74.祈り
「例の物って……お馬のことやったん? あたしはてっきり先生ぇの絵かと思うたのに」
お松さんはがっかりしつつも、すぐに心配そうに私を見た。
「今、お馬着けとるん?」
「いえ。まだなんですけど、そろそろなる頃なんで」
「ほな準備しといた方がええな。せやけど……作業場の方はしばらく休ませて貰た方がええんやない? 女やって分かってしもたら困るやろ? 何があるか分からへんし」
「やっぱり休んだ方がいいですよね……?」
「治兵衛さんは事情知ってはるんやし、そこは上手いこと誤魔化してくれはるやろ。せやけど、問題は家やな。昼間はええけど、お布団汚さへんように工夫せなあかんしな」
お松さんは片手を頬に当てて、少し考え込んだ。
「……夜は腰巻の紐をきつめに縛って、しっかり固定せなあかんで。万一を考えてお布団の上に布を重ねて、お馬にも紙を何枚か重ねて入れて……」
お松さんにしては珍しく歯切れ悪くそこまで言って、軽く首を横に振った。
「駄目やっ。男物の着物やとそもそも帯の位置が違うし、それやとお馬をしっかり固定でけへん。それに脇が閉じとるさかい、脇から手ぇ入れて直すこともでけへんからな。しばらくはお梅でおった方がええんやない?」
気づかなかった。
着物だから男女共同じ構造だと思ってた。
でも、確かに帯の位置は違う。
「それとお馬を洗うんはなるべく昼間にこっそりやり。日中は二人共外に出とるやろ?」
「でも洗い替えが……」
「あ、せやったな。せやけど、あたしも余裕があらへんさかい。お菊ちゃんに話せたらええんやけど、あの子はちょっとな。話したらえらいことになるさかいな」
お松さんでもお菊さんのお喋り好きは止められないようで、困った顔をした。
「あまりこういうことを知っとる者を増やすのも良うないやろし」
お松さんの気遣いをありがたく感じつつも、もう一人くらい相談できる人がいたらなぁとも思ってしまった。
お馬を買うにもお金がないし……
ん? でも布があれば作れるんじゃない?
それにそうだ。
どうせ作るんなら、もう一つ作りたい物が。
「お裁縫は得意ですか?」
「得意って程やあらへんけど。そやな、作ればええなっ」
ぽんっと手を叩くお松さんはさらに何か閃いたようで。
「布やったらお綾がくれるんと違う? ほら、こういう時に梅吉様を利用せなっ」
ニヤリと楽しそうに笑いながら、私の肩をバシッと叩く。
「いや……お綾さんにはお風呂でもお世話になってるし、これ以上ご迷惑をおかけするのも気が引けると言いますか……」
「ええんよ。お綾は尽くすのが好きなんや。先生も言うてはったけど、女将さんも旦那さんもわがまま許すんはあれでも才があるさかい。銭のやり取りだけが商売やあらへんことも知ってはるしな」
お松さんまでお綾さんをそんな風に評価してたんだ。
「ほな、布はあたしがお綾から貰うて来るさかい、明日また来るわ。それまでは……ならんように祈っといて。なったら布やら紙やらしっかり挟んどき。困ったらうちに来て」
「ありがとうございます。助かります」
礼を述べたところで、話が一段落して玄関の土間へと戻る。
と、そこにはまだお菊さんがいて、治兵衛さんと何か話していた。
「あれ? 先生は?」
玄斎さんの姿がないことにいち早く気づいてお松さんが問う。
「往診に行きはったけど、二人で何話し込んでたん? えらい長かったけど、茶会のことやあらへんやろ?」
興味津々にお菊さんが問う。
「ちょっとな。大した話やあらへんさかい。ほな、梅吉さん。治兵衛さんによう言うとき。お菊ちゃん、帰るで」
お松さんはまだ何か聞きたそうなお菊さんの手を掴み、「ほなっ」と促して出て行った。
そんな二人を見送って、治兵衛さんが「で?」と私を振り返る。
「あ、えっと……しばらく作業場に行くのは控えたいなぁと思いまして……」
「なんでや? お松と何話したんや?」
実はそろそろ月の物が……なんて言える訳がない。
それを隠してどう伝えればいいのか。
「ちょっと体調が悪くて……」
間違ってはない。
けど。
「なんでそれをお松に……」
そこまで言って治兵衛さんが固まった。
「……子ができたんか?」
なんでそうなるっ?
「ち、違いますよっ」
全力で否定すると、治兵衛さんはびっくりしたぁ、と胸を撫でおろした。
びっくりしたのはこっちですけど?
「お松とこそこそ話して、体調悪いやなんて言い出すさかい。俺らに言えへんことやろかって……」
ああ、なるほど。
でもまあ、言えないことではあるけど。
「お松さんとはお裁縫についてお話してただけです」
これも間違ってはない。
パンツを作るとは言えないけれど。
あ、そうよ。
前にも思ったけど、パンツが欲しい。
この時代でも紐パンなら作れるんじゃない?
明日、お松さんに相談してみよう。
「裁縫? 何が必要なんや? 金の心配やったら気にせんと、必要な物があるなら言うてや」
「あ、いえ。その……買えない物なので、自分で作りたくて」
「ほな、布が必要やろ?」
「布はお松さんが用意してくださるそうです」
「ほな、お松に何か礼をせんとあかんな」
それは多分、前に約束した玄斎さんの寝顔の絵が描ければ……
「玄斎さんの寝てるとこ……見たことありますか?」
「ん? そりゃ、あるけど。でも、玄兄は早起きやし、夜も難しい書物読んではったり、奥で作業してはったりするさかい。熱出して寝てる時しか見たことあらへんけどな」
熱……そうか。
治兵衛さんを看病した時みたいに玄斎さんも風邪を引けば……!
って、それはちょっと人として駄目な作戦だ。
でも、玄斎さんの寝顔、そんなことでもない限り見れない気がする。
ずっと一緒に寝起きしてる治兵衛さんですら、見たことないんだもん。
やっぱり、寝起きと寝顔はどっちも描けそうにないな。
となると、あとは……笑顔?
「なんでそないなこと訊くんや?」
「あ、いえ。ただ……本当に寝てるのか気になっただけです。ここに来て寝てるとこ見たことなかったので」
「せやったか。確かにいつも何かしてはるもんなぁ。たまには寝坊させてやりたいねんけど」
「治兵衛さんもですよ。夜通し絵を描いてた時もあったし。この時代の人達って全然休まないですもんね」
「休んだら銭にならへんさかいなぁ」
「でも体を休める時間は必要じゃないですか?」
「夜はちゃんと寝とるで? でもまあ、医者は客次第やし、絵師も版元次第やから、休みらしい休みは盆と正月くらいやからなぁ。あとはお講の日は割と休めるんやないか?」
「オコウ?」
「せや。寺に集まって拝んだり、職人仲間で寄合したりする日や。集まっていろいろ話するさかい、俺らはあんまり行かずに働いとるんやけど」
「休みじゃないですかぁ」
「まあ……そやな。でも、お講へ行く奴は休むで? まぁ、でも終わったら戻って来るさかい、休みやあらへんか」
治兵衛さんは両腕を組んで首を捻る。
やっぱりこの時代の働き方はブラックだ。
でも、お松さんは明日来るって言ってたけど、お店はどうするんだろう?
とりあえず、パンツができるまで平穏無事に過ごせますように、と切実に祈った。




