第11話 触れない記憶
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## 第十一話 触れない記憶
翌朝の高天原は、よく晴れていた。
空は夜の名残をひとかけらも留めず、淡く磨かれた硝子のような青をどこまでも広げている。城の白い壁面は朝日を受けて冷たく光り、その足元にある訓練場には、まだ夜気の名残を含んだ乾いた空気が薄く沈んでいた。踏み固められた砂地には昨日の訓練の跡が幾重にも刻まれていて、兵士たちの靴音がそこを踏みしめるたび、細かな砂がさらさらと音を立てて崩れていく。
城壁の上には見張りの兵が立ち、槍の穂先が白く光っていた。遠く、城下からは商人たちの呼び声や荷車の軋む音がかすかに届いてくる。だが、この訓練場だけは別の空気に包まれていた。
張り詰めている――というより、昨日まであったどこか浮ついた甘さが、すっかり消えていた。
勇者として召喚された三十人の高校生たちは、各々木剣を手に並んでいた。顔ぶれは昨日と同じなのに、その表情だけが違う。戸惑いや不満が完全に消えたわけではない。それでも、昨日トバリとヤスナの戦いを目の当たりにしたことで、自分たちが今どれほど無力な場所に立たされているのか、その輪郭くらいは見えてしまったのだろう。
木剣の柄を握る手に、昨日までのような気楽さはない。
神崎剣斗は口数少なく黙って準備運動をしていたし、東堂も珍しく無駄口を叩かない。彩葉でさえ、笑みの端にわずかな強張りを残していた。
その中で、唯愛はひとり、別の理由で落ち着かなかった。
木剣を胸の前で持ったまま、視線だけをそっと巡らせる。訓練場の入口、兵士たちの列、その奥の石造りの通路。まだ来ていない。そう確認したはずなのに、胸の奥のざわつきは収まらなかった。
――トバリ。
昨日、グラドがそう紹介した名前を、心の中でそっとなぞる。
それだけで、なぜだか胸が少し痛んだ。
知っているはずがない。初めて聞く名前のはずなのに、口に出さず心の内で転がすだけで、何か古い傷跡を指先でなぞったみたいな感覚が残る。懐かしい、というにはあまりに曖昧で、気味が悪い、というにはあまりに切なかった。
唯愛は小さく息を吐いた。朝の冷たい空気が肺に入り、少しだけ頭が冴える。
「……何なんだろ」
誰に聞かせるでもなくこぼした声は、砂地に落ちて消えた。
「緊張してる?」
隣から彩葉が覗き込んでくる。いつもの明るさを取り戻そうとしているのか、少しだけ作ったような笑みだった。
唯愛ははっとして首を振る。
「え? あ、ううん……」
「ほんとに? 顔、ちょっと固いよ」
「そうかな」
「そうそう。昨日の見たらまあ、無理もないけど」
彩葉は肩をすくめてから、訓練場の中央へ視線を向けた。そこには既にグラドが立っている。朝の白い光の中でも、その巨躯は揺るがない岩のような安定感を放っていた。
「でもさ」
彩葉が声を潜める。
「今日も来るのかな、あの人」
唯愛の胸が、ひとつ大きく鳴った。
あの人。
それが誰を指しているのか、聞き返さなくても分かってしまう自分が少し嫌だった。
「……どうだろう」
何でもないふうを装って答えた、そのときだった。
兵士たちの空気がわずかに変わる。
訓練場の入口から、一人の影が入ってきた。
黒い外套。深く被ったフード。朝の光の中でもどこか輪郭の掴みづらいその姿を見た瞬間、唯愛は喉の奥がひりつくような感覚を覚えた。
来た。
足音は驚くほど静かだった。砂を踏んでいるはずなのに、まるで地面そのものが彼の歩みを拒まず受け入れているみたいに、音が立たない。フードの奥から覗く金の髪が、朝の光を受けてわずかに淡く光る。狐耳が布の隙間から揺れ、その姿に人ならざる気配を与えていた。
トバリは気だるげに片手を上げた。
「おはよう」
寝起きの挨拶みたいな気安さだった。
