89.お茶会 ⑦ 物語
北斎の視線の先。
そこにあったのは治兵衛さんの絵だった。
そして、本清さんと柏文さんが私の絵を不思議そうに見つめる中、塩長さんの視線もまた治兵衛さんの絵に注がれていた。
「面白ぇな」
北斎が片手で顎をさすりながら呟く。
大きな声ではなかったけど、その一言に一瞬にしてその場が静まり返り、その場の全員が北斎を振り返った。
「やはり葛飾先生でもこないな技は初めてご覧になったんで?」
本清さんが問う。
「ん? ああ、その絵も確かに面白ぇけどよ。その絵には惹かれねぇ。俺が面白ぇって言ったのはこの絵よ」
北斎は私の絵を一瞥してから、治兵衛さんの絵を目線で示した。
「確かに見事な絵やけど……面白ぇって程じゃ……」
柏文さんが首を捻る。
「俺は三人の中じゃ、この絵が一番だと思うね」
北斎がきっぱりと断言する。
「一番というのは上手いということで?」
柏文さんが問う。
「絵師なんだから上手いのは当たり前ぇだろ。上手いか下手かなんて言うのは客がする話だ。俺達は絵を売るんだろ? 売れる絵ってのは人を惹きつけるもんがある絵だ。人の心を動かすのは……物語だ」
北斎の言葉にそれまでずっと黙っていた塩長さんがゆっくりと頷いた。
「売れるか売れないかで言ったら、この四枚の中で一番売れるのは春好斎はんの絵やろな。で、売れ残るのはこの珍しい絵やろ」
塩長さんの評価に北斎は静かに頷き、他の版元の二人は不服そうにした。
「こないな見たことあらへん絵は売れるんと違いまっか?」
「売れるんは最初だけや。珍しさから買って行く者もおるやろが、すぐに飽きられるやろな。この絵からは何も感じられへん。飾りたいとか思わへんやろ?」
塩長さんの言葉に質問した本清さんも改めて私の絵を見て「確かに」と頷いた。
その二人のやり取りが胸を抉る。
「せやけど、売り方次第じゃ、売れる絵に化けるやろな」
塩長さんの言葉に折れかけた心が少し持ち直す。
「これは珍しい物を描いとるだけやない。見たまんまを切り取ったような絵や。ここまで正確な絵はなかなかあらへん。それがこの絵の価値や」
塩長さんはそう言って治兵衛さんを見た。
「画号がまだあらへんのはなんでや?」
「見ての通り筋はええんやが、浮世絵のことを何も知らへんよって、今はまだ見習いをしとります」
治兵衛さんがそう答えると、塩長さんは「そうか」と頷いて私を見た。
「なんやぁ? 塩長はんのその目。見習いのうちから唾つけるんかいな?」
本清さんが目を細める。
「本清はん、そないな言い方……」
柏文さんが咳払いをして諫める。
「このお茶会。わしらを呼んだんはこの三人の絵を売らせるためやろ?」
本清さんが藤織屋の旦那さんに視線を送ると、旦那さんは片手を頭に当てて笑った。
「実を申しますと、江戸一番と評判の先生の絵を上方でも見たいと思いましてな。それで版元の皆様をお呼びいたしましたが、せっかくなら先生が絵をお描きになる姿も見たくなりまして。そこで上方で今、勢いのある絵師のお三方もお招きした次第です」
あれ? このお茶会ってお綾さんが計画したんじゃ?
旦那さんはにこにこと口元に笑みをたたえたまま、私をチラと見やった。
その目力に何か圧を感じる。
「お茶会やのにまだお茶を出してへんかったですな。せやから、ここからはお茶と茶菓子をお出ししますんで、絵について存分にご歓談いただけたらと思います」
旦那さんの言葉に「さっすが商売人やなぁ」と本清さんが呟きながらも、早速その足は北斎の元へ向かっていた。
塩長さんは腕を組んで絵を見つめ、柏文さんは治兵衛さんと春蝶さんと話し始めた。
私もしばらく治兵衛さんの絵を見つめていた。
私の絵は、珍しいだけで飽きられる。
けれど、売り方次第では売れる。
その言葉が、まだ胸に残っていた。
私は自分の絵をもう一度見た。
これを、どうやったら『売れる絵』にできるんだろう。
そう考えていると。
「それにしても、よう開けましたなあ」
本清さんが苦笑する声に振り返ると、縁側で番頭さんと二人並んで立っていた。
北斎の方を見ると、藤織屋の旦那さんと話している。
本清さんは北斎に話しかけるタイミングを逸してしまったようだ。
「葛飾先生を招くなんて、普通は思いついてもやりまへんで」
「それがなぁ」
番頭さんは大きな溜息を吐いて、周囲を見回してから「内緒でっせ」と小声で呟いた。
「さっきの全部嘘ですわ。ホンマはお嬢様が全部企てたんや。それに『呼ぶ』言わはった時には、まだ先生がどこにおるかも分からんかったんですわ」
「は?」
「会場押さえて、船押さえて、道具揃えて、茶菓子も頼んでしもて」
「それで先生は?」
「まだ見つかっとらんかったんです」
本清さんが吹き出す。
「そらまた豪気な話で」
「豪気やのうて無茶苦茶ですわ」
「旦那はんは何も言わはらへんのですか」
「旦那様でっか?」
番頭さんは遠い目をした。
「お嬢様が頼んだら二つ返事ですわ」
「なるほど」
「結局、後で帳面見て頭抱えるんは女将さんや」
「そやけど、よう見つけましたなぁ」
本清さんが感心したように言う。
番頭さんは顔を歪めた。
「見つけなあかんかったんです」
「はあ」
「会場代も払うてる。庄屋にも話通してる。先生が来はる前提で全部動いてしもてる」
「なるほど」
「見つけるだけやのうて、『来る』言わせるしかなかったんですわ」
「普通は客を見つけてから店を建てるもんやが、お嬢様は客もおらんうちから店を建ててしもたんですな」
豪快に笑う本清さんに番頭さんは深い溜息を吐いた。
「ほんまに。まあ、振り回される方は敵いまへんけどな。お嬢様は才はあるんやが、使い方が……」
「苦労されまんな。せやけど、こっちはお陰であの葛飾北斎と会わせて貰たさかい、今度一席」
本清さんが酒を飲む真似をして見せながら笑うと、番頭も苦笑した。
「とりあえず、無事に終わるんを見届けんうちは安心できまへん。先生も変わったお方やから」
番頭さんの視線は常に北斎に向けられていた。
ずっと手を揉みながらそわそわしている。
その心中を思うと、なんだか居たたまれない。
このお茶会の裏側がそんなことになっていたとは。
そもそもの原因は私、梅吉だし。
それにしても、お綾さんはああ見えてもやっぱり商売人の娘なんだなぁ、と感心する。
普通企画まではできても、それを実行してしかも成功させるなんて。
番頭さんには申し訳ないけど、お綾さんがかっこよく見えた。
「決めたっ」
不意に北斎の声が響いた。
全員の視線が北斎に集まる。
北斎がゆっくりとこちらに向かって歩いて来る。
その表情はどこか楽しそうな、けれどとても真剣なものだった。
北斎は一体何を決めたの?




