64.疑念
賑やかな朝だった。
春蝶さんと春陽さんは昨夜のいびきについて言い合っていた。
相変わらずコンプラ発言のオンパレードで、これがテレビだったらほとんどピーッが入って放送できないレベルだった。
それなのに仲良く見えるのが不思議だ。
だって、見事な連携プレーで瞬く間に布団が片付けられ、朝食の用意が整い、食べ終わったら片付けて絵を描く準備が整った。
だから、喧嘩しているのか単なる日常会話なのか……私には理解できなかった。
思えば江戸時代に来てから春蝶さんみたいな物言いをする人と接してなかった。
玄斎さんに何度も怒られたけど、口汚く罵られることもなかったし。
春蝶さんが特別なのか、玄斎さんが優しいのか。
ちなみに朝食はご飯と漬け物だけだった。
お米は春陽さんが持参していたようで、日が昇る前から炊いてくれたらしい。
炊飯器じゃなくて竈で炊くのだから、それなりに物音はしたはずだけど全然目が覚めなかった。
「それはそうと、梅吉はんは大坂来る前は何してはったん?」
不意に春蝶さんが問う。
「まだちゃんと紹介して貰てないな」
春陽さんも治兵衛さんを見やる。
私もどう答えて良いか迷って、つい治兵衛さんに視線を向けてしまった。
「江戸の田舎の遠い親戚やって話したやんか。田んぼや畑やっとたんや」
治兵衛さんが適当に答える。
「農家の手ぇやないで? それに言葉遣いもえらい上品やないか」
春蝶さんが疑うように目を細めた。
「口動かしとらんで手を動かせや。今日はウメに模様を教えたるって決めたやろ?」
治兵衛さんが誤魔化すように早口に言う。
「模様って……?」
私が問うと春蝶さんがガサゴソと荷物を漁って、少し気まずそうに紙を一枚差し出した。
「今回の下絵に使う模様や。名前と模様を描いとる。全部で八つ。わしが指示したらこれを見て衣に模様を入れてんか」
簡単な模様から複雑な模様まで、様々だったが、これなら分かりやすい。
「先日の一件は模様が発端やったらしいからな。そんで春蝶と話して決めたんや。役者絵のこと何も知らんウメでもこうしたったら描けるやろ?」
治兵衛さんがそう補足した。
「まずは模様や小道具、背景を覚えてから、やっと役者を描けるんや。幾ら絵が上手うてもいきなり役者は描かせへん。どや? がっかりしたか?」
春蝶さんが揶揄うも、私は首を横に振った。
「魂のある絵を描くにはちゃんと知ることが大事だって昨日学びましたから」
そう答えると、三人は満足そうに笑んだ。
「それにしても……なんや甘い物が食べたいなぁ」
春蝶さんが昨日の焼き芋を思い出したのか、唐突にそう言い出した。
「さっき朝飯を食べたばかりやんか」
春陽さんが呆れた声を出す。
「せやけど、梅吉はんも砂糖菓子、食べたいやろ?」
向けられた視線に不穏な空気を感じた。
口調は柔らかいが、責任を取れと言った時のように何かを企むような目。
「さ、砂糖は高価でしょう?」
確かお綾さん家で金平糖が高級品だと学んでいる。
あれ? 春蝶さんも私をどこぞの令嬢……いや子息だと思っている?
何かを探られている。
そんな気がして、次に何を振られるのかと身構えた。
けれど、春蝶さんはそれきり黙々と下絵を仕上げる作業に入ってしまった。
追及されないことにホッとする反面、その沈黙が酷く重たく感じられた。
そうして、張り詰めた空気にもようやく慣れ、目の前の模様に集中し始めた、その時だった。
「あ、そや。梅吉はん、これに象に乗った中村歌右衛門描いてみてや」
突然、明るい声で紙を渡され、私は深く考えもせずに「分かりました」と答えた。
象なら何度も動物園やテレビで見ている。
すると、治兵衛さんが「ウメッ」と立ち上がった。
「象はっ……仏像や彫像のゾウやないでっ。動物のゾウやでっ」
治兵衛さんの慌てた様子に私はそこで漸く気づく。
まだこの時代じゃ象は珍しいんだ。
象はインドやアフリカにしか棲息してないもんね。
どこの動物園にもいるからつい忘れてた。
「あ、動物のっ! 見たことないので描けないですねっ」
「実物を見たことのうても聞いたことくらいあるやろ。絵草子なんかで見たことあらへんか?」
「ないですっ。全く、一度もっ」
全力で否定すると春蝶さんは再度目を細めた。
ま、まだ疑っている。
「猿芝居はそろそろ終わりにせぇへんