91.足袋
目を覚ますと辺りは真っ暗だった。
上半身を起こそうとするも、頭痛がして頭を押さえる。
なんで寝てるんだっけ?
そうだ、お茶会で北斎を隠し撮りしようとして……
春蝶さんに見つかって、お酒を飲まされたんだった。
で、その後……どうしたんだっけ?
思い出そうとするも全く思い出せなかった。
なので、周囲を見回す。
徐々に暗闇に目が慣れて来て、部屋の様子が分かったけど、見慣れない部屋に戸惑う。
と、同時に人の気配に体が固まる。
隣で誰かが寝ている。
微かな寝息は男性のもののようだ。
治兵衛さん? それとも春蝶さん?
こちらに背を向けているので顔が見えない。
そう思ってると、その人物が寝返りを打つ。
顔がこちらを向く。
その顔は。
治兵衛さんだった。
ホッとしたのも束の間。
懐を探る。
着物の上から隅々まで触ってみる。
周囲を見回してみる。
持って来た荷物は枕元にあった。
急いで風呂敷包みを解く。
が、中には絵の道具しかなかった。
どうしよう……?
スマホがないっ。
部屋には他に人の気配はない。
ってことは、この部屋に二人だけ?
一体、何があったの?
「頭、痛いんか?」
両手で頭を抱えていると、隣から囁くような声がした。
振り返ると、治兵衛さんが眠そうに上半身を起こしていた。
「あっ……起こしちゃいましたか?」
私も声を潜めて問う。
「いや、たまたま目が覚めただけや。それより、頭は?」
「大丈夫ですっ。ところで、ここは……?」
「あのまま泊まらせて貰たんや。ウメが酔いつぶれてしもたさかいな。あっ、何もしてへんでっ。その、男同士や思われてるさかい、部屋を分けてくれとは言われへんかってん。せやから……」
「分かってます。それより、私のスマホ……黒い板を見ませんでしたか?」
「黒い板?」
治兵衛さんは少し考えてから、懐に片手を突っ込んだ。
「これのことか?」
差し出されたスマホに「それですっ」と安堵しつつ受け取る。
「これは最初に見せてくれた絡繰り箱やろ? そないな物騒な物、なんで持って来たんや? 誰かに見られたら大変なことになるやろ」
「そうなんですけど……」
生きて動いてる北斎を撮りたかった、とは言えず、真っ暗な画面に視線を落とす。
「春蝶が手に取る前に俺が拾ったさかい無事やったが……もし見つかって騒ぎにでもなったら、ウメだけやない。玄兄も一緒にお縄や。命取られるかもしれんって証文貰うた時にも話したやろ?」
治兵衛さんの言葉に葛飾北斎だと浮かれていた自分の迂闊さに押し黙る。
これでも気を付けてるつもりだった。
スマホは隠して持って来たし、北斎を撮ろうとした時も周囲に人の目がないのを確認した。
確認したから、春蝶さんに見つかった時は本当にびっくりした。
一体どこから現れたのか。
「……まあ、ええわ。今更どうこう言うたかて、つまらへんしな。お天道様が顔出しはったらすぐに帰るで。せやから、もちっとだけ寝ときや」
何も答えない私に治兵衛さんが大きく溜息を吐いてそう言い、再び横になった。
私もスマホを懐にしまって、横になる。
が、眠れなかった。
数時間後。
朝日が差し始める頃、私達は藤織屋の旦那さんと北斎に挨拶をして家路についた。
帰りはほとんど話さず、黙々と歩き続けた。
そのせいか行きよりも早く家に着いたのに遠く感じた。
そして、家の戸を開けると、玄斎さんが仁王立ちして私達を出迎えた。
「日帰りやって聞いてたんやが?」
口調は穏やかだったけど、怒っている様子の玄斎さんに治兵衛さんが驚いた表情で頭を掻いた。
「あれっ? 春蝶から聞いてへんか? 一晩泊まることになったって……」
「聞いた」
「せやったら……あっ、春蝶の奴、理由を話してへんかったんか」
「ウメが酔い潰れたからやろ?」
「せや。せやから……仕方あらへんかってん。日も暮れてたさかい、無理して帰るより泊まった方がええやろってことんなって……」
「お前も一緒におって潰れるまで飲ませるやなんてっ」
「お猪口一杯でひっくり返るやなんて知らへんかってん。しゃぁないやろっ。そないに怒らへんでもええやないかっ。春蝶に言伝頼んでたんやから、何も言わずに遅うなったんやないんやしっ」
玄斎さんに責められ、治兵衛さんも珍しく声を荒らげる。
春蝶さん、先に帰ってたんだ。
しかも玄斎さんには、泊まりになったことまで伝えてくれていた。
だったら、どうして玄斎さんはあんなに怒ってるんだろう?
「……ウメ。そこに座れ」
居間へと視線で促される。
「帰って来たばかりでそないに説教ばっかり……」
言いかけた治兵衛さんの視線が私の足に注がれる。
「草履、脱げるか?」
上がり框に腰掛けると、玄斎さんがそっと草履と足袋を脱がしてくれた。
居間には往診用の薬箱が用意されていた。
下駄や草履に慣れて来たとはいえ、こんなに長時間歩いたのは初めてだった。
実はずっと我慢していたけど、足には指の間や足の裏に肉刺ができていた。
「足袋に血が滲んどるやないか。なんで言わへんかったんやっ」
治兵衛さんが心配そうに覗き込む。
行きにできた肉刺が帰る途中で潰れて、実はずっと痛かった。
でも、歩けないほどじゃなかったし、怒られた後だったし。
だからなんとなく言い出せなかった。
「……気づけへんで、すまんかったな」
治兵衛さんがぽつり、謝る。
「い、いえ。私が黙ってたので、治兵衛さんが謝ることじゃ……」
「せや。こないになるまで黙ってたんはウメが悪い」
「玄兄、そないな言い方……」
「こういうことは我慢したらあかん。ちゃんと言わへんと」
「すみません。でも、歩けないほどじゃなかったので……」
「歩けるかどうかやない。ウメはなんでも我慢しすぎるんが悪い癖や。前にもこういうことはちゃんと言いって話したやろ?」
話している間に肉刺に薬が塗られ、包帯を巻かれた。
そして、治療を終えると、玄斎さんは「出かけて来る」と不機嫌なまま、家を出て行ってしまった。
「俺も作業場へ顔出して来るさかい。ウメはその足やし、今日は休んどき」
治兵衛さんもまたそう言って家を出て行った。
一人残された私は血の滲んだ足袋を手にした途端、なぜだか涙が溢れてしまった。




