86.お茶会 ④ 値踏み
始まって数分も経たないうちに描き上げるなんて、春蝶さんは凄い。
そう思ったのだけど。
「白紙やないか」
参加者の一人が声を上げると、春蝶さんはニヤリと笑みを浮かべた。
「一面雪景色や。全部が雪に覆われてもうたさかい、真っ白や」
春蝶さんの答えに全員が笑う。
なぁんだ、頓智か。
「面白ぇ」
北斎も笑みを零す。
が、すぐにその笑みは消えた。
「だけどよ、そりゃ絵師じゃねぇや。部分的にはそういうこともやるけどよ、白紙ってのは……無粋ってもんだ」
北斎の言葉に春蝶さんが肩を落としながら座り直し、治兵衛さんが春蝶さんを睨んだ。
北斎は既に自分の絵の続きを描いている。
私も気を取り直して、庭を目に焼き付ける。
そして、目を閉じてそこに雪が積もる様を想像する。
積もり切っていないなら、きっと池は凍っている。
ただし、薄く氷が張っている程度だろう。
石灯籠は頭の部分だけに薄く雪が載り、庭の日の当たらない場所に点々と雪が積もってる。
でも大きくて見事な松にはまだ雪が積もってないはず。
想像してると描けそうな気がして来た。
手始めに松を紙の右端から描いていく。
見た通りに隆々とした幹から枝を張り、松葉を描く。
次いで真ん中に築山と石灯籠、そして池を配置する。
が、それらに積もる雪の形に苦戦する。
雪はどんな風に積もる?
雪の形は?
考え始めると手が止まる。
チラ、と他の三人を順に見る。
三人共、迷いなく筆を動かしている。
どんな絵を描いているのか、広げられた道具が邪魔で、隣の治兵衛さんや春蝶さんの絵すら分からない。
春蝶さんに至っては私から少し離れたところに座り、わざと見えないように間に荷を置いているように感じる。
集中している間は気にならなかった周囲の音が俄かに大きく耳に響く。
食事をする音にお腹が空く。
けれど、それ以上に話し声が緊張を与える。
「北斎の絵が間近で拝めるやなんて」
「思ってもない眼福ですな」
「隣で描いとるんはあの松好斎先生の門人や」
「知っとる絵師で?」
「うちの二階を作業場として貸してましてな。春好や春好斎の号で役者絵を出してます」
「ああ。春好やったら知ってます。会うたことはあらへんかったんやが。今はそこで描いてるんやな。先生が生きてはった時には先生のお宅に住み込みやったはずや」
「さすが塩長はんやなぁ。上方の絵師は皆、知り合いと違いますか?」
「何を。さすがにそこまでは。他の二人は知らへんさかいな。どないな絵を描きはるんか、楽しみやわ」
笑い合う二人の男性に「まるで投げ網漁やなぁ」と横から別の男性が割り込む。
「どういう意味でっか?」
塩長と呼ばれた男性が笑いを収めて問う。
「小魚も逃すまいと根こそぎ掬い取って行く。独壇場やないですか。こっちはそのお零れを貰うのに必死ですわ」
嫌味に短い沈黙が流れる。
「……古くからやってますさかい。縁が縁を呼んで自然と増えていってまうだけですわ。それをそないな言い方されては。確か……本清はんやったね。そないに言わはるんやったら分けて差し上げましょか?」
塩長さんも負けず劣らずの嫌味を返す。
この会話って……この三人はもしかして版元の人?
一階の版元の人って確か……柏文って呼ばれてた気が。
ちゃんと会ったことも治兵衛さんから紹介されたこともないけど、声に聞き覚えがある。
振り返って顔を見たい。
けど、今の会話から察するに三人は私達をスカウトするかどうか、見定めに来てるってことなんじゃ……?
聞こえる距離で堂々と値踏みする。
北斎が来るお茶会と聞いて、優雅な写生大会を想像してたけど、これじゃまるで美大の試験会場だ。
筆を握る手に力が入る。
が、上手く描かなきゃと思えば思う程、手が震えてしまう。
それに隣からは迷いのない滑らかな筆使いの音が聞こえて来る。
話し声、食事をする音、給仕をする人達が歩き回る音もしている。
静かな空間とは言えないのに、筆が紙の上を滑る音がひと際大きく聞こえる。
「腹減った……」
不意に左隣で春蝶さんが呟いた。
その一言に右隣で集中していた治兵衛さんが手を止めて顔を上げ、私を見た。
そして、チラ、と北斎に視線をやる。
北斎は周囲の音さえ何も聞こえないようだ。
ただ庭と紙しか視界に入らないようで、一人だけ別空間にいるように集中していた。
「ちょっと休憩しよか」
治兵衛さんの一言で春蝶さんは待ってましたとばかりに筆を置き、サッと膳の前へ移動した。
「ご馳走を前に待てをさせられとる犬の気分やったわ」
言いながら箸を手に取る。
私も筆を置いて膳の前に移動する。
治兵衛さんも筆を置くと、北斎に「お先に戴かせて貰います」と一言言って立った。
が、北斎の手は止まらない。
少し逡巡しつつも、治兵衛さんも膳の前に座った。
あ。
二人共、主賓の北斎が食べないから食べずに絵を描いてたんだ。
「ほな、有難く戴こか」
そう言って治兵衛さんが食べ始めると、春蝶さんも勢いよく食べ始めた。
春蝶さんはこう見えてもちゃんと礼節をわきまえている人なんだ。
私も「いただきます」と手を合わせて箸を取る。
すっかり冷めてしまっていたけど、ご馳走が並んだ膳に思わずお腹が鳴る。
ここに来てから質素なご飯ばかりだったから、おかずが多いだけでも豪華に見える。
鯛のお刺身があって、焼き魚もある。
里芋や大根、椎茸の煮物、汁物が並び、どれから食べようか迷う。
「お食事中、失礼します」
食事を始めた治兵衛さんの隣にスッと藤織屋の旦那さんが座った。
全員の視線が旦那さんに向く。
「改めまして、本日はようこそおいでくださいました。ここで皆様に此度の会に参加してくださった方々をご紹介させていただきたく存じます」
旦那さんの言葉に促され、私は版元の方達へと顔を向けた。
これまで値踏みされていると思うと、まるで面接官と対峙するようで気まずくて、まともに顔を合わせられなかったのだ。
だけど、目の前に並ぶ版元の人達は声音から想像していた雰囲気とは違っていた。




