声で、あれが止まったのかを。
「……」
考えていると、背後で足音がした。
振り返る。
そこにいたのは、トバリだった。
外套の影の中、金の髪がわずかに光を受けている。
「少し、いいかな」
落ち着いた声。
唯愛は小さく頷いた。
「はい」
言葉を探す。
何から話せばいいのか分からない。
だが先に口を開いたのは唯愛の方だった。
「……私、普通じゃないですよね」
自分でも驚くほど、はっきりとした声だった。
トバリは否定しなかった。
沈黙。
それだけで答えは十分だった。
「昨日から、変なんです」
言葉が溢れる。
「知らない景色が見えて、知らない感情が流れてきて……今日も、あんなことになって」
呼吸が少し乱れる。
「自分でも、何が起きてるのか分からなくて」
拳を握る。
「……怖いです」
正直に言った。
嘘はつかなかった。
トバリは静かに聞いていた。
その視線は逸れない。
「でも」
唯愛は続ける。
「このまま、何も分からないままなのは……もっと嫌で」
顔を上げる。
目が合う。
「知りたいんです」
その言葉は、はっきりとした意志を持っていた。
逃げるのではなく、踏み込むための。
トバリの目がわずかに細まる。
ほんの一瞬、迷いがよぎった。
そして。
「……それは、“力”だ」
静かに言う。
「ただし、制御できなければ危険になる」
唯愛は頷く。
分かっている。
あれが危険なものだということくらいは。
「完全に理解するには時間がかかる」
トバリは続ける。
「だが、放っておくことはできない」
その言葉に、わずかなニュアンスが混じる。
“関わる”という意思。
「しばらくは、僕が見る」
それは指導者としての言葉ではなかった。
もっと個人的な、決定だった。
唯愛は小さく息を呑む。
その言葉に、なぜか胸の奥が少しだけ軽くなった。
「……お願いします」
自然にそう言えた。
その瞬間。
かすかに、空気が揺れた。
「へえ」
別の声が割り込む。
軽く、しかしどこか刺さる響き。
唯愛とトバリが同時に振り向く。
中庭の入口に、赤い髪の少女が立っていた。
ヤスナ。
腕を組み、退屈そうに壁にもたれている。
「いい話してるね」
口元が歪む。
「ちょっと混ぜてよ」
その目は、明らかに楽しんでいた。
ただし、普通の意味でではない。
もっと危うく、もっと本能的な興味で。
トバリの視線が鋭くなる。
「……聞いてたのか」
「まあね」
あっさりと答える。
「面白そうだったし」
ヤスナは一歩、こちらへ踏み出した。
距離が縮まる。
空気が変わる。
「それ、“あの子”でしょ」
何気ない口調。
だがその言葉は、あまりにも核心に近かった。
唯愛は意味が分からない。
だがトバリは、ほんのわずかに息を止めた。
「……何を見た」
低い声。
ヤスナは笑う。
「内緒」
くるりと踵を返す。
背を向ける。
「でもさ」
振り返らずに言う。
「壊れるなら、早い方がいいよね」
その一言を残して、ヤスナは去っていった。
中庭に、再び静けさが戻る。
だが先ほどまでとは違う。
今度の静けさは、嵐の前のものに似ていた。
唯愛は立ち尽くしたまま、何も言えなかった。
ただ一つだけ、はっきりしていることがある。
もう戻れない。
あの訓練場で何かが壊れた瞬間から、自分は確実に別の場所へ踏み込んでしまった。
その先に何があるのかは分からない。
けれど。
進むしかない。
そう思わせるだけの何かが、確かに胸の奥に残っていた。




