第13話 崩れかけた均衡
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## 第十三話 崩れかけた均衡
朝の光は昨日と変わらず訓練場へ降り注いでいたが、唯愛にはそれが少しだけ不自然なものに思えた。
高天原城の城壁に囲まれた砂地は、朝の冷気をまだ薄く残している。踏みしめられた砂は夜露を吸って少しだけ重く、兵士たちの靴底に押されるたび、さらさらではなく、ざり、と鈍い音を立てた。見張りの兵が立つ城壁の上には、雲ひとつない空が広がっている。朝日を受けた白い石壁は眩しいほど清潔で、まるで何事も起きていない世界の顔をしていた。
だが唯愛の目には、そのどれもがどこか遠かった。
空の青が、少しだけ薄い。
声が、半拍遅れて聞こえる。
光が強い。いや、強すぎるのかもしれない。兵士の鎧の縁が朝日に反射するたび、胸の奥にかすかな痛みが走った。
昨夜はほとんど眠れなかった。
目を閉じるたび、夕焼けの色が浮かんだ。風に揺れる草の音がした。誰かの気配が近くにあって、その輪郭だけが分からないまま、喪ったものに触れかけるような感覚だけが残った。眠っていたのか起きていたのかも曖昧な時間が続き、気づけば空が白み始めていた。
なのに体は妙に軽い。
疲れているはずなのに、筋肉の重さがどこかへ消えている。代わりに、皮膚の下を熱の細い糸が何本も這っているみたいだった。
「……大丈夫?」
隣に並んだ彩葉が、少し心配そうに顔を覗き込んできた。
唯愛ははっとして、曖昧に笑う。
「うん。ちょっと寝不足なだけ」
「その“ちょっと”が怪しいんだけど」
彩葉は眉を下げたが、それ以上は言わなかった。昨夜から、周囲の空気が少し変わっているのを唯愛も感じていた。昨日の訓練で見せた自分の動き。それ自体は派手なものではなかったはずだ。けれど、気づいた者は確かにいた。自分でも説明できないほど、妙に“噛み合ってしまった”瞬間を。
気にしすぎだと思いたかった。
だが胸の奥は、薄く張った氷のように、触れれば割れそうな緊張を抱えたままだ。
訓練場の中央にグラドが立つ。その傍らには、黒い外套を羽織ったトバリの姿があった。フードの奥に隠れた顔はいつも通り淡々として見える。けれど唯愛は、その姿を見るだけで呼吸が少し浅くなるのを止められなかった。
トバリの声が、乾いた朝の空気に落ちる。
「今日は模擬戦をやろうか」
勇者たちの間に小さなどよめきが走った。
「昨日までの基礎と連携で、どこまで動けるかを見る。まあ、試験みたいなものだと思ってくれていいよ」
気楽な言い方だった。だが、その言葉の裏にあるものを、今の勇者たちはもう理解している。試されるのだ。この世界で戦うということがどういうことかを、自分たちの未熟さごと。
グラドが短く告げる。
「組み合わせはこっちで決める。順番に前へ出ろ」
名前が呼ばれていく。神崎剣斗と東堂、彩葉と別の女子、そして数組が続いた。昨日までよりは確実に動けている。トバリの指摘は確かに効いていた。踏み込みは深くなり、視線も前より広く取れている。だが、それでもまだ粗い。自分ひとりの動きに精一杯で、相手の呼吸までは追えていない。
唯愛はそれをぼんやり見つめていた。
目の前の戦いを理解しているはずなのに、どこか膜一枚隔てた向こう側で起きているみたいだった。
「永久野」
自分の名前が呼ばれて、はっと我に返る。
「……はい」
「相手は僕」
一瞬、訓練場の空気が揺れたように感じた。
唯愛だけではない。近くで聞いていた何人かがわずかに目を見開く。昨日までなら、相手役はグラドか、あるいは他の勇者との組み合わせだった。だが今日は違う。トバリが自分で前に出てきた。
どうして。
そう思った瞬間には、胸の奥で別の感情が跳ねていた。
怖い。
なのに、どこか安心する。
その両方が同時に押し寄せてきて、唯愛は自分の感情の正体がますます分からなくなった。
「来て」
トバリが木剣を軽く持ち上げる。
その立ち姿には、やはり隙がなかった。やる気がないように見えるほど自然なのに、砂の上に根を張ったみたいにぶれない。細身の剣と、静かな呼吸と、それだけで場が整ってしまう。
唯愛は木剣を握り直した。掌に汗が滲む。
深呼吸をひとつ。肺に朝の冷えた空気を満たす。
「……お願いします」
砂を蹴る。
踏み込みは悪くないはずだった。昨日までの自分なら、そう思える程度には。だがトバリの前では、それすら遅く感じた。木剣はあっさり流される。次の一歩を入れる前に、既に自分の中心がずらされている。
「もっと腰を前に」
落ち着いた声が飛ぶ。
