67.視線
「これが……寺請証文」
紙に達筆な筆文字で何かが書いてある。
崩して書かれているので私にはほとんど読めなかったけど、『梅吉』という文字はかろうじて読めた。
左端には日付とお寺の印が押してある。
約束通り、あれから七日後に受け取った証文を手にした私はこれで外に出られる、と喜んだ。
玄斎さんの説明によると、この寺請証文には現代の戸籍証明と身元保証、転出証明を兼ねたものだと理解した。
あとキリシタンではない、ということも書いてあって、そこは江戸時代らしいなと思った。
これがないと就職も引っ越しも旅行もできないらしい。
現代だったらこんな重要書類、偽造は簡単にはできない。
この時代は割と賄賂でどうにでもなるんだなぁ、という感想を持ったのだけど。
でも、偽造したと分かれば最悪極刑もありえるという話を聞いて、私だけの問題じゃないのは変わらないのだと気を引き締めた。
「これがあれば妙な噂は消えるかもしれへんが、真の男になった訳やあらへんさかい。常に気ぃつけなあかんのは変わらんで」
証文を渡された時、玄斎さんにもそう釘を刺された。
だから、気を付けていたつもりだったのだけど。
証文を得たことで玄斎さんの家での泊まり込みもなくなり、再び作業場へ通う日々に戻った。
そして、私も治兵衛さんと一緒に作業場で絵師として本格的に働くことになった。
とはいっても、まだ助さん、格さんと同じ扱いで、衣の模様を描くのを手伝ったり、その合間に雑用をしている。
作業場の雰囲気にも最初は戸惑ったけれど、一週間もすれば流れは掴めた。
ただ、この時代は現代のブラック企業と同じ匂いがする。
現代の会社だと大抵土日祝日が休みで、年間平均して百二十日はある。
だけど、ここでは土日の概念はなく、休みは盆正月と特定の日くらい。
職業によってバラつきはあるらしいけど、年間三十日から七十日程度しかない。
働かなければ食べられない世界だ。
だから玄斎さんも治兵衛さんも、毎日遅くまで働いていたのだと今さら理解した。
医者だからかな、とかアーティストだからかな、とかそんな感覚で二人を見ていたけど、そもそも休みの概念が違っていたからだったようだ。
……ということは、私も休めないのか。
どんな社畜だ。
それと、春蝶さん。
なぜかちょいちょい視線を感じる。
それは治兵衛さんも気づいていて。
「なんや? そないに梅吉ばっかり見つめて。手ぇ動かし」
そう注意してくれるのだけど、よく目が合う。
もしかして、まだ私がどこか上流階級の子息か何かだと疑われてる?
なんだか気まずいというか居心地悪く思っていたのだけど。
そんなある日。
作業場に聞き覚えのある声が轟いた。
「ウメ様ァ」
声のした階段の方を見ると、お綾さんが駆け上がって来た。
「来ちゃった」
えへっとかわいく笑うお綾さんの行動力に驚く。
「どうしたんですか? なんでこんなところに……?」
動揺する私にお綾さんは手に抱えていた風呂敷包みを突き出した。
「これ、お饅頭。良かったら食べて」
そこでさらに近づいて来て。
「角のお饅頭屋さんのやから」
そう囁かれた。
角のお饅頭屋さんを知らないけれど、お綾さんの様子から多分高いお饅頭なのかな、と思われた。
なので、ありがとうございます、と受け取って深々と礼をしておいた。
が、帰る様子はない。
振り返ると、作業場の面々の視線が私とお綾さんに注がれている。
中でも春蝶さんの視線が刺さるように鋭くて痛かった。
「梅吉、藤織屋のお嬢さんとはどないな仲なんや?」
春蝶さんがこちらに近づきながら問う。
「こういう仲や」
私が答えるより早く、お綾さんが私の腕にしがみつくようにしてくっついて来た。
その様子に「おおっ」と作業場全体がどよめく。
「お嬢さん、てっきり玄斎先生を好いとるんやと思うててんやが……」
「ああ、先生は過去の男や。今はウメ様一筋やさかい」
身をくねらせるお綾さんを見、次いで春蝶さんは私の方を見た。
「ちょっと梅吉はん、話があんねんけど」
凄みの効いた声音に私はビクリとした。
まさか春蝶さん、お綾さんのこと……?
そう思ったのだけど、作業場の隅に連れて行かれて問われたのは予想外のことだった。
「梅吉はん、あのお嬢さんとはホンマに恋仲なんか? それとも……金ヅルなんか?」
「い、いえ。どちらも違いますっ。一方的に好意を寄せられていると言いますか」
私の答えに春蝶さんは疑うように目を細めた。
「わしは正直、玄斎先生やったら勝ち目ない思うて諦めてたんやが、あんたが相手やったら話が違うて来るわ。藤織屋を後ろ盾にできるんやったら、どないな手を使うてでも、お嬢さんに気に入られたい。そう思うててん。せやから、あんたらが恋仲でもあんたの金ヅルでもないんやったら、わしに協力してんか?」
お綾さんのハートを射止めたいのは合ってたけど、理由が違った。
春蝶さんはお綾さんをスポンサーとかパトロンとして見ている。
お綾さんの興味が私から春蝶さんへ移ってくれれば、お梅としてお風呂に入りに行くのも気が楽になる。
これはもしやウィンウィンの関係になるのでは?
