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花枝春色 - 鉛筆一本から始まる再起録  作者: 紬 蒼
其ノ参:青に魅せられて
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82.傑作

 髪も着物も真っ白だった女性。

 町で肩がぶつかった時、一瞬で目を奪われた。


 未来を変えてしまうかもしれない。

 そんな不安で町を彷徨(さまよ)っていた私に、ただ一言。


「恐れないで、前を向きなさい」


 そう言って去って行った人。

 雪女みたいに幻想的で神秘的だった。


 あの女性を描きたい。


 私は筆を手に取り、新しい紙に筆を走らせた。

 美しくもどこか怖ろしい存在。

 幽霊や妖に抱く怖れじゃない。

 神に抱く(おそ)れに近い。


 それを筆で、墨で表現する。

 何もかもが白い女性だから墨の濃淡と紙の白さだけで、色は一切入れない。


 薬のことも食事のことも忘れて、ただただひたすらに筆を走らせた。


「できた……」


 半紙にあの日見た女性の姿が浮かび上がる。

 着色はしていないけれど、墨の陰影と紙の白さだけで、私が感じた神々しさとその奥にある畏れを表現した。

 我ながら今にも紙から姿を現しそうな出来に思わず笑みが零れる。

 これなら北斎も私の絵を、才能を認めてくれる。

 そんな確信さえ抱いた。


 一枚仕上げるのに何度も目を閉じて記憶を辿った。

 墨は一発勝負だ。

 だから、何度か描き直しもした。

 描き上げた達成感から安堵した瞬間、お腹が鳴った。

 このお腹の空き具合だと、多分お昼はとっくに過ぎている。


 出来上がった自信作を汚さないように保管しようと紙を持ち上げた瞬間。

 まるで墨が紙に吸い込まれていくように、淡く滲んで消え去った。


「えっ?」


 それは一瞬の出来事で、瞬時に何が起こったのか理解できなかった。

 白紙に戻った半紙を表裏確認する。

 次いで文机や自分の周辺を立ち上がって確認した。

 まるで描き上げたのが夢だったかのように、絵を描いた痕跡はどこにも微塵もない。


「なんで……?」


 その場にぺたん、と座り込み、紙を両手で掲げたまま、私はしばし放心していた。

 茫然自失とは正にこれだ。

 消えるはずのない墨の絵が一瞬にして消え去ったのだから。


「ウメ?」

 近くで声を掛けられ、肩まで叩かれて(ようや)く我に返る。

 振り返ると、玄斎さんが怪訝な表情で傍らに片膝をついている。

 玄関の戸が開いた音にも気づかなかった。


「紙を見つめて何しとるんや?」

 問われて今さっき見た光景を説明しようと口を開きかけたが止めた。

 やっぱり、あの女性は人じゃなかったんだ。

 神様だったのか、それとも妖だったのか。

 描いてはいけない存在だったから、絵は消え去ったんだ。

 そう考えると、妙に腑に落ちた。

 と同時に、急に背筋が寒くなり、鳥肌が立つ。

 きっとあの女性のことは口にしてはいけない。

 直感的にそう思った。


「思うように描けなくて……それでちょっと放心してました」

 嘘じゃない。

 でも、ちょっと違う。

 そんな私の説明に玄斎さんは僅かに目を細め、作業台の方をチラと見やった。

 けれど「そうか」とだけ言って、台所へ向かった。

 お昼の用意を始める音に私も慌てて台所へ向かう。


「薬、合わへんかったんか?」

 不意に問われて「あっ」と思い出す。

 そういえば今朝、玄斎さんが煎じてくれたんだった。

 ちゃんと言われた通りに火の始末をして、作業台で漉してる時に絵の構図を思いついて……

 そのまますぐ絵に取り掛かってしまって、薬のことは忘れてしまっていた。

「合わへんかったんやったら、別の薬を煎じるさかい……」

「すみませんっ。せっかく煎じてくださったのに……夢中になるとすぐ周りが見えなくなっちゃって」

「それやったらええ。昼飯の準備のついでに薬も温め直したるさかい。冷めたら飲みにくい言わはる人もおるし、温服(おんぷく)が基本やからな。次からは温かいうちに飲むんやで」

 はい、と反省しつつ頷いて、お昼ご飯の準備を手伝った。


「何かあったんか? ホンマに大丈夫なんか?」

 作業場から戻って来た治兵衛さんにもそう訊かれた。

 二人から心配そうに見つめられ、慌てて「大丈夫ですっ。何もないですっ」と両手を振って否定する。

 が、絵が消えた瞬間が頭から離れなくて、胸の奥がざわついていた。


 そして、翌日からは消えてしまったあの絵に代わる一枚を描かなければ、と気持ちばかりが焦って、焦れば焦るほど何も思いつかなくて。

 しかも、北斎に見せる絵とは別に普通に仕上げなくてはいけない絵もたくさんあって。

 一枚も描けないまま、気が付けば、あっという間にお茶会前日になっていた。


 焦る私とは対照的に、治兵衛さんはいつも通りに仕事をこなしている。

 北斎が来ると聞いた時はすごく浮かれていたのに。

 前日でもこんなに落ち着いていられるのは、私が生理で作業場にいなかった間に準備万端整えていたのか。


「治兵衛さん、明日のお茶会……」

「しっ。そないなことより、模様は全部入れたんか?」

「い、いえ。まだですけど」

「ほな、集中して描いてんか。ウメはここしばらくのんびりしとったんやから、その分頑張らなあかんのと(ちゃ)うか?」

 その一言に私は固まった。


 のんびり?

 今、私にのんびりって言った? 治兵衛さんが?


 春蝶さんが言うなら分かるけど、治兵衛さんの口からそんな風に言われるなんて。

 確かに生理中は女だってバレるかもって理由で家にいたけど、ごろごろしてた訳じゃない。

 それに治兵衛さんが持って帰った絵を家で仕上げてた。

 生理は病気じゃないけど、腰は痛いし、頭痛だってするのに。

 生理だってことは治兵衛さんには言わなかったけど、体調が悪いって言ってあったし、家では体を気遣ってもくれてたのに。

 それなのになんで?


「せやで。休んで迷惑かけたんやからなぁ。それに明日も一日遊びに行きはるんやろ? ええご身分やなぁ」

 すかさず春蝶さんが近づいて来て、嫌味ったらしく「これも頼むで」と新たに絵を数枚渡して来た。

 治兵衛さんをチラと見やるも、自分の絵に集中して、こちらを見向きもしない。

 いつもだったらこういう時、春蝶さんから庇ってくれてたのに。


 私、何か治兵衛さんを怒らせるようなことした?


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