「腕じゃなくて、下半身から動く」
「っ、はい」
言われた通りに修正する。
二合、三合。木剣が乾いた音を立てるたび、唯愛は奇妙な感覚に襲われた。
分かる。
次にどこから来るのか、少しだけ。
視線の置き方。肩の流れ。重心の移り方。普通なら見えないはずのわずかな変化が、なぜか胸の奥に直接落ちてくる。頭で考えるより先に、体が動きを選んでいた。
「……」
トバリの目が細くなる。
唯愛はさらに踏み込む。受けられる。流される。だがその流れすら、どこか懐かしい。初めてではないような、ずっと前に何度も繰り返したやり取りの続きをしているような、そんな錯覚が胸の底から湧いてくる。
違う。
そんなはずはない。
自分はこの人を知らない。
知っているはずがない。
なのに。
世界が、急に静かになった。
木剣の音が遠のく。兵士たちの気配が薄れる。朝の風の匂いだけが妙に鮮明になった。目の前のトバリの輪郭が、一瞬だけ現実よりも濃く見える。
熱い。
胸の奥が、灼けるように熱い。
「……え」
唯愛の口から、かすかな声が漏れた。
その瞬間だった。
視界がぶれる。
白ではなく、赤に近い光が差し込んだ。夕焼け。血の匂い。風に散る金の髪。泣きそうなほど大切で、喪った瞬間に世界そのものが壊れてしまいそうな何か。
――守らなきゃ。
誰のものとも分からない強い感情が、胸を抉るように流れ込んできた。
「っ……!」
唯愛の足元の砂が、ふわりと浮いた。
周囲がどよめく。
「何だ……?」
「おい、今――」
ざわめきが広がる。
だが唯愛の耳には届かない。熱が、内側から膨れ上がっていた。太陽の加護。その名を知らずとも、それが自分の中にある異質な何かだとは感じ取れた。胸の中心に小さな火種があって、それが今、空気を得た炎みたいに急速に広がっていく。
熱い。
苦しい。
なのに、どこか心地いい。
体が自分のものではなくなっていく感覚に、唯愛の背筋が凍った。
「永久野、下がれ」
グラドの声が飛ぶ。
聞こえる。けれど体が反応しない。木剣を握る手が震える。視界の端で砂が揺れ、空気が薄く歪んでいた。訓練場の朝の光が、熱に炙られた蜃気楼みたいに滲む。
「……なんで」
自分でも気づかないうちに、唯愛は呟いていた。
目の前に立つトバリを見る。
違う。
トバリなのに、違う。
そこに別の誰かが重なりかけている。名前も顔も分からないのに、その存在だけは胸が知っている。もう二度と会えないはずだったものに、届きかけてしまったときの、どうしようもない痛み。
「……なんで、そこにいるの……?」
訓練場が静まり返った。
その言葉の意味を理解した者はいない。ただ異様な響きだけが砂の上に落ちた。
唯愛自身も、なぜそんな言葉が口をついて出たのか分からなかった。だが次の瞬間、熱がさらに大きくうねる。肺が焼ける。呼吸ができない。視界の中心にいるトバリだけがやけにはっきり見えて、その輪郭が現実と記憶の狭間で揺れていた。
危ない。
頭のどこかで、冷たい声が鳴る。
このまま何かが壊れる。
何が、とは分からない。自分かもしれないし、この場かもしれない。ただ、決定的に越えてはいけない線が目の前にあることだけは直感で理解した。
その線を、熱が無理やり踏み越えようとしていた。
「……」
トバリが、静かに一歩踏み込んだ。
それだけで空気が変わる。
今までとは違う。気だるげな冒険者としての立ち方ではない。ほんの一瞬だけ、その奥にある圧倒的な何かが輪郭を見せた。朝の訓練場に立っていたはずの一人の剣士が、別の、もっと古く、もっと巨大な存在へと重なるような錯覚。
兵士たちの顔色が変わる。グラドの目も鋭く細まった。
けれど唯愛には、ただその一歩だけが救いみたいに見えた。
トバリは木剣を捨てた。
砂の上にそれが落ちる鈍い音がした次の瞬間には、もう距離が消えていた。
「――落ち着け」
低く、しかしよく通る声だった。
唯愛の肩を、両腕ごと包み込むように支える。強引ではない。なのに逃れられないほど確かな力。触れた場所から、熱とは逆の静かな流れが染み込んでくる。指輪が、かすかに熱を返した。
声が、胸の奥に落ちる。
それは耳で聞く音ではなかった。
もっと深い場所。泣きたくなるほど懐かしい場所へ、真っ直ぐ届く。
「戻れ」
その一言で、何かが止まった。
暴れていた熱が、ぴたりと息を潜める。視界を埋めていた夕焼けが砕け、朝の光へと置き換わる。揺れていた空気が静まり、浮いていた砂がぱらぱらと地面へ戻っていく。
唯愛の膝から力が抜けた。
「……あ」
息が漏れる。
次の瞬間、堰を切ったように涙が溢れた。