そう思った私は「協力しますっ」と即答した。
私の答えに春蝶さんはニヤリと満足そうに笑んだ。
「これはあんたとわし、二人だけの秘密やで? ええな?」
そう言って私の手を引いた。
「せやったら、早速協力してもらおか。わしをお嬢さんに紹介してぇな」
という訳で、作業場の男性陣がお綾さんに声を掛けるのも無視して、部屋の隅で話し込む私達をじっと見て待っていたお綾さんのところへ戻る。
「お綾さん、お待たせしてすみません。あの、こちらは私の兄弟子で春蝶さんと言いまして……」
早速紹介しようとするも。
「ウメ様がお描きになった絵が見たいんやけど……」
まるで春蝶さんが目に入っていないかのように振る舞うお綾さんに、春蝶さんが無理矢理割って入る。
「こいつはまだ半人前やから、絵は描いてへんで。代わりにわしが描いたん見るか?」
「あたしはウメ様の絵が見たいんやっ。ウメ様、いじめられとるんやったら、あたしがお父様にお願いしよか?」
春蝶さんを押しのけ、お綾さんはぐいぐい迫って来る。
「い、いえっ。いじめられてませんし、私はまだ全然力不足なので……」
「描かせてもらえんのやったら、あたしがお父様に……」
「いえっ。何事にも順番がありますのでっ。それに今は忙しいので、今度ゆっくり……」
「ホンマッ? ほな、今度うちでゆっくりお話ししてくださる?」
押しが強すぎるお綾さんに後ずさりしながら頷くと、お綾さんは満面の笑みを浮かべた。
が。
「こいつは無口やからな、わしも一緒にいったるで」
押しのけられてもめげずに春蝶さんが再度割って入って来ると、お綾さんはキッと睨みつけた。
「あんたは来んでよろしっ。ウメ様だけ、今度うちに来てな」
私に再び笑みかけて、頬を赤らめながらお綾さんが去って行くと、大きく息を吐いた。
なんだかすごく疲れた。
「協力してくれる言うたくせに」
ボソッと春蝶さんが低く呟いて、仕事に戻る。
そうは言われましても、私だってお風呂のことがなければもっと冷たくできるのに。
とはいえ、そんな事情は話せない。
とりあえず、お綾さんに貰ったお饅頭を皆にも分け、一息ついた。
そして、その日の夕方。
一度家に戻ってお梅の姿に着替えた私は藤織屋へ向かっていた。
お風呂を借りるためだ。
今日で実は三回目になる。
毎日通いたいくらいだったが、商売をしているので何かと忙しく、週に一回ということになった。
二回目に借りた時、通された部屋にはお綾さんではなく、女将さんがいた。
「無料で貸してもええんやけど、それやとお梅はんが遠慮してまうと思いましてん。こちらとしては気兼ねなく入って頂きたいさかい……」
そう切り出され、確かに毎回無料で入るのは厚かましいよね、と納得した。
「絵なら……肉筆画一枚でどうでしょうか?」
「どなたの筆で?」
「治兵衛……春好さんのお弟子さんのですが」
「なんて言わはるん?」
「梅吉です」
「聞いたことあらへんねぇ」
「最近お弟子さんになったので。まずは絵を見て頂けませんか?」
そんな訳で今日はその絵も持っている。
女将さんとのやり取りを玄斎さんと治兵衛さんにしたら。
「流石やな、あの女将さん。こっちから提案するよう仕向けるやなんて」
玄斎さんが唸る。
「よりによって肉筆画にするやなんて、こっちが大損や。どないな絵を持って行くつもりや?」
治兵衛さんが呆れる。
「藤織屋の藤、背景に月を描こうかと……」
「悪くはないが……平凡やな」
「あまり目立たん方がええやろ」
治兵衛さんが腕を組む横で玄斎さんがピシャリと言った。
藤はよく美術部で写生に行って描いていたので、筆の扱いも慣れて来たし、難なく描けた。
ただ、色をつける作業は治兵衛さんにも手伝ってもらった。
絵は既に昨日で描き上げていたのだけど、そこに小さく蝶を描き足した。
「なんで蝶なんや?」
「この蝶は……その、春蝶さんを表現しました」
「春蝶? なんで?」
治兵衛さんに問われ、私は昼間の春蝶さんとのやり取りを話した。
「あいつ……そないなこと考えとるんかいな」
治兵衛さんが渋い顔をする。
「私もお綾さんに女だとバレないか、梅吉とお梅が同一人物だとバレないかって冷や冷やするのも心臓に悪いので……春蝶さんに協力してお綾さんが私から離れてくれると助かるし……」
「確かになぁ。せやけど、なんでそうなったんや? ベタ惚れやったやん」
「それは……私にもわかりません」
壁ドンのせいだけど、それを自分の口から説明するのは恥ずかしすぎるので誤魔化した。
そんなこんなで、あと少しで藤織屋に着くというところで、前方から春蝶さんが歩いて来るのが見えた。
今はお梅だから素通りしよう。
とはいえ、用心して少し俯きながら歩いたのだが。
「お?」
春蝶さんが立ち止まる。
「もしや……梅吉はんか?」
声を掛けられた。
しかも『梅吉』って。
なんでっ?




