94.説得
作業場が静まり返る。
私達のただならぬ様子に他の人達も作業の手を止めて、こちらを注視している。
「で? 三人でコソコソと何を話し合ったんや?」
治兵衛さんが珍しく真剣な表情で切り出した。
目が怖い。
「画号を受けてくれはったら、箔がつく。それで依頼が増えたら、わしらにも仕事が回る。今も忙しゅうしとるが、小口の仕事ばっかりや」
春蝶さんが主張する。
「大口の仕事がしたいんやったらまず腕を磨きや。下手な者に依頼なんぞ来るわけあらへんやろっ」
「わしのどこが下手やねんっ」
「茶会でも版元の評価は梅吉より下やったやろ」
治兵衛さんの言葉に「ぬっ」と春蝶さんが言葉を詰まらせた。
「上手くても名が知れてない者にも依頼はあらへんで」
春陽さんが助け舟を出すと、春蝶さんが「そうやっ」と再び威勢を取り戻す。
「名前を変えても知られるかどうかは分からへんやろ。それに北斎の門人やって言われるんは……俺は受け入れられへんっ」
北斎の門人。
その言葉に私はハッとした。
北斎に認められて画号が変わるだけ。
そう単純に考えていたけど、その意味をちゃんと理解していなかった。
あのお茶会は元々開かれる予定じゃなかった。
だから治兵衛さんと北斎が出会う運命じゃなかった。
私がここに来たせいで、運命が変わってしまった。
なら、治兵衛さんを北斎の門人にしてはいけないんじゃ……?
でも、北斎に師事できるなんて、そんな機会を不意にしてしまうのは勿体ない気がする。
治兵衛さんにとって北斎というブランドを得ることよりも、その技術を継承できることは魅力的なはず。
治兵衛さんは無名なだけで、実力はあの北斎が認めるくらいある人だ。
反対しないといけないのに、応援したい。
そう思ってしまう。
そして、ふと思い出す。
「変えるためにここへ来たんかもしれへんやんか。ウメの知っとる未来が正しい未来とは限らへんやろ?」
以前、橋の下で悩んでいた私に治兵衛さんはそう言った。
歴史を変えてしまうかもしれない。
でも、私の知ってる歴史が正しいとも限らない。
なら、その人にとって良い選択ができる方へ進んでもいいんじゃない?
「梅吉はんもなんか言うてやっ」
春蝶さんに促され、一瞬本当に説得すべきか迷う。
が、結局最後に決めるのは治兵衛さんだ。
そう思い直した。
「売れる売れないはひとまず置いといて、北斎に師事できる機会を逃すのは勿体ないと思います」
「売れるかどうかは大事やろっ。そこがこの話の肝やのにっ」
私の言葉に春蝶さんが反論する。
「絵を見て学べることもある。直接教わることが全てやない」
治兵衛さんも頑なに譲らない。
「なにも今の師匠を捨てて北斎に乗り換えろって言ってる訳じゃないです。親が二人いるように師匠が二人いてもいいじゃないですか」
治兵衛さんが頑なに新しい画号を拒むのは、親のように慕っていた松好斎半兵衛さんの存在が大きいからだ。
きっと松好斎さんから貰った画号を改めるということは、自分の師を捨てるような裏切り行為のように思えるんだろう。
その気持ちも分からなくもない。
でも、この機会を逃して欲しくない。
「絵師と親とは別や。一緒に考えるんは間違っとる」
頑固者め。
こっちが心折れそうになる。
でもっ。
「画号も『春好斎』という名は残ります。そこに『北洲』という名が加わるだけです。名前が変わっても治兵衛さんが変わる訳じゃない」
「俺も別に名前にこだわっとる訳やない。俺は一生松好斎半兵衛の門人や。せやけど、名前を変えたら北斎の門人やってことになる。そう思われるんが嫌やねん」
治兵衛さんは「この話は終わりやっ」と立ち上がり、自分の作業に戻ってしまった。
残された私達三人は顔を見合わせ、説得に失敗した落胆でしばらくその場から動けなかった。
「……時間置いてまた説得するしかあらへんな。拒絶する理由は分かったんや。そこを突き崩すだけのもんを用意せんとな」
春陽さんが淡々と言って立ち上がり、それにつられるように春蝶さんも自分の持ち場へと去って行った。
私もいつものように衣に模様を入れる作業に入る。
けれど、治兵衛さんが画号を受け入れないことに少しだけ安堵した。
きっと私が何をしても治兵衛さんの未来は変わらない。
そんな気がしたからだ。
でも、同時に本当にこれでいいのかという疑問は消えず、筆を握る手には力が入らなかった。
溜息と同時にお腹が鳴って、まだお昼を食べていなかったことと、お綾さんに貰ったお粥の存在を思い出す。
確か春蝶さんが鍋を助さんに渡していたはず。
と、助さんの姿を探す。
「梅吉はん」
声を掛けられ振り返ると、格さんが茶碗と箸を手に立っていた。
「これ、持って来はった粥です。温め直したんやけど……まだ余ってるさかい、わしらも頂いてもよろしいやろか?」
差し出された茶碗と箸を受け取りながら「いいですよ」と答えると、「おおきにっ」と顔を綻ばせて戻って行った。
お粥で大袈裟だな、と思って茶碗の中を見ると。
「……炊き込みご飯?」
そう思うほど具だくさんのお粥だった。
鶏肉、卵、蕪、椎茸、人参……それに鯛まで入っていた。
温かいお粥がお腹に沁みる。
お出汁もしっかり効いていて、料亭で出てきそうな味だった。
「ウメ、ちょっとええか?」
お粥を堪能していると、不意に治兵衛さんが隣に座った。
「それ食い終わったら、気分転換に芝居見に行かへんか?」
「芝居って……この時間からでも入れるんですか?」
確か前に玄斎さんに行きたいと言った時は朝から行くべきだと言われた。
多分、もう一時か二時にはなっているはず。
「今からやったら急げば見せ場に間に合うやろ。もうすぐ顔見世で役者も入れ替わる。その前に今の役者を見せておきたいんやけど」
役者絵を描くには役者を見る必要がある。
それは以前にも痛感したことだ。
まだ一度も見たことがないのはこれから絵を描く上では致命的だ。
急いで食べ終えて、私達は芝居小屋へ向かった。
芝居小屋は作業場から近く、あっという間に着いた。
建物の前には人が集まり、威勢のいい声が飛び交っている。
三味線の音がどこからともなく聞こえて来る。
「ここが……芝居小屋?」
思わず足を止める。
想像していたより、ずっと大きい。
看板や幟が並び、役者の名前らしき文字が大きく書かれていた。
芝居小屋そのものが、もう芝居の一部みたいだった。
「早よ中入るでっ」
「あ、待ってください!」
慌てて治兵衛さんの後を追う。
中へ入った途端、さらに多くの音が押し寄せてきた。
人の話し声。
笑い声。
呼び込みの声。
三味線。
太鼓。
何を言っているのか聞き取れないほど、いろんな音が重なっている。
その向こうに舞台がある。
舞台。
テレビの画面越しではなく、本物の舞台。
「すごい……」
思わず声が漏れる。
舞台の上には鮮やかな衣装を着た人達がいる。
遠くからでも分かる。
着物の柄。
髪の形。
顔に施された化粧。
立っているだけなのに、普通の人とは違って見えた。
現実から切り離された異世界がそこに広がっていた。