どうして泣いているのか、自分でも分からない。怖かったからかもしれない。苦しかったからかもしれない。あるいは、ようやく届きかけた何かがまた手の届かないところへ消えてしまったからかもしれない。
トバリの腕の中で、唯愛は小さく肩を震わせた。
「だいじょう、ぶ……」
自分に言い聞かせるみたいな声だった。
「……うん」
トバリの返事は短い。
だがその声の奥にも、普段の余裕とは違うものが滲んでいた。
訓練場の空気が戻ってくる。
誰もすぐには動けなかった。勇者たちは言葉を失い、兵士たちもただ事ではない何かを見た顔をしている。彩葉が青い顔で一歩踏み出しかけ、東堂がその横で息を呑み、剣斗は何が起きたのか分からないまま眉をひそめていた。
グラドが最初に口を開く。
「……今日はここまでだ」
低い声だった。
「全員、持ち場へ戻れ」
その一言で、ようやく場が動き出した。ざわめきが遅れて押し寄せる。だが誰も大きな声は出さない。何かに触れてはいけないと本能で悟っているような、抑え込まれたざわめきだった。
唯愛はまだ呼吸が整わなかった。涙は止まったが、胸の奥には熱の残滓が鈍く残っている。自分の内側に、自分ではない何かがまだ潜んでいるようで怖かった。
「立てる?」
トバリが小さく問う。
唯愛は頷く。足は震えていたが、どうにか立ち上がった。
「……ごめんなさい」
かすれた声でそう言うと、トバリはほんのわずかに目を伏せた。
「謝る必要はないよ」
その返答が妙に優しくて、唯愛は余計に胸が苦しくなった。
何かが起きた。
もう、否定しようがないくらいはっきりと。
自分は普通じゃない。
あの瞬間、周囲の誰もがそう思っただろう。何より、自分自身が一番それを知ってしまった。
訓練場を離れながら、勇者たちの視線が背中に刺さるのを感じた。心配しているのが分かる。けれどその中に、ほんの少しだけ恐れの色が混じっているのも、分かってしまった。
仕方がない。
自分だって、今の自分が怖い。
石造りの通路に入ったところで、唯愛は一度立ち止まった。呼吸は落ち着きつつあったが、指先がまだ少し震えている。手のひらを見下ろす。何の変哲もない自分の手なのに、さっきまで別の誰かの感情に乗っ取られていたみたいな感覚が消えなかった。
「……私、何なんだろ」
小さな呟きは、冷えた石壁に吸われて消えた。
一方、訓練場の端に残ったトバリは、誰にも見えないように右手を握り込んでいた。
指輪が熱を持っている。
今までの微かな反応とは違う。はっきりと応じた。あの加護に。あの揺らぎに。あの“魂の軋み”に。
もう偶然ではない。
そう認めるしかないところまで、来てしまった。
タマモはゆっくり息を吐いた。表情は変えない。だが胸の奥では、千年閉じ込めてきたものが再び形を持ち始めていた。
ありえないはずの可能性。
認めれば全てが変わる可能性。
だからこそ、目を逸らしてきた。
だが今の反応を前にして、なお知らぬふりを続けることはできない。
「……これ以上、放ってはおけんか」
誰に向けるでもなく、低く零した。
その声は風に紛れ、誰の耳にも届かなかった。
だがその頃、訓練場のさらに外、城壁の上には別の視線があった。
ヤスナは腕を組み、下を見下ろしていた。赤い髪が風に揺れ、狐耳がぴくりと動く。細い目は楽しげにも、不機嫌にも見える危うい光を宿していた。
「へえ……」
小さく笑う。
今の一部始終を見ていた。加護の揺れも、空気の歪みも、そして何より――トバリの動きも。
ただ止めただけじゃない。
あれはもっと直接的で、もっと深い介入だった。
「やっぱり、そうなんだ」
誰に聞かせるでもなく呟く。
唯愛の異常も気になる。だが今ヤスナの興味を最も強く引いているのは、あのときのトバリの顔だった。
普段は何でも面倒そうに流しているくせに、あの瞬間だけ、あまりにも露骨に“失いたくないもの”を見る目をしていた。
あの顔を、ヤスナは知っている。
千年前から続く執着を、知らないはずがない。
「……それ、“あの子”なんでしょ」
風に溶けるような囁き。
答える者はいない。
だがヤスナはそれで十分だった。
口元がゆっくり歪む。面白がっているのか、苛立っているのか、自分でも定まっていない笑みだった。
「見つけた」
城壁の上から身を翻す。
軽やかに着地し、石の通路へと消えていく背中に、風が吹き抜けた。
均衡は、もう崩れ始めている。
まだ誰も真実には届いていない。だが、触れてはいけないはずのものに、確かに手がかかってしまった。
壊れるなら、ここからだ。
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