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花枝春色 - 鉛筆一本から始まる再起録  作者: 紬 蒼
其ノ参:青に魅せられて
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72.期待

 葛飾北斎がいる江戸時代に私が来た理由。

 それはきっと富嶽三十六景を描くため。

 そう思い至ったら、歌舞伎役者の衣装に模様を入れる作業もなんだか楽しくなってきた。

 治兵衛さんも気合が入っているようで、いつもより真剣に筆を執り、春蝶さんらにも厳しい目を向けている。

 作業場の人達にもそれが伝わっているようで、事あるごとに「誰が来るん?」と何度も訊かれた。

 が、秘密と言われている以上、話せない。

 それに春蝶さんに言ってしまったら、瓦町どころか大阪中に広まってしまいそうだ。


 帰ったら玄斎さんに自慢しよう。

 そう思ってご機嫌で家に帰ると、玄斎さんの口から思いもよらない悪い知らせが。


「藤織屋の風呂やが、壊れたらしゅうて、しばらく入れんそうや」


 なんで? いつまで? 北斎が来るのにっ。

 そんな疑問を矢継ぎ早に玄斎さんにすると、玄斎さんは腕を組んで小首を傾げた。

「それなんやが……多分、壊れた言うのは嘘やと思う」

「嘘って……私のお風呂の入り方が駄目だったんでしょうか?」

 昨日は正しく入れたと思ったのに。

 それに絵も気に入ってくれてたはず。

 あの女将さんなら何かあれば面と向かって言いそうだけど、昨日は何も言ってなかった。

「番頭の弥助(やすけ)はんがさっき言いに来はったんやけど、えらい慌てた様子でな。なんや藤織屋であったんやないやろか」

 番頭さん、弥助って名前だったんだ。

 あの番頭さんが慌てるって絶対『お茶会』の件だ。

 治兵衛さんもそれに気づいたようで、ニヤリと笑んで玄斎さんの肩を組んだ。


「玄兄、俺とウメなんやが、藤織屋のお茶会に呼ばれてん。そこに誰が来る思う?」

「お茶会? 二人だけが招かれたんか?」

「まだ秘密なんやけど、なぁ、誰が来る思う?」

 玄斎さんの問いを無視して、治兵衛さんが言いたくてしょうがないと口をムズムズさせながら問う。

「言いたいならさっさと言えっ。それより、二人だけが行くんか? 他に誰が行くんや?」

「ほなら言うけど、絶対内緒やで? なんとっ、あのっ、葛飾北斎が来るんやっ」

 そう言って治兵衛さんは玄斎さんの前に仁王立ちになって自慢した。

 それ、私も自慢したかった。

 だけど、玄斎さんはあまり驚かなかった。

「北斎が来るような茶会に他に誰が行くんや?」

 さっきからそればかり訊いている。

 驚いてないけど、玄斎さんも行きたいのかな?

 言ってみれば金持ちが開くお茶会だもんね。

 絶対豪華なお菓子が出て、優雅な雰囲気なんだろうな。

 そういえば、どこでやるんだろう?

 藤織屋……じゃないよね?


「……誰が来るかまだ知らん。お綾が作業場に来て『来い』言うただけや」

 玄斎さんの素っ気ない反応に治兵衛さんは眉間に皺を寄せて、つまらなさそうにそう答えた。

「なんでお前とウメなんや?」

「お綾はウメにベタ惚れや。せやから、この茶会もウメのために開くんやろ。俺は『おまけ』や」

「ウメに? いつの間にそないなことになっとんねん」

 玄斎さんが呆れた顔で私を見た。

「……私にもなぜ惚れられたのか分かりません」

 壁ドンのせいだけど、知らない振りをした。


「せやけど、北斎()うたら『北斎漫画』の北斎やろ? 江戸で人気の絵師を大坂に呼ぶやなんて、幾ら藤織屋でも無理やないか? お綾のわがままで終わるんと(ちゃ)うか?」

 玄斎さんが腕を組んだまま片手を顎に当てる。

「確かに……ウメを引き止めるために()うただけかもしれんが、先月名古屋に来とるさかい。まだ江戸には帰ってへんかもしれんし。それやったらまだ出任せとも言い切れんでっ」

 期待に満ちた治兵衛さんの目に玄斎さんは軽く溜息を吐いた。

「いつ開くんか知らへんが、長月(ながづき)の忙しい時にお綾のわがままで藤織屋がてんやわんやしとるんが目に浮かぶわ」

 ん? 今、長月って言った?

 じゃあ、今は九月?

 あ、でもこの時代は旧暦なんだっけ?

 だとしたら、約一カ月程度違ってたはずだから……十月になるのかな?

 そういえば、ここに来て今が何月何日なのか、何曜日なのかさえも分からず過ごしてた。

 芋とか栗とか出て来たから秋だとは思ってたけど。


「今って何日ですか?」

「今日は長月の四日や」

 玄斎さんが答える。

「ちなみに……今日は何曜日ですか?」

「ヨウビ?」

 玄斎さんと治兵衛さんが顔を見合わせて、小首を傾げた。

「月曜日とか火曜日とか……一週間を表す曜日ですよ」

「なんや、それ?」

 え? 何って、土日の概念がないのはそもそも曜日自体がないからなの?

 でも、曜日って確かかなり昔から存在してた気がするけど……?

「前に仕事のお休みの話をしたと思うんですけど」

「ああ。休みは仕事がない日が休みや。医者は患者がおらへん日が休みやな。せやけど、働かんと銭が貰えんさかい。薬を調合したり、書物に目ぇ通したりしとるな。絵師も仕事がなくても何かしら描いたりしよるやろ?」

 玄斎さんに問われて治兵衛さんが大きく頷く。

「家でダラダラしたり、好きなことしたり、何処かへ旅したり……そういったお休みは?」

「まあ……仕事がない時は一日中薬調合しとる訳でもあらへんからな。息抜きに散歩くらいはするが……家のこともせにゃ、あかんさかいな。うちは男所帯やし、使用人雇うほどの家でもないし」

 社畜とかブラックとかいうレベルじゃない。

 ってことはもしかして、年間最低でも三十日くらいは休みがあるって話だったけど、その三十日も半休みたいな感じなのかな?

 それが当たり前って……現代のブラック企業がホワイト企業に見えて来た。


未来(さき)の世じゃ、働かんでも銭が貰えるんか?」

 玄斎さんが問う。

「はい。五日働いたら二日休むし、特定の日にお休みがあるし、休んでもお金を貰える日があります。どんな仕事でも休みはありますよ」

「ええ世の中やなぁ。働かんでも銭が貰えるやなんて」

 治兵衛さんが羨ましそうに言う。


 でも、休みがない今の生活は大変だけど、会社で働いていた時よりしんどくない。

 毎日慌ただしいし、分からないことも多い。

 不便で慣れないことだらけで、隠し事もあるし嘘も吐いてる。

 いろいろバレたら死ぬ可能性だってあるのに、それでも生きてるって実感があって、なんだかんだ楽しんでる自分がいる。

 玄斎さんにも春蝶さんにも怒られることが多いけど、上司に怒られるのとは何かが違う。


 それにしても、今日が九月四日なら私がここに来たのが八月だったのか。

 何日経った?

 ん? あれ?

 もうすぐ一カ月経つ?

 ってことは……


 そこで私は大変なことを思い出して、切実にお松さんの顔を思い浮かべた。


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