96.自主練
「ほな、今日はここまでにしよか」
治兵衛さんが声を上げると、皆手を止めて片付けに入る。
助さんと格さんも慌ただしく作業場内を駆け回る。
その様子を見て、よし、今だ、と新しい紙を用意して二人を描く。
が、予測不能な動きに翻弄され、上手く描けない。
止まってぇ、と思いながら視線で二人の姿を追う。
「なにしてんねん。もう片付けや」
春蝶さんに声を掛けられる。
「あと少しだけ……」
「何言うてんねん。そんなんやったら灯りがいつまでたっても消されへんやろっ」
春蝶さんに怒鳴られる。
が、だったらどうやって練習したらいいのよっ。
「せやで。灯り代も馬鹿にならへんさかいな」
春蝶さんの怒鳴り声を聞いてやって来た治兵衛さんも私に片付けるよう促す。
練習してもいいって言ったのに残業もさせてくれない。
渋々家に帰るも、次の日も同じだった。
朝からずっと仕事をして、あっという間にお昼になった。
さっさと食べ終えて、助さん、格さんの動きを観察すべく姿を探す。
が、二人の姿はない。
せっかく時間作ったのに、肝心の二人がいないと意味がない。
探し回っていると。
「食べ終わったんやったら、これもやっといてんか?」
春蝶さんに捕まって再び仕事に戻ることに。
そして、練習する時間を持てないまま、また一日が終わった。
「治兵衛さん、少しだけ残っちゃダメですか?」
「あかんあかん。もう帰るで」
「でも、今日も全然練習できていなくて……」
そう訴えてみたけど。
「そう言われてもな。皆帰るよって、ウメだけここに残す訳にはいかんのや」
「じゃあ、いつ練習すれば……?」
「そこは自分で工夫して時間作るしかあらへんのやないか?」
そう言われても、暇な時間なんてないし、昼休憩だってきっちり取れてないのに。
「描くだけが修行やない。じっくり動きを見て覚えるんも大事やで」
治兵衛さんのアドバイスに確かにそれもいい方法だと思った。
思ったけど、じっくり観察する時間なんてない、とも思った。
翌日。
衣の模様を描きながら助さん、格さんの動きを目で追っていると。
「手が止まっとるで」
春蝶さんに小突かれた。
二人の動きを観察しながら別の絵を描くなんて、そんな器用なことは私にはできない。
仕方なくお昼休みにご飯を食べながら二人の姿を追った。
「……なんですか? 足りまへんか?」
あまりにじっと見つめていたせいか、格さんが怪訝そうに訊いて来た。
「い、いえっ。ただ、その……動いている人を描く練習をしたくて……」
私がそう答えると「ああ」と格さんは納得した様子で隣に腰を下ろした。
「私も芝居小屋で同じこと試してみてます。月に一遍行けるかどうかやから、全然上達せぇへんのやけど」
格さんも絵師見習いでここにいるんだった。
普段、雑用に追われて筆を握る時間はほぼないから忘れてた。
「せやけど、芝居は筋を覚えてしまえば、次にどう動くか分かります。その場の客の様子で動きが変わることもありますけど……私らはそん時そん時で違う動きをしますさかい。まずは決まった動きをする人から慣れた方がええのんと違いますか?」
「そうですね……でも、治兵衛さんは芝居小屋に入り浸ることができないから、身近な助さん、格さんの動きを観察したらどうかって……」
「師匠が? まあ、芝居は無料やないし、時間もかかるさかい……」
格さんは一瞬驚いた表情を見せたが、すぐに両腕を組んで渋い顔をした。
「格さんは一日中動き回ってるじゃないですか。一体いつ絵の練習してるんですか?」
「れんしゅう? 稽古のことでっか? それやったら家で描いてます。ここじゃ師匠の許しがないとまだ筆を握られへんさかい。せやから、梅吉はんが羨ましいです」
そう言って格さんは笑みを浮かべた。
その言葉でハッとする。
突然転がり込んできた素人の新人が、いきなり自分を差し置いて作業場で筆を握っているのだ。
私だったら面白くないと思う。
なのに格さんは嫌な顔一つせず、こうして親身にアドバイスをくれる。
私より年下なのに、格さんってすごいな。
なんだか尊敬してしまう。
「格ッ。なに油売ってんねんっ」
春蝶さんの怒号が飛ぶと、格さんが慌てて立ち上がる。
「あと、師匠のことは『師匠』か『春好斎先生』って呼んだ方がええですよ」
去り際、格さんはそう言って駆けて行った。
確かに皆、互いを画号で呼び合っている。
『治兵衛』と呼ぶ人は玄斎さんとかご近所の人くらいだ。
それもごく一部のご近所の人。
もし、治兵衛さんが新しい画号になったら……
今度は『北洲』って呼ばれるようになるのかな?
同じ人なのに名前が変わるって不思議。
結婚して苗字が変わることもあるし、歌舞伎などの芸能の世界ではよくあることだけど。
治兵衛さんを『春好斎』とか『北洲』って呼ぶのは……なんだか遠い人になってしまう気がして抵抗がある。
ただの……名前なのに。
たかが名前なのに。




