92.思惑
溢れて止まらない涙を拭って、深呼吸する。
それから懐からスマホを取り出し、電源を入れてみた。
残りの充電は『42%』と表示されている。
半分を切った。
時刻は午前十時二分。
細かくて正確な時間。
そして、日付は十二月五日金曜日と表示されていた。
そういえば、スマホを見ても日付はちゃんと見てなかった。
ここでは今、神無月だと言っていた。
まだ十月。
でもそれは旧暦で、新暦では今は十二月なんだ。
ん?
ってことは、私がいなくなって、会社は今どうなってるんだろう?
無断欠勤だと思われてる?
いや、鞄とか会社に置いたままだから、失踪とかでニュースになってるのかな?
江戸時代に来て約一カ月。
今更そんなことを考える。
でも、どうでもいい。
いつか現代に帰れるのだとしても、このまま江戸時代で一生を終えるのだとしても。
今はただ、足の痛みと旅の疲れで何も考えたくなかった。
眠りたい。
そう思って畳の上に寝転がって目を閉じた。
そこに勢いよく玄関の戸が開く音がする。
「梅吉っ、逃げるでっ」
上半身を起こすとそこには息を切らせた春蝶さんと春陽さんがいた。
何事か理解する前に春蝶さんに腕を掴まれ、外に連れ出される。
「あ、あのっ。逃げるって……?」
「話は後やっ。とりあえず逃げなっ」
腕を引かれるも、草履を履く暇もなく連れ出された上、足には肉刺がある。
玄斎さんに手当してもらったけど、走れない。
そんな私の足に気づいた春陽さんが春蝶さんの腕を掴んだ。
「あっ。なんや、早よ言うてぇな」
春蝶さんも私の足に気づいて手を離す。
「早よっ」
春陽さんが私の前でしゃがんで、背に乗るよう促す。
躊躇っていると、春蝶さんに「早よっ」と背中を押されて半ば無理矢理おんぶされた。
大きな背中と力強い腕に安心感はあるものの、おんぶされて走るのはちょっと怖かった。
それになんだかちょっと恥ずかしさもある。
早く降ろしてぇ、と願っていると、不意に春陽さんの足が止まった。
「ここまで来ればもうええやろ」
肩で大きく息をしながらも、縁台に降ろされる。
見ればそこは茶店だった。
二人はやって来た通りを振り返り、息を整える。
私も首を伸ばして二人の視線の先を探してみるが、誰か追いかけて来る様子はない。
「えらい慌てて何事や?」
不意に声を掛けられ、顔を上げると、そこには本清さんが立っていた。
「あっ。本清はんやないか? 昨日はえらい世話んなって……」
春蝶さんが軽く会釈する。
「これは同門の春陽言います。こちらは版元の本清はんや。昨日、茶会で会うて帰りも一緒やってん」
「春好斎はんのお弟子さんが三人か。ほな、ちょっとうちでゆっくりして行かへんか? 春好斎はんについて、話したいことがあるんや」
言いながら本清さんは春蝶さんの肩をがしっと組んだ。
「うちの師匠の話やったらじっくり話さなあかんな」
春蝶さんが大きく頷く。
「それも大事やが、今はそれどころじゃ……」
春陽さんが不安そうに背後を振り返る。
「ちょうどええやないか」
春蝶さんが小声で春陽さんを肘で小突いた。
「……ここにおるよりええか」
春陽さんもぼそっと呟いて、再度私は春陽さんに背負われ、本清さんの家に行くことになった。
家、と言っていたけど、辿り着いた場所はどう見てもお店だった。
店先から入って奥へと進み、居間と思しき座敷に通された。
そこでようやく春陽さんの背中から降ろされる。
「出がらしで、すんまへん。家内が今、出かけておりましてな。あいつがおらへんと、どこに何があるかさっぱりや」
そう言って、薄いお茶を出された。
私を背負って走ったせいか、春陽さんがすぐに飲み干す。
熱いお茶かと思いきや、すっかり冷めきったお茶だった。
「で、早速やが、話したいこと言うんは、春好斎はんの画号のことや」
本清さんはそう真剣な目をして切り出した。
「画号ってどういうことや?」
お茶会に参加していなかった春陽さんが困惑した表情で春蝶さんを見る。
「かの葛飾北斎、いや今は葛飾戴斗やったな。茶会でその戴斗から画号を与えられたんや。普通なら二つ返事で首を縦に振るやろ? それがや。春好斎はんは『すんまへん』って頭下げよった」
本清さんが説明すると、春陽さんは心底驚いた表情で私を振り返った。
「ホンマでっか? あの北斎先生が……? ホンマに会うたんか?」
私が頷くと、春陽さんは腕を組んで天井を仰いだ。
