66.証文
筆を買った後、頭を冷やした治兵衛さんと私は帰路に着いたのだけど。
「な……なんで外へ出とるんやっ」
偶然、玄斎さんと往来でバッタリ鉢合わせしてしまった。
外は危険だと身を以って学習したのに。
外へ出るなと釘も刺されていたのに。
咄嗟に治兵衛さんが私を庇うように玄斎さんとの間に立ちはだかってくれたけれど。
「ちょっ……これには事情がっ」
「あれだけ言うて聞かせたんに、まだ分からへんのかっ」
玄斎さんの剣幕は酷く、まさに雷が落ちるとはこのことで。
道行く人々が何事かと集まりかけたのに気づいた玄斎さんは、こっち来い、と私の手を引いて人通りの少ない路地裏へと移動した。
「ところでなんで玄兄がこないなところにおるん?」
治兵衛さんの素朴な疑問は火に油だったようで、玄斎さんが鬼のような形相に変わる。
「そないなことは今はどうでもええっ。治兵衛っ、家までウメが描いた絵、なんでもええさかい取って来い。今から証文、取りに行くでっ」
玄斎さんの怒りにまるで弾かれたように、治兵衛さんは家の方へと走って行った。
残された私は玄斎さんの顔をまともに見ることができず、俯いて小さくなっていた。
自業自得すぎてグゥの音も出ない。
「俺がなんでこないに怒るか分かっとるんか?」
二人きりになって気まずい中、玄斎さんがそう言って詰め寄って来た。
思い返せば玄斎さんには怒られてばかりだ。
私が怒られて当然のことばかりしでかしているからなんだけれど。
だから何をどう答えても怒られる気がして、言葉も見つからず、顔も上げられず、ただ俯いていた。
そんな私に玄斎さんは深く溜息を吐いた。
呆れた?
嫌われた?
もう……面倒見切れないって、思った?
「……俺はそないに頼りないか?」
不意に掛けられた言葉に思わず顔を上げる。
そこには怒った顔じゃなくて、傷ついたような困った顔があった。
「これでもウメを守ろうとしてるんやけど……信じられへんか?」
真っ直ぐに見つめられて戸惑う。
頼りないとは思ってない。
信じてもいる。
ただ、私がダメなだけだ。
私がポンコツだから周りに迷惑をかけて困らせて怒らせてしまう。
「た、頼りないなんてそんなことっ……」
言いかけたところに「取って来たでっ」と息を切らせた治兵衛さんが駆け戻って来た。
治兵衛さんが差し出した紙を玄斎さんが受け取る。
二枚目を見た時、その表情が一変した。
そして、私と絵を見比べ、「ホンマにこれをウメが……?」と信じられないと驚いた表情で問われた。
「そうや。せやから、ウメの絵は凄いて言うたやろ?」
治兵衛さんが得意気に腕を組んだ。
玄斎さんが見たのはあの心臓の絵だった。
「これをどこで……いや、どうやって見たんや?」
「未来では寺子屋で人体について学ぶんです。本物を間近で見たことはありませんが、絵などで見る機会はたくさんあります」
「たくさんあるんか……っちゅうことは解剖が当たり前になっとるんか?」
「ま、まあ……そうですね。手術をするのに人体の構造を知っておく必要があるので、医者になるなら……」
「ほな、蘭学が主流になったんか」
蘭学。そうか、この時代はまだ漢方とか東洋の医術が中心で、蘭学とか外科とかまだ一般的じゃないもんね。
「そういや、ウメが初めに着とった衣も南蛮の物やったし。この国は南蛮に占領されるんか?」
「い、いえ。日本は一度も他の国の植民地とかになったことはないです。ただ南蛮の文化を受け入れたというか、伝統も重んじつつ、新しい文化や技術を受け入れて発展したというか……」
「今は御法度になることも未来の世では当たり前になるんやな」
玄斎さんは呟くように言って、私の絵をじっと見つめた。
「ほな、寺へ行くで」
「「い、今からっ?」」
促す玄斎さんに私と治兵衛さんが同時に驚く。
「いろいろ根回ししてからと思うとったんに。言うこと聞かずに勝手に出歩いとるせいやろがっ」
玄斎さんが再び怒り出したので、私達は大人しく従うことにし、足早に寺へ向かった。
着いたお寺は私が玄斎さんに着替えを届けに行ったお寺だった。
ってことは、流行り病の患者が集められている場所だ。
それから、ここには私が女だって知ってる医者、鷹山さんがいる。
寺の門前で一瞬、足が竦み、両手を握りしめた。
「今から緊張してどないすんねん」
足を止めた私の心中を誤解した治兵衛さんが、軽く背中を叩いて笑う。
「行くで」
促されたけど、躊躇う私の手を強引に治兵衛さんが掴んだ。
「大丈夫や。鷹山はおらん」
先を歩いていた玄斎さんが振り返り、私の様子から察して優しく声をかけてくれた。
「あいつ……? あっ、緊張しとるんやなかったんか」
玄斎さんの言葉で治兵衛さんも気づいたようで、「すまん」と謝ってくれたが、すぐに掴んでいた手に力が入り、「大丈夫やっ」と笑みかけてくれた。
いないと知ったのもあるけど、なんだか二人の笑みに助けられ、私は寺の中へ入った。
「ところで、もう手はええんやないか? 他の者に見られたらまた妙な噂になるで」
玄斎さんに言われ、治兵衛さんが慌てて振り払うように手を放した。
だけど、広い境内には人はほとんどいなくて、患者と思しき人の姿もなかった。
「あれ? ここに病の者を集めとったんやないんか?」
治兵衛さんが問う。
「流行り病やって騒いだ割に全然大したことあらへんかってん。施薬で落ち着いたさかい、ここは今日で解散することになったんや。他にもここみたいな場所はあるさかい、今後はそっちへ行って貰うことになりそうや。そんで片付けやなんやかんやで奔走しとったら、お前らに会うたっちゅう訳や」
「じゃあ、もう今日は家に戻れるんですね?」
「日が落ちるまでには戻るつもりや。せやけど、明日からはまた他の場所に詰めることになりそうや。それより、住職の姿が見えへんなぁ」
玄斎さんは広い境内を見回してから、本堂へ向かった。
「おや? 先生、まだこちらで診るんでっか? 片付け終わってもうたで」
そこに背後から声がし、振り返ると小太りの男性がいた。
袈裟を着ているけど頭は坊主ではなく、玄斎さんみたいに髪が全部あって髷を結っている。
「御坊様、急で大変失礼ではありますが、一つ頼みがあって参りました」
え? 御坊様?