けれど、その一言だけで兵士たちの背筋がわずかに伸びるのを、唯愛は見逃さなかった。グラドほど分かりやすい威圧感ではない。だがこの人がいるだけで、場の温度がほんの少し変わる。何でもない顔で立っているのに、視線の置き方ひとつ、呼吸の間ひとつが妙に洗練されていて、見ている側の気が緩まない。
グラドが短く告げる。
「昨日に続き、今日からトバリにも訓練を見てもらう」
勇者たちの間に小さなざわめきが広がった。昨日の戦いを見た後では、露骨に不満を口にする者はいない。ただ、それでも緊張は走る。強い人間に教わることへの期待より先に、その強さを向けられることへの身構えがあった。
トバリはそのざわめきを特に気にした様子もなく、ゆっくりと一同を見渡した。
「まあ、そんなに身構えなくていいよ」
柔らかい声だった。
「別に食べたりしないし」
それで何人かが小さく笑った。ほんの少しだけ、強張っていた空気がほどける。冗談を言っただけなのに、それすら計算されているように見えてしまうのは、唯愛の考えすぎだろうか。
「今日は基礎の確認から入る」
グラドが言う。
「剣を振る力をつける前に、自分の癖を知れ。直せる癖は直す。それだけで戦い方は変わる」
「じゃあ、順番に見ようか」
トバリが木剣を一本拾い上げる。その動作に無駄はなかった。しゃがむ角度も、握る位置も、立ち上がる流れも、あまりに自然で、逆に目を引く。
最初に呼ばれたのは剣斗だった。
「昨日よりは少しマシな顔してるね」
「褒めてます?」
「半分くらいは」
軽口を返しながら、トバリは剣斗に構えを取らせた。剣斗が真面目な顔で木剣を握る。肩に力が入っているのが、見ているこちらにも分かった。
「打ってきて」
短く言われ、剣斗が踏み込む。
乾いた音が訓練場に響いた。
一合、二合。すぐに止めが入る。
「肩が先に落ちる」
トバリはあっさりと言った。
「踏み込む前に、打つって顔をしてる。だから遅い」
「……顔?」
「うん。あと怖がってる」
剣斗が目を瞬く。
「え、怖がってる?」
「当てることより、外した後を気にしてる。だから踏み込み切れてない」
図星を突かれたのだろう。剣斗の眉がわずかに寄る。反論しかけて、それが出来ない顔だった。
トバリは木剣の先で剣斗の足元を軽く示す。
「右足は悪くない。でも左が逃げる。退くための足になってる」
言われた剣斗が、無意識に左足を見下ろした。
「もう一回」
同じようにやらせる。今度は少しだけ踏み込みが深くなる。剣筋も先ほどより素直だった。
たったそれだけで動きが目に見えて変わることに、勇者たちの間から小さなどよめきが起きた。
次に東堂。
「力はある。でも力で押し切れる相手しか見てない」
「……悪いことか?」
「悪くはないよ。ただ、強いやつに一番通じない」
東堂が舌打ち混じりに鼻を鳴らす。だが言い返しはしなかった。昨日、自分がどれだけ簡単にあしらわれたかを思い出しているのだろう。
「君は前に出るのは得意だ。だから引くことを覚えた方がいい。逃げるんじゃなくて、釣るために」
彩葉には「見えてる範囲が狭い」と言った。
「たぶん反応は悪くない。でも見てる場所がずっと相手の剣先だけだ。それだと、相手ごと騙されるよ」
「相手ごと?」
「視線、肩、腰、足。剣はその結果でしかないから」
なるほど、と彩葉が素直に頷く。
一人、また一人と見ていくたびに、訓練場の空気が変わっていった。
強いだけではない。この人は、よく見ている。
それも、上辺ではなくもっと深いところを。剣の形ではなく、その人間がどう恐れ、どう迷い、どう動こうとしているのかまで、一目で見抜いてしまうみたいに。
唯愛はその様子を見ながら、落ち着かない胸の奥を持て余していた。
トバリの言葉が、妙に耳に残る。
