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花枝春色 - 鉛筆一本から始まる再起録  作者: 紬 蒼
其ノ肆:真価と進化
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95.芝居小屋

 舞台から少し遠いものの、よく見える位置に空いてる席を見つけて座る。

 席と言っても椅子ではなく、座布団に座す形だ。

 歌舞伎というと、基本的には子供が気軽に入れない、敷居の高い場所だと思っていた。

 現代でのイメージはそういう印象だが、大衆演劇のように客はリラックスして、時折威勢のいい掛け声があちこちから飛んでくる。

 劇場というよりライブ会場に近い。

 治兵衛さんは座るなり、持って来た風呂敷包みを広げた。

 何を持って来たのかと覗き込むと、絵を描く道具だった。


「息抜き言うたが、実はウメにこの舞台を見た通りに、あるがまんま描いて欲しいねん」

 筆を渡され、反射的に受け取る。

「前に物盗りを描いたことあったやろ? あん時みたいに描いてくれへんか? で、それを持ち帰って皆に下絵描かそう思うてん。これやったら全員が芝居を見に行かへんでも描けるやろ?」

 なるほど。

 私に写真の代わりをさせるつもりなんだ。

 確かにその方が仕事の効率はいい。

「分かりました」

 ひったくり犯を描いたという経験があったし、これまでにも人物画はたくさん描いて来た。

 だから自信はあった。

 のだけれど。


 実際、描き始めると、舞台上を絶えず動く役者に苦戦する。

 基本的に激しい動きはない。

 むしろゆっくりとした動作の方が多い。

 それでも、動作の合間に立ち止まることはあっても、役者を追いながら描くのは思っていたより難しかった。

 動けば衣装の皺も変わる。

 化粧をしていて表情が分かりにくいが、それでもずっと同じではない。

 その一瞬を切り取って絵にするというのは、実は私はやったことがなかった。


 思い返せば、美術部では静物画や風景画が多かった。

 人物画も椅子にじっと座っている人や、動きがあるものでも写真を見ながら描いていた。

 ひったくり犯も人相書きが必要だったから、全身ではなく、一瞬、目が合った時の顔を描いただけだ。

 自分は『止まったもの』しか描けない。

 それに今初めて気づいた。


 私の手が止まるのを見て、治兵衛さんが「すまんかったな」と声をかけた。

 私が顔を上げると、明らかに落胆していた。

「息抜きや言うて連れ出したのに、絵を描かせるんは無粋やったな。それに芝居を見るんは初めてやろ? しっかり見て楽しまんとな」

 そう言って私からそっと筆を取り上げた。

 せっかく私の絵を評価して任せようとしてくれたのに。

 悔しくて涙が出そうになる。


「今、舞台の真ん中におるんがこの演目の主役や。衣装の柄、動きをしっかり見ときや」

 治兵衛さんはその後もいろいろとこの演目について、役者について説明してくれたけど、私は涙を堪えるのに必死で、ほとんど頭に入って来なかった。


 動きのあるものを描けるようになる。


 それは、今の私に必要なことだ。

 治兵衛さんの期待を、これ以上裏切りたくない。

 それに、絵師としてもっと腕を磨きたい。


「売れる絵ってのは人を惹きつけるもんがある絵だ。人の心を動かすのは……物語だ」

「絵は上手い下手やあらへん。見る者の心に何を残すかや」


 北斎も治兵衛さんの師匠も似たようなことを言っていた。

 今の私に足りないのはこれだ。


 よしっ。

 そうと決まれば、今日から早速練習しないとっ。


 膝の上で両手を握り締める。

 そして、舞台上の役者を目に焼き付けるようにじっと見つめた。


 芝居を最後まで見て外に出ると、日はすっかり落ちて辺りは暗くなっていた。

「しもた……提灯のこと考えてへんかった」

 治兵衛さんが頭を抱える。

 その様子に懐を抑える。

 そういえば、作業場に来る前、スマホを見ていたところに春蝶さんらが来たので、慌てて懐に隠した。

 スマホのライトを使えば、提灯の代わりにはなるけれど、さすがにこんな人が多い場所で堂々と使えるはずもなく。

 とりあえず同じ方面へ歩く人の後ろについて帰ることにした。

 それでなんとか作業場に辿り着くと、相変わらず皆、黙々と作業を続けていた。


「どないな具合や?」

 治兵衛さんが春蝶さんに進捗を問うと、春蝶さんが目を細め、治兵衛さんをじっと見つめた。

「な、なんや?」

「二人だけでどこへ行きはったん? こっちは只管(ひたすら)絵ぇ描いてたんやが、まっさか芝居にでも行って遊んではったんやないやろなぁ?」

 ずるい、と言わんばかりの目線に治兵衛さんが「遊んでへんわっ」と怒る。

「ウメがまだ芝居見たことあらへんかってん。絵ぇ描くのに生で見て、肌で感じるんが一番やからな」

「そんで、絵は描けたんかいな?」

 春蝶さんが治兵衛さんの風呂敷包みに視線をやる。

「舞台から遠かったさかい、あまりよく見れへんかってん。朝から行かへんとええ席に座れへんな」

 治兵衛さんの言葉に春蝶さんは疑いの目を向けていたが、私を一瞬睨みつけて、再び作業に戻った。


 そして、翌朝。

「治兵衛さん、あの……昨日のことでちょっとご相談があるんですけど」

 朝食を食べ終えたところで切り出した。

「なんや?」

「動いてる人を描くにはどうしたら……?」

「描いて慣れるしかないな」

「慣れる……ってことは練習するしかないってことですか?」

「せや。とにかく描く。それに尽きるな。俺は芝居小屋に入り浸って描いてたんやが、別にそれだけが方法やない。ウメの場合は作業場で助と格を描いたらええ。あいつらは筆の準備や飯の段取りやなんか、忙しなく動いとるさかい。せやけど、衣の模様や下絵の手伝いはいつも通りしてもらうで。練習するんは自分で時間を見つけてやったらええ。せやけど、他の作業に障りが出るんは許さんで?」

「分かりました」

 とは言ったものの。


 次から次へと仕事を頼まれ、トイレに行くのがやっとなのに練習する時間なんてほとんどない。

 こんなに忙しい中、練習ってどうやれば……?


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