「流行り病も早々に収めて頂いたんで、先生の頼みやったら断れませんなぁ。ま、立ち話もなんや。中へどうぞ」
そう言って御坊様が奥へ行こうとするのを玄斎さんが止めた。
「御坊様、庫裏やのうて……本堂でお話させてもろてもええですか?」
「本堂で? そりゃまた……」
「実は頼みと言うんが寺請証文を頂きたくて……折り入った話になるんで」
「証文、でっか? それはもしや……こちらのお方の?」
御坊様と目が合う。
「はい。治兵衛の弟子にと思うとるんですが……身元にちょっと」
玄斎さんが語尾を濁すと、御坊様が僅かに目を細めた。
「なんや、訳アリでっか?」
「まあ、その……藪をつつくより知らぬが仏と思うて頂ければ。その辺はお聞きにならない方がよろしいかと。頼むのに話せぬとは失礼やと承知しとりますが、そこをなんとか……頼みを聞いて頂けへんでしょうか」
低姿勢な玄斎さんに御坊様は両腕を組んで私を見た。
「ただの弟子に先生がそないにご執心なんは……噂通りなんかあるんかいな?」
噂って、まさか私達がBLだっていう噂?
御坊様の耳にまで入ってたの?
「妙な噂があるんは知っとりますが、ただの噂です。この男はこの通り、絵の才があるんで、伸ばしてやりたいと思うとるだけです」
そう言って玄斎さんは私の絵を御坊様に差し出した。
それを見た御坊様の目は真ん丸になって、私と絵を交互に見た。
「これ、ホンマにあんたが描いたんか?」
「は、はい。私が描きました」
「これは……どこで、いやどうやって見たんや?」
玄斎さんと全く同じ質問。
だけど、同じようには答えられない。
「ら、蘭学の書を見る機会がありまして」
「書物にこないな生々しい絵があったんか?」
「希少本の書写の手伝いをしたことがあって、そん時に」
玄斎さんが補足してくれた。
「梅吉は見た物を見た通りに描けるんです。本物そっくりに」
治兵衛さんの更なる補足に御坊様は私をじっと見つめた。
が、その眉間に皺が寄る。
「……そりゃ凄い思いますが、証文は寺の信用に関わりますからなぁ。幾ら先生の頼みと謂えど、危ない橋を渡るんは……」
渋り始めた御坊様に玄斎さんが「御坊様」と声を潜めて切り出した。
「私が往診しておりますあの件ですが……」
「……むっ。先生、わしを脅すおつもりかな?」
「滅相もない。医者が病を盾に脅すなど、天地神明に誓ってあり得ません。ただ……」
「ただ……?」
「今回、この梅吉の件で助けていただければ、こちらも通いやすうなると思うとるだけです。今後はもっと堂々と『特製の薬』をお持ちできるかと。お互い、悪い話やないと思うんですが?」
「そっ、そうやな。新しい檀家が増えるんは、仏の道としても歓迎すべきことやしな……」
涼しい表情の玄斎さんとは対照的に御坊様は汗を拭うように額に手を当てた。
「治兵衛さん。御坊様は何か持病がおありなんですか?」
慌ててるってことは隠したい病気ってことだよね?
人に知られたくない病気が何なのか、純粋に知りたくて小声で治兵衛さんに訊いてみた。
「えっ? あ、いや……その、男の、夜の遊びのツケっちゅうか……」
言い難そうに言葉を探す治兵衛さんの様子に、私は察した。
夜の遊びで罹る病と言えば……聖職者なら隠したい訳だ。
いや、聖職者でなくとも隠したいか。
「せ、せやけど証文はうちだけでは出せまへんよって……」
「分かっとります。役人の方はこちらで何とかしますよって、お願いできまへんか?」
「そこまで言わはるんやったらお出ししましょ。いろいろとありますよって、七日後にまた来て頂けまへんか?」
そんなこんなで証文が貰えることになった……のだけど。
これがどんなに危険な取引なのか、この時の私はまだ全くピンと来ていなかった。