他の誰かに向けられているはずなのに、不思議と自分まで見透かされているような感覚がした。しかも責められているわけではない。淡々としているのに、どこか不思議な温度がある。その温度に触れそうになるたび、安心しそうになって、でも同時に泣きたくなるような痛みが胸の内側を引っ掻いた。
どうしてだろう。
あの人の声を聞いていると、遠いところから誰かに名前を呼ばれているような気がする。
知らないはずなのに。
知っているはずがないのに。
「次」
その声で、唯愛ははっと顔を上げた。
気づけば自分の番だった。
喉が、ひどく乾く。
周囲の視線を感じながら前に出ると、砂の感触が急に頼りなく思えた。木剣を握る手にじわりと汗が滲む。朝の冷たい空気のはずなのに、指先だけが熱い。
トバリはいつもと同じ調子で立っていた。
けれど、唯愛の前に立つときだけ、ほんの一瞬だけ間が空いた気がした。それが本当にあったのか、唯愛の思い込みなのかは分からない。
「構えて」
短い言葉。
唯愛は言われるままに木剣を構えた。
「力まなくていい。いつも通りで」
いつも通り。
そのはずなのに、胸の奥がうるさい。呼吸が妙に浅くなる。目の前の相手を見ているだけで、言葉にならない何かが胸の奥からこみ上げてきて、形になる前にまた沈んでいく。
「……では、いきます」
「うん」
踏み込む。
木剣を打ち込む。
軽い音。受け流される。
分かっていた。通じるはずがない。昨日の戦いを見ていればなおさらだ。なのに、二合、三合と続けるうちに、妙な感覚が生まれた。
怖いほど自然に、次の位置が分かる。
右。違う。左下から来る。そこに合わせればいい。
頭で考えるより先に体が動いた。自分でも驚くほど迷いがない。木剣と木剣が触れ合うたび、乾いた音が鼓膜ではなく胸の奥で鳴っているみたいだった。
「……あれ」
思わず心の中で呟く。
打ち合えている。
もちろん、相手が合わせてくれているのは分かる。それでも昨日までの自分なら、もっと簡単に崩されていたはずだ。なのに今は、一瞬だけとはいえ、妙に噛み合ってしまう瞬間がある。
トバリの剣がどこへ来るか、完全ではなくても、なぜか“知っている気がする”。
ありえない。
自分の実力ではない。
なのに体が、懐かしい動きに再会したみたいに勝手に反応する。
トバリのほうも、ほんのわずかに目を細めた。
「……へえ」
小さな声。
次の瞬間、唯愛は自分の木剣が大きく弾かれたことに気づいた。体勢が崩れる。倒れる、と思ったその刹那、腕を掴まれる感触があった。
熱い。
そう感じたのは一瞬だった。
トバリの指先が自分の手首に触れた、その瞬間。
視界が白く揺れた。
朝の訓練場ではない。白い光とも違う、もっと赤に近い眩しさ。夕焼け。風の匂い。草が揺れる音。遠くで誰かが笑っている。柔らかな金の光。触れた手のぬくもり。胸の奥を締めつけるほど大切だった何か。
――置いて、いかないで。
自分のものではないはずの感情が、刃のように胸を貫いた。
「っ……!」
唯愛が息を呑む。
景色は一瞬で消えた。そこにあるのは、朝の光の降る訓練場と、目の前のトバリの姿だけ。けれど胸の奥には、さっき確かに存在した温度だけが残っていた。
何、今の。
夢じゃない。妄想でもない。けれど思い出でもない。自分が知るはずのない何かが、ほんのひとかけらだけ、触れては消えた。
唯愛の指先が震える。
息がうまく吸えない。
その異変に気づいたのか、トバリがすぐに手を離した。
「……そこで止めようか」
いつも通りの声音。だが、その静けさの下に、ほんの微かな硬さが混じった気がした。
周囲から見れば、唯愛が少し体勢を崩しただけにしか見えなかったのだろう。ざわめきは起きない。グラドも黙って見ている。けれど唯愛には、自分の鼓動だけがやけに大きく聞こえた。
「だ、大丈夫……です」
声が少し掠れた。
トバリは数秒だけ唯愛を見て、それからいつもと変わらない調子で言った。
「飲み込みは早い。考えるより先に体が反応するタイプだね」
