80.答え合わせ
薄暗くなった家の中に行燈の火が灯る。
傍らに行燈を置かれて、その明るさに顔を上げる。
「ありがとうございます」
絵を描く作業に没頭して、周囲の音が全く耳に入っていなかった。
もう日が落ちるような時間なのかと室内を見回す。
「夕飯は治兵衛の部屋に用意したさかい、キリのええとこで手ぇ止めて……」
玄斎さんがそう言いかけたところで、玄関の戸が開き、治兵衛さんが帰って来た。
「お、描けたか?」
襖を開け放っていたので、絵を描いている私を見つけ、治兵衛さんが笑顔を見せる。
「治兵衛、見たら分かるって雑な言い方やと伝わらへんで」
玄斎さんが文句を言うと、治兵衛さんは私の手元をじっと見つめて「伝わっとるやんか」と嬉しそうにした。
「正直、ウメは分からへんと思うたんやが、ちゃんと分かったんやな」
治兵衛さんの言葉に「試したんか?」と玄斎さんが呆れる。
「ウメは見たまんまを描くんやったら、正直その辺の絵師より上やと思うとる」
褒められて思わず顔がニヤけそうになるのを下を向いて誤魔化す。
「せやけど、それは絵を描くだけの話や。浮世絵は筆だけで描くもんやないさかいな。彫師が彫って、摺師が摺る。一人で全部をやる訳やないさかい、常に全体を考えなあかん。ウメはそこがまだできてへん思うたんやが、分かったんやな」
治兵衛さんの言葉でちゃんと意図が汲み取れていたと安堵するのと同時に、嬉しさが込み上げて来る。
ちゃんと理解できてた。
ちゃんと指示通りに描けた。
胸の奥から、じわじわと達成感が込み上げてくる。
「良かったな」
玄斎さんにも笑みを向けられ、ニヤけながら大きく頷いた。
「ちょうど飯にするところや。居間はこないな有様やから、今日は治兵衛の部屋に用意するで」
そう言いながら玄斎さんは台所でテキパキと治兵衛さんの分のご飯も用意する。
私も急いで部屋を片付けて、食事の用意も手伝おうと思ったけど、一歩遅かった。
用意と言っても、お松さんらが持って来てくれた料理を器に盛り、お茶を用意するくらいだ。
私が部屋を片付け終わる頃には、もう配膳まで終わっていた。
治兵衛さんも皆のお茶を注いでいた。
何も手伝えなくて気まずくなる。
けれど、二人は気にした様子はなく、「いただきます」と手を合わせる。
私も手を合わせて箸を手に取る。
「ところで、なんでウメは今日は家におったんや? 作業場へ行かへんかったんか?」
玄斎さんの問いに治兵衛さんが口をもぐもぐさせながら答えてくれたけど、聞き取れなかった。
「体の調子が悪いんやて」
口の中の物を飲み込んでから、再度治兵衛さんが答える。
「悪いて……どないな風にや?」
玄斎さんが医者の顔つきになる。
ただの生理だからそんな真剣な顔をされると困る。
けど、それを正直に話すのも恥ずかしいので、「数日安静にしてたら治ると思うので……」と答えてみた。
「長屋は冷えるさかいな」
言いながら玄斎さんの手が額に触れる。
「熱はあらへんようやが……ちょっと口を開けてみてくれへんか?」
本格的に診察モードに入り始めたので、慌てて「だ、大丈夫ですっ」と両手を振る。
「医者でもないのに分からへんやろ。風邪が流行る季節やしな。慣れへんところで気疲れして、体が弱っとるんかもしれへんし」
「せやで。目の前に医者がおるんやし、無料やから銭の心配もいらへんで」
治兵衛さんまでもがそんなことを言い出したので。
「ほ、本当に大丈夫ですっ。ただの生理なんでっ」
二人のあまりにもな心配振りに思わず言ってしまった。
「セイリって何や?」
治兵衛さんが玄斎さんを見る。
玄斎さんも初めて聞く言葉に首を傾げて私を見つめたが、しばらくして「あっ」と短く声を上げ、その顔がみるみる赤くなった。
大きく咳払いをして、「しばらく安静にしとき」と視線を逸らしたまま、小さくそう言った。
玄斎さんのそんな様子に「何や? 大丈夫なんか?」と治兵衛さんが玄斎さんに訊く。
が、玄斎さんは黙ってお茶を啜って答えなかった。
私も赤くなった顔を両手で挟んで熱を冷まそうとして、逸らした視線の先にさっき褒めて貰った下絵が見えた。
話題を変えるべく、下絵を手に取って治兵衛さんに差し出す。
「これ、次の彫る工程は考えて描いたんですけど、摺師の方へはどうやって色を伝えるんですか?」
私の問いに治兵衛さんがふっと口角を上げる。
「この下絵に色塗って指示するわけやない。主版言うてな、黒の線画を一枚刷って、そこに大まかな色の指示を書き込むんや。そしたら摺師が『この絵やったら、このくらいの深みのある青が映えるな』『ここにぼかしを入れよか』って、俺らの下絵に命を吹き込むんや」
「厳密にこの色って指定しないんですか?」
「する絵師もおるんかもしれへんが……少なくとも俺の周りじゃ青や赤っていう指示しかせぇへんな。一口に『青』言うても濃いんか薄いんかでも全然違うからな。それに『赤』にも『紅』や『朱』もあるさかい。下絵を生かすも殺すも摺師次第なところはあるな。勿論、彫師が綺麗に彫ってあるんが前提やけどな。彫るんもただ彫るだけと違うで。彫り方一つで……」
饒舌になる治兵衛さんを「治兵衛っ」と玄斎さんが窘める。
「ここは作業場やないで。講釈しとらんと、さっさと食べてくれんと片付かへんがな」
「講釈って……大事な話やないか。なあ?」
不服そうに治兵衛さんは私に同意を求めて振り返る。
が、私はそれを笑ってやり過ごした。
その夜。
下腹部の鈍い痛みで目が覚め、早速作ったお馬に着替える。
既に身に着けていたお馬は夜中にこっそり、裏庭で凍えながら洗った。
この時期の井戸水は氷のように冷たい。
街灯なんてないこの時代、頼れるのは月明かりだけだ。
その月さえ雲に隠れ、辺りは真っ暗闇だった。
なので、仕方なくスマホの灯りを頼りに洗ったのだけど。
お陰で充電は残り60%を切った。
北斎の動画を撮るためにこれ以上は使わないようにしないと。
洗い終えてふと気づく。
お馬……どこに干せばいいの?




