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花枝春色 - 鉛筆一本から始まる再起録  作者: 紬 蒼
其ノ参:青に魅せられて
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65.三十文

 しばし睨み合った後、治兵衛さんは春蝶さんの胸倉を掴んでいた手を離した。


「……誰にも言えへんことの一つや二つはあるもんやろ。全部曝け出さな信頼して一緒に絵も描かれへんっちゅうんやったら、もうええわ」

「春好はん、別にわしらはただ梅吉はんがどこの誰か聞いただけやんか。こないな絵を描ける理由が知りたいだけやのに。別になんもかんも全部話せ()うとる訳やあらへんで? それの何があかんのや?」

「どこの誰かは話したやろ。江戸から来た俺の遠縁やって。絵も好きで描いとっただけや。真似て描くんが上手いのは見たやろ? それ以上、何を話さなあかんのや?」

 治兵衛さんと春蝶さんの言い合いに「春好はん」と春陽さんが割って入る。

「遠縁やって言うても大事にしすぎやおまへんか? 特別扱いする理由が知りたいだけなんやが……」

「別に特別扱いはしてへん。ウメはまだ絵師として何も知らへんさかい……」

「ほなら、夕べの寝る順番は絵師として何を教えはったんや?」

 春陽さんの言葉に春蝶さんも「せやせやっ」と治兵衛さんを追い詰めていく。


 私が原因なのに。

 この場をどう収めたらいいのか、何を話したらいいのか、何も思い浮かばなかった。

 ただ口をギュッと(つぐ)んで見守るしかない自分が情けなくなる。


「もうええっ。そないなことしか言えへんのやったら、一緒に描かれへんわっ」

 治兵衛さんは声を荒げてそう言い放つと、家を飛び出して行ってしまった。

 私もその後を追いかけようとしたのだけど。

「梅吉はんまで逃がさへんでっ。春好はんとはどないな間柄や? なんで贔屓(ひいき)されとるんや?」

 春蝶さんが行く手に立ちはだかり、今度は私が詰め寄られる。


「そ、それよりっ。急いで絵を仕上げないといけないんじゃ……」

 話題を変えようと下絵を指さす。

「確かに」と春陽さんは下絵を見下ろした。

 が、春蝶さんは逆に両手を広げて少し腰を落とした。

「誤魔化されへんでっ」

「別に誤魔化す訳じゃ……絵を仕上げるためにうちに来られたんじゃないですか? だったら絵を描きましょうよ」

「ほなら、仕上げたら話す。そう約束できるか?」

「はい。約束しますから」

 とりあえず、その場を収めようと頷いてみせると、春蝶さんも漸く両手を下ろし、座って絵を描く態勢になる。


 よしっ。

 私はそっと半歩後退し、それから身を(ひるがえ)して草履を掴んで外へ飛び出した。


「あっ。やられたっ」

 春蝶さんが背後で叫ぶ声がしたが、振り返らず無我夢中で走った。

 大通りから横道に入り、裏通りへ逃げ込む。

 そこで足を止め、背後を確認する。

 誰も追って来ていない。

 安心したら足の裏の痛みにその場に(うずくま)る。

 裸足で土の上を走るなんて、子供の時でもしなかった。

 幸い大きな石とか異物を踏まずに済んだが、裸足で走った衝撃のせいかじんじんと痛んだ。

 足の裏の土を手で払い、草履を履く。

 それからゆっくりと歩いて再び大通りに出た。

 春蝶さんらが追って来ていないことを再度確認して、改めて町を見た。


 そういえば、江戸時代に来てから外を歩く時は治兵衛さんや玄斎さんとか誰かと一緒だった。

 一人の時はお風呂に入りにお綾さんの家に行くとか何か目的地があった。

 だから、ゆっくり見て回ったことはない。


 映画やドラマのセットじゃない、本物の江戸時代の町。

 道行く人々も本当にこの時代を今、生きている。

 そう思うと、とても不思議だった。


 いろんな店があって、物珍しさにしばし町歩きを楽しんだ。

 が、ふと我に返って、治兵衛さんを探さないと、と周囲を見回す。

 その前に自分が既に迷子になっていることにも気づいた。

 自分の無計画さに溜息が出る。


 しかし、しばらくうろうろしていると、店先の一つに見慣れた後ろ姿が。

 誰も彼もちょんまげで同じヘアスタイルに地味な着物姿で、見分けは付きにくいけど、その後ろ姿だけは分かった。

 近づいて確かめる。


「治兵衛さん」

 声を掛けて振り返った顔に安堵する。

「お、ウメ。お前も逃げて来たんか? うっかり置いて来てしもて……すまんかったな」

 驚いた顔はすぐに申し訳なさそうな表情に変わった。

 が、それもまたすぐに笑顔になる。

「今、ちょうどウメに筆を()うたろう思うて見てたんや」

 そう言って治兵衛さんは手にしていた筆を見せてくれた。

「やっぱり自分の筆は持っとった方がええさかいな。これとかどうや?」

 渡されて反射的に受け取ってみたけど、正直よく分からなかった。

 それより値札を探してしまう。

 けれど、どこにも見当たらない。

 高そうな、そうでもないような。

「手に馴染みそうにないか? ほなら、こっちはどうや?」

 治兵衛さんが別の筆を手に取る。

「……高そうですね」

「なんや? 銭の心配しとったんか?」

 治兵衛さんの呆れた声に店主が「この辺は三十文くらいです」と声を掛けてきた。

「こっちは二十文、こっからあっちは五十文からになっとります」


 お店の人の説明で値段は分かったけど。

 一文の価値が分からない。

 一文で一体何が買えるのか。

 早起きは三文の得って言うけど、実際それがどれだけの価値かは全く知らない。


「まずはこの辺の筆から試してみて、自分に合うんが見つかったらええのを()うたるさかいな」

 治兵衛さんはそう言って三十文クラスの筆を手に取った。

 私は無一文だ。

 だから今は治兵衛さんに買って貰うしかない。

 でもそれは本来使うはずじゃなかったお金な訳で。

 だからなんだかとても申し訳ない気持ちになる。


「三十文って筆以外だと何が買えますか?」

 とりあえずお金の価値を知りたい。

 そう思って訊いてみた。

「筆以外やと……蕎麦が二杯食えるやろか」

「天ぷら蕎麦やと一杯やね」

 治兵衛さんの答えに店主が口を挟んだ。

「訛りがないとこ見ると、江戸から来はったん? 三十文で江戸やと錦絵が二枚買えるやろけど、上方の錦絵は一枚買って少し釣りが来るくらいやね。絵を描きはるんやったらこっちで描いた方が銭になるで。せやから筆もええのを持ちはった方が……」

 店主の流れるような営業トークを治兵衛さんが「これでええです」と持っていた筆を突き出して遮った。


 蕎麦二杯。

 都会だと二千円くらい?

 いや、この時代ならもうちょっと安いのかな?


 治兵衛さんがお金を払うところを見て、初めて江戸時代のお金を見た。

 ドラマで見たことのある五円玉みたいなお金。

 それを見て私もお金を稼がねば、と思った。


 絵が描けるんだもん。

 私にだってお金が稼げるはず。


 ところで、小判って一枚幾らくらいなんだろう?


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