周囲にも聞こえるような、指導者としての評価の声。
「でも、それに頼りすぎると危ない。自分で分かってない反応は、いずれ制御できなくなる」
唯愛は頷いた。頷くしかなかった。
言葉は耳に届いているのに、その奥ではさっきの残像がまだちらついている。夕焼け。風。知らないはずの温もり。どうしてあんなものが見えたのか、まるで分からない。
トバリはすでに次の者へ視線を移していた。
「次、どうぞ」
声は普段通り。立ち姿も変わらない。けれどその横顔が、ほんの少しだけ冷たく見えたのは気のせいではなかった。
訓練はそのまま続いた。
木剣の音、兵士たちの声、砂を蹴る音。何もかもいつも通りのはずなのに、唯愛にとっては世界の膜が一枚ずれたみたいだった。自分だけが別の温度の中に取り残されている。
訓練の終わりが告げられても、しばらく体が動かなかった。
「唯愛?」
彩葉の声に呼ばれて、ようやく顔を上げる。
「ほんとに大丈夫? さっきちょっと顔色悪かったけど」
「……うん、ちょっとびっくりしただけ」
「びっくり?」
「なんでもない」
そう答えたものの、自分でもその声がひどく頼りなく聞こえた。
何でもないはずがない。
何でもないなら、どうしてまだ胸が痛いのだろう。
どうしてあの人に触れた瞬間だけ、あんなふうに知らない景色が流れ込んできたのだろう。
唯愛は無意識に、自分の手首をそっと押さえた。さっき掴まれた場所に、もう熱なんて残っていない。それでも皮膚の下にだけ、微かな温度が澱のように残っている気がした。
一方で、訓練場の端を離れたトバリは、誰の視線も届かない石壁の陰で立ち止まっていた。
フードの奥、金の瞳が静かに伏せられる。
右手に嵌めた指輪へ、そっと親指が触れた。
金属は本来の冷たさを失っていた。ほんのわずかだが、確かに熱を持っている。
ありえない、とタマモは心の中で吐き捨てる。
ただの偶然だ。そう片づけてしまうには、さっきの反応はあまりにも生々しかった。唯愛の中にある太陽の加護。それに触れた瞬間、指輪が応じた。胸の奥の、千年触れずにいた場所を、誰かに素手で撫でられたような感覚だった。
そして、一瞬だけ。
目の前の少女の向こうに、別の面影が重なった。
そんなはずがあるものか。
あっていいはずがない。
トバネは死んだ。自分の腕の中で。最後の声も、最後の温度も、喪った痛みごと、忘れたことなど一日たりともない。
なのに今さら、似てもいない別人にあの残滓を見るなど、悪い冗談にもほどがある。
タマモは小さく息を吐いた。熱いのか冷たいのか分からない息だった。
「……今さら、何を寄越すんだ」
零れた言葉は、ひどく静かだった。
怒りではない。戸惑いでもない。もっと古くて、もっと重い感情が、声になり切れず沈んでいる。
指輪に触れたまま目を閉じる。
忘れたことはない。捨てたこともない。だが、それでも千年という時間の中で、傷を傷のまま飼いならして生きてきたのだ。今さらそれを掻き開かれても困る。
――面倒なことになったな。
胸の内でそう呟き、タマモはゆっくりと目を開けた。
その頃、唯愛は訓練場を後にしながら、何度も振り返りそうになる自分を必死に抑えていた。
呼び止めたいわけじゃない。何を聞けばいいのかも分からない。ただ一つだけ、どうしても消えない感覚がある。
あの人の声を、自分はどこかで知っている。
それがいつで、どこで、誰としてなのかは分からない。
分からないのに、胸の奥だけが答えを知っているみたいに痛んでいた。
朝の光はまだ明るく、城の白壁に反射して眩しかった。けれど唯愛には、その明るさの向こうに、なぜか夕焼けの色がちらついて見えた。
触れたはずのない記憶が、確かにそこにあった。
まだ名前も持たないまま。
ただ、消えずに残っていた。
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