第12話 消えない熱
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## 第十二話 消えない熱
夜の高天原は、昼とは別の顔をしていた。
白く輝いていた城壁は月明かりの下で静かに色を落とし、石畳は淡い銀色を帯びている。遠く、城下の灯りが星のように瞬き、風に乗ってかすかな生活の気配が届いてくる。だが勇者たちの滞在区画は、その喧騒から切り離されたように静まり返っていた。
壁の向こうで、見張りの足音が一定の間隔で響く。
コツ、コツ、と乾いた音が規則的に続くたび、時間だけがゆっくりと進んでいることを思い出させた。
その中で、唯愛はベッドの上に横になったまま、何度目かの寝返りを打った。
「……眠れない」
小さく呟く。
体は疲れているはずだった。訓練で何度も剣を振り、慣れない動きを繰り返し、筋肉は確かに重い。瞼も決して軽くはない。なのに、目を閉じるたびに、別のものが浮かび上がってくる。
夕焼け。
風。
誰かの温もり。
それが自分の記憶ではないことだけは分かるのに、あまりにも“近い”。
目を開ける。
天井の石の継ぎ目が、やけにくっきりと見えた。
もう一度、目を閉じる。
今度は、ほんの一瞬だけ。
視界の奥に、色が差し込んだ。
赤。いや、橙。燃えるような空の色。揺れる草。風の匂い。すぐそばで誰かが笑っている気配。
――……モ……
呼ばれた気がした。
「っ……」
唯愛は思わず目を開いた。
呼吸が浅くなっている。胸の奥がじんと痛む。何かを思い出しかけているようで、でも決して届かない距離にある感覚。
「……何、今の」
夢、ではない。
けれど現実でもない。
ただ、消えない。
唯愛はゆっくりと起き上がり、自分の手首に触れた。昨日、トバリに掴まれた場所。
何も変わっていないはずなのに、そこだけが妙に意識に引っかかる。
温度はない。痕もない。なのに、内側だけがわずかに熱を帯びているような気がした。
「おかしいよ……こんなの」
ぽつりとこぼした声は、夜の静けさに吸い込まれて消えた。
眠ろうとしても、眠れない。
目を閉じるたびに、知らない記憶が“そこにある気配”だけを残してくる。
唯愛は膝を抱え、しばらくそのまま動かなかった。
胸の奥に残ったままの何かが、どうしても消えなかった。
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翌朝。
勇者たちが集まる食堂には、いつもよりわずかに重い空気が漂っていた。
長い木のテーブルに並べられた簡素な朝食。湯気の立つスープの匂いと、焼かれたパンの香ばしさが広がっている。だが、その温かさとは裏腹に、会話の端々には昨日までとは違う緊張が残っていた。
「なあ、やっぱトバリおかしくね?」
東堂がパンをちぎりながら言う。
「おかしいっていうか……いや、強いのは分かるけどさ」
「強いだけじゃないよね」
彩葉がスープを口に運びながら頷いた。
「見ただけで分かるの、あれ何?」
「いやほんとそれ」
別の男子が苦笑する。
「グラドもすごいけど、あっちは“分かる強さ”じゃん。トバリはなんか……違う」
「分かる。あれ、説明できないタイプのやつ」
笑いが起きる。
軽口は戻ってきている。けれどその奥には、昨日見た“壁”への意識が確かに残っていた。
「ヤスナもやばかったしな」
「いやあれ人間じゃないだろ」
「トバリと普通にやり合ってたしな……」
話題が移っていく。
その中で、唯愛は少し遅れてスープに手を伸ばした。
「……」
味が分からない。
温かいはずなのに、どこか遠い。
「唯愛?」
彩葉が顔を覗き込んできた。
「ん?」
「ぼーっとしてる。大丈夫?」
「あ、うん。ちょっと寝不足かも」
「ほんとに? 顔、昨日より悪いよ」
「そんなことないって」
笑ってごまかす。
けれど自分でも分かっていた。どこかズレている。視界の焦点が合っているようで合っていない。音も、ほんのわずかに遅れて届く気がする。
「でもさ」
別の声が割り込む。
「唯愛、昨日ちょっと動き良くなってなかった?」
「え?」
「いや、なんかトバリとやり合ってたとき。普通に合わせてなかった?」
「あー、思った」
東堂が頷く。
「一瞬だけだけどな」
唯愛は言葉に詰まった。
覚えている。
あのときの感覚。
“分かってしまった”あの瞬間。
「……たまたまだよ」
そう答えたが、声に少しだけ迷いが混じった。
彩葉がじっと見る。
「ほんとに?」
「ほんと」
それ以上は何も言えなかった。
言葉にしたら、何かが崩れてしまいそうな気がしたから。
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同じ頃。
高天原城の一角、静かな執務室の窓辺に、一人の影が立っていた。
朝の光が差し込み、長い影を床に落とす。
タマモは腕を組んだまま、外を見ていた。
城下の動き。人の流れ。日常の営み。それらは昨日と何も変わっていない。世界は変わらない顔をして回っている。
だが。
指先に、わずかな違和感が残っていた。
右手を開く。
嵌められた指輪が、淡く光を反射する。
そっと触れる。
冷たいはずの金属が、ほんのわずかに熱を帯びている気がした。
「……」
昨日の出来事を思い返す。
唯愛の反応。
あの一瞬の“重なり”。
