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花枝春色 - 鉛筆一本から始まる再起録  作者: 紬 蒼
其ノ参:青に魅せられて
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77.雨

 午後に入って小雨が降り始めた。

 朝は晴れてて、とても良い天気だったのに。

 天気予報がないのは不便だ。


「あらまぁ。こりゃ、ザッと来そうやねぇ」

 玄関先から空を見上げたお松さんが顔を曇らせる。

 が、振り向いたお松さんはニヤリと不敵な笑みを浮かべた。

「ほな、行こか」

「お松、雨降ってんで? 今日は止めとき」

 治兵衛さんが止める。

「何()うてんの。せやから、行くんやないの」

「なんでや?」

「これくらいの雨がちょうどええねん。少し乱れた髪から(したた)る雨、少し濡れた肩。そして、少し(うる)んだ目で見つめられたら……イチコロや」

 力説するお松さんの頬はほんのり赤く染まり、その表情は恍惚(こうこつ)としている。

 絶対それ、梅吉じゃなくて玄斎さんで妄想してるよね。


「なんで濡れたらイチコロなんや? 濡れたら風邪引くで?」

 治兵衛さんの言葉にお松さんは憐れむような目を向けた。

「ずぶ濡れじゃ、あかんねん。ちょっと濡れる程度が色っぽいねん。この(さじ)加減が難し……」

 お松さんが説明していると、ガラッと玄関の戸が勢いよく開き、玄斎さんが飛び込んで来た。


「急に雨が降り出すさかい、参ったわ」

 そう言って片手で乱れた髪を撫でつける玄斎さんの姿に、お松さんが目と口を大きく開けて一瞬固まった。

 けれどすぐに、うっとりとした表情に変わる。

 濡れた髪、濡れた肩、伏し目がちな目……

 確かに色っぽい。

 思わず私もドキッとしてしまって胸を押さえる。


「これや、これっ」

 ハッと我に返ったお松さんが治兵衛さんと私に向かって叫んだ。

 納得する私と腕を組んで玄斎さんを見つめる治兵衛さんに、お松さんはドヤ顔で胸を張った。


「なんの話や?」

 私達三人の様子に玄斎さんが怪訝な表情で問う。

「なんでもないっ。(はよ)う濡れたん着替えな風邪引くでっ」

 治兵衛さんが手拭いを出して玄斎さんに押し付けるように渡す。

 なぜか少し苛立っているように見えた。


「ほな、お梅ちゃんも梅吉様に着替えて行こか」

 そう言いながらお松さんに腕を掴まれ、居間に押し込められるなり襖をピチッと閉められた。

 お松さんの手によって手際よく着替えさせられる。

 襟元や裾をいつもより丁寧に整え、さらには髪まで結び直してくれた。

 いつもより念入りに準備をして、懐には治兵衛さんが刺繍してくれた手拭いを忍ばせる。

 気合を入れて、番傘を手に外へ出た。

 先程までより少し雨脚が強くなっている。


 傘の形は現代とほぼ同じだけど、性能は全然違って頼りない。

 それに長靴もスニーカーもないから、草履では数歩歩いただけで足が濡れて気持ち悪い。

 当然ながら舗装されていない道なので、あちこちに水溜まりができていて、ぬかるんでるところもあって歩きにくいことこの上ない。

 アスファルトが濡れる匂いではなくて、土の匂いがして、雨の匂いも違う。

 雨の日、現代より最悪。


 藤織屋の前に着く頃には足元はぐちゃぐちゃ。

 着物の裾はぐっちょり。

 上半身は濡れずに済んでいるけれど、水も滴るいい男ではなく、ただの小汚い男になっていた。

 玄斎さんとは大違いだ。


「傘閉じて、軒先に駆け込むでっ」

 お松さんの指示で藤織屋の少し手前で傘を閉じ、小走りに店先に飛び込む。

「あれま、お松さん。濡れはって。手拭い使て……」

 番頭さんがいち早く私達に気づいて手拭いをサッと手に駆け寄ってくれた。

 が、視線が私に向いて止まる。

「おおきにぃ。お綾ちゃん、いてはる? 梅吉さん連れて来たって伝えて欲しいねんけど」

 手拭いを受け取りながらお松さんが番頭さんに取次ぎを依頼する。

「梅吉はんって……あの掛け軸を描きはった方でっか?」

 そう言えば番頭さんと梅吉の姿で会うのは初めてだ。

「掛け軸って?」

 お松さんが私を振り返る。