が、すぐに春蝶さんに向き直る。
「で、なんでそないなええ話をうちの師匠は断ったんや? 確か憧れのお人やって言うてはった気がするんやが?」
「憧れの人やが、師匠の師匠は松好斎先生ただ一人やって。生涯それは変わらへんって言いはって……」
春蝶さんが憮然とした表情で答える。
「そこやっ」
本清さんが突然片膝を打った。
「ど、どこや?」
春蝶さんが突っ込む。
「せやから、わしの本題はそこや。弟子のあんたらから画号を貰えと説得してくれへんか?」
「それは師匠が決めはることや。画号については弟子が口挟むことやあらへんと思います」
春陽さんが真面目に答えると、本清さんは「それは違うで」と前のめりになる。
「画号はな、屋号と同じや。同じ饅頭でもわしが作った言うんと、どこそこの有名な饅頭屋が作った言うんじゃ、月とスッポンやろ? 例え同じ物でも味が変わって感じられるもんや。春好斎が描きましたっちゅう絵と、あの北斎の弟子の春好斎北洲が描いた絵やったら……どっちが売れると思う? 正直に言うてみ?」
本清さんの問いに二人は押し黙った。
「……師匠が売れれば版元からの依頼も増える。つまりは弟子にも仕事が回る。ええ話やろ?」
「それはつまり……本清はんが儲けたいっちゅう話やんな?」
春蝶さんが問うと、「せやっ」と本清さんは大きく頷いた。
「わしら皆がええ思いをする。こないなええ話、不意にするんは勿体ない思わへんか?」
本清さんは『ええ話』というのを強調した。
春蝶さんも春陽さんも「確かにそうやが」と揺らいでいる。
「上方には流光斎如圭と松好斎半兵衛という巨匠がおった。せやけど今はどうや? 二人の流れを汲む春好斎はんもええ絵を描きはるが、名前で売れるまで知られてへん。名前さえ売れてしまえば、こっちのもんやのに。弟子として悔しいと思わへんか?」
本清さんはさらに推す。
「わしはな、あの茶会。正直なところ、北斎はんも下心があって来てくれはったんやと思うで?」
「下心?」
「せや。気ままな一人旅をしてはった訳やない。江戸からこっち、上方への進出も狙ってはったんやと思う。弟子や版元の手代と一緒に来てはったらしいで」
「そりゃ、名古屋で達磨描いたついでに滞在してはったんやないんか?」
春陽さんの純粋な問いを本清さんは笑い飛ばした。
「そないな訳あるかいな。暢気に物見遊山してはったんやない。版元探してはったんやと思うで」
「なしてそう思うんで?」
「北斎漫画や。あれが江戸からこっちにまで流れて来た。あの人気を利用して、こっちでも売りたい気持ちがあったんや思う。それで、藤織屋の茶会の誘いは渡りに舟やったんやろ。一人で来はったんもわしら版元が来るって知って、交渉したいと思うたからやで。そやないと一緒に旅しとる連れを置いて一人で来んやろ?」
お茶会でも思ったけど、本清さんは抜け目のない人だ。
私は単純にお綾さんが企画した北斎との交流会だと思ってた。
でも、本清さんの目には商談の場として映っていた。
「せやから、北斎はんもあの茶会で終わりにはせんと思う。きっとまた茶会は開かれるで」
ニヤリと笑む本清さんに黙り込んでいた春蝶さんが唸った。
「確かにあれで終わりやないやろな。北斎先生も『考えといてや』って言うてはったさかい。答える場が必要やねんな」
「せやろっ? せやから、説得してくれへんか?」
本清さんの言葉に春蝶さんは考え込むようにして何度か頷き、春陽さんは両腕を組んだまま眉間に皺を寄せていた。
私も北斎に師事するのは賛成だ。
未来では世界的にも有名な絵師だ。
そんな絵師に師事することは名誉だとかそんなことより、自分の技術を磨くには良いことだと思う。
「本清はんっ、お客はんが来はったでっ」
店先からの呼び声に本清さんが「分かった、今行くっ」と立ち上がる。
「ほな、この話は頼んだでっ」
そう言って店先へ駆けて行った。
残された私達もひとまず外へ出ることにし、私は再び春陽さんに背負われた。
「そろそろ戻ってもええやろか?」
春陽さんが春蝶さんに問う。
「ええんやないか? 流石に作業場も家も駄目やったら諦めとるやろ」
そう春蝶さんが答えた矢先。
「あっ! やっと見つけたぁ!」
背後から不吉な声がした。
しまった、と振り返った春蝶さんの顔が歪む。
春陽さんが咄嗟に私を隠すように体勢を変える。
春陽さんの背からちらりと見えたその姿は。
目を輝かせたお綾さんだった。