そして、指輪の応答。
「偶然だ」
小さく呟く。
太陽の加護。強い魔力。それらが干渉すれば、似たような現象が起きることは理屈としてはあり得る。
だが。
「それだけで、ああなるか……?」
眉がわずかに寄る。
似ている、という話ではない。
あれは――
「……」
思考が、ある一点に触れかけて止まる。
千年前。
あの戦い。
あの最後。
腕の中で消えた温もり。
それと、同じ種類の“反応”だった。
「ありえん」
即座に切り捨てる。
そんなことはあり得ない。
魂は巡る。だが記憶は残らない。例外はない。自分でそう定義し、そう扱ってきた。
それを、今さら覆すなど。
「……」
もう一度、指輪に触れる。
沈黙していたはずの装置。
千年、何の反応も示さなかったそれが。
昨日、確かに“応じた”。
「……面倒なことになったな」
低く、静かな声だった。
それは嘆きでも怒りでもない。
ただ、逃れられない何かを前にした者の、冷静な認識だった。
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訓練場には、再び朝の光が満ちていた。
昨日と同じ場所。
同じ砂地。
だが空気はわずかに違う。
「今日は連携を見る」
トバリが言った。
「一人でどうにかするより、誰かと組んだ方が戦える場面も多いからね」
勇者たちがそれぞれ組を作る。
唯愛は彩葉と組むことになった。
「よろしくね」
「うん」
短い会話。
木剣を構える。
トバリは少し離れた位置に立ち、全体を見ていた。
「じゃあ、順番に」
最初の組が前に出る。
連携は難しかった。
動きが噛み合わない。距離が合わない。お互いの意図が読めない。単独ならできることも、二人になるだけで途端に崩れる。
「遅い」
トバリの声が飛ぶ。
「合わせようとしすぎ。まず自分の動きを安定させて」
指摘は的確だった。
次の組。さらに次。
少しずつだが、全体の動きが整っていく。
「次」
呼ばれる。
唯愛と彩葉が前に出る。
「いくよ」
「うん」
踏み込む。
その瞬間。
違和感が走った。
空気の流れが、少しだけ先に分かる。
彩葉が動く前に、その動きが“来る”と分かる。
右。
次は左。
ここで下がる。
考える前に、体が動いた。
「え、今の――」
彩葉が驚く。
だが唯愛自身も驚いていた。
できている。
なのに。
タイミングが、少しだけ“早い”。
自分でも制御できていない。
「もう一回」
トバリの声。
再度踏み込む。
今度はさらに強く出た。
視界がわずかに遅れる。
音が遠くなる。
その代わり、動きだけがはっきり見える。
トバリの視線。
足の向き。
次の指示が来る“前”。
――右。
体が先に動く。
「……」
トバリの目が、わずかに細くなった。
その瞬間。
世界が一瞬だけ歪んだ。
熱。
胸の奥から、何かがせり上がる。
「っ……!」
唯愛が息を呑む。
夕焼け。
風。
手。
触れた記憶。
知らないはずの、大切な何か。
次の瞬間。
「――そこでいい」
トバリの声が落ちた。
はっと現実に戻る。
呼吸が乱れている。
足元が少しふらつく。
「大丈夫?」
彩葉の声。
「……うん」
答えたが、自信はなかった。
トバリはしばらく唯愛を見ていた。
その視線には、昨日までなかった種類の慎重さがあった。
「……少しいい?」
訓練後。
トバリが声をかけた。
唯愛は一瞬だけ迷ってから頷く。
「はい」
少し離れた場所へ移動する。
他の者たちの声が遠くなる。
「今日の動き、悪くない」
トバリが言う。
「でも、少し気になる」
唯愛の心臓が跳ねた。
「……何が、ですか?」
「自分で分かってる?」
問い。
逃げ場のない形。
唯愛は一瞬だけ目を伏せた。
「……少しだけ」
「うん」
「変な感じがします」
言葉を選ぶ。
「知らない景色が、見えることがあって……」
そこまで言って、言葉が止まる。
おかしい。
そう思われるのが怖かった。
だが。
「……変ですよね」
小さく言った。
トバリは少しだけ沈黙した。
ほんの数秒。
だがその沈黙は、妙に重かった。
「……疲れかもしれない」
静かな声。
「無理はしないように」
それだけ。
それ以上は踏み込まない。
「はい……」
唯愛は頷く。
けれど分かっていた。
この人は、何か知っている。
なのに言わない。
聞けば届くかもしれない。
でも、聞いたら戻れない気がする。
視線が合う。
ほんの一瞬。
胸の奥が、また熱を帯びた。
言葉にならない何かが、確かにそこにあった。
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その様子を、遠くから見ている影があった。
城壁の上。
風に髪を揺らしながら、ヤスナが腕を組んでいる。
「……何、今の」
小さく呟く。
見ていた。
戦いではない。
だが確かに、“何か”が噛み合っていた。
「変なの」
視線を細める。
唯愛。
そして、トバリ。
どちらもおかしい。
だが、よりおかしいのは――
「……あいつ、あんな顔するんだ」
トバリの変化。
あれは知っている顔ではない。
もっと、深いところに触れたときの反応。
「へえ」
口元が歪む。
楽しげに。
あるいは、危うく。
「面白くなってきた」
風が強く吹く。
ヤスナの影が、城壁の上で揺れた。
何かが、確実に動き始めていた。