「お風呂を使わせて頂いてるので……あ、お梅ちゃんからその、頼まれて」

 思わずお梅モードで答えかけて、慌てて声音を低くして梅吉モードに切り替える。

 ちょっと支離滅裂な説明になってしまったが、事情を知ってるお松さんはすぐに察してくれて「ああ」と納得した。


「梅吉さんの絵、見てみたいわ」

「ありゃ、見事でしたで。風景をそのまんま切り取って来はったみたいで。せやけど、今はまだ装丁をお願いしてて、まだできてへんのですわ」

「残念やわ……」

 目の前で褒められるとなんだかちょっと恥ずかしい。

 お松さんも本当に残念そうに溜息を吐いた。

「ほな、ちょっと呼んで来ますよって」

 番頭さんが小走りに店の奥へと姿を消すと、直後に「なんやてっ?」と大きなお綾さんの声が響いた。

 そして、すぐに番頭さんが再び小走りに戻って来る。

「奥へどうぞ……」

 中へ促そうとする番頭さんをお松さんが片手を軽く振って制す。

「手拭い貸して貰うたけど、濡れてるし、ここで待たせて貰います」

「せやけど……かなりお待ち頂くことになるかと」

 番頭さんが申し訳なさそうに言うが、お松さんは「濡れてますから、お気遣いなく。ここで待ちます」と笑顔を見せた。

 番頭さんが心苦しそうに「そうでっか……?」と私の方をチラと見る。

 私も頷き、足元に視線を落とす。

 ぐちょぐちょの足元に番頭さんも納得した様子で店の隅の椅子へ促した。


 椅子に座って待つこと……体感三十分。

 時計がないので分からない。

 もしかしたら一時間くらいは経ったかもしれない。

 が、お松さんがずっと玄斎さんについてあれこれ喋り続けていたので、そんなに長くは感じなかった。

 奥から荒々しく駆けて来る足音がし、そちらに視線をやると、途中から音が止み、少ししてお綾さんが姿を現した。


「お待たせしてすまへん」

 おしとやかな声音。

 そして……ド派手な真っ赤な着物にドギツイ化粧。

 梅吉のためにおめかししたようだけど、完全に失敗している。

「プッ」

 思わず吹き出したお松さんは両手で口を覆い、お綾さんから顔を背けて体を震わせている。

 笑いたいのを必死で我慢しているのがバレバレだ。

 が、そんなお松さんは眼中になく、お綾さんは私をじっと見つめてもじもじしている。


 笑いより驚きが勝った私の表情をお綾さんは自分に見惚れていると勘違いし、両手で頬を覆って恥ずかしがっている。

「ウメ様、急にあたしに会いに来てくれるやなんて……今日は何の用やのぉ?」

 お綾さんの問いで藤織屋に来た目的を思い出し、私は懐から手拭いを取り出してお綾さんの傍に近寄る。

「あの、日頃のお礼にこちらを……」

 言いながら、日頃のお礼って梅吉でお世話になってたっけ? と小首を傾げてしまった。

 お梅ではお風呂を借りたり布を貰ったりしてるけど、梅吉に何かして貰った記憶が……ない。

 あ、作業場にお饅頭を持って来て貰ったか。


 そんな私の胸中を知らずにお綾さんは「まあっ」と喜んで手拭いを受け取った。

 そしてすぐに刺繍に気づき、目を輝かせる。

「これ、ウメ様があたしのために縫ってくれはったん?」

 治兵衛さんが縫ったんだけど。

「せやっ。ウメ様がこの手で一針一針縫ったんやで」

 言い淀んでいると、お松さんが私の手を掴んで胸を張った。

 そのお松さんの手にお綾さんの鋭い視線が光る。

「汚い手でウメ様に触れんといてやっ」

 手拭いをサッと懐に閉まって、お松さんの手を払いのけ、私の左手を両手で包み込む。

「この手で縫ってくれはったんやね」

 キラキラした目で見つめられると、罪悪感が湧き上がる。


 縫ったのは治兵衛さんなんです。

 本当は女なんです。

 嘘ばっかりでごめんなさい。


「お茶会、場所はもう決めてん。日取りももうすぐ決まりそうやねん。決まったら一番に知らせるさかい。ずっと大坂(ここ)にいてくれはるやろ?」

 お綾さんの言葉にお茶を載せたお盆を手にやって来た番頭さんが青褪(あおざ)めていた。


 その様子にまだ決まりそうにないんだな、と番頭さんの心中を察した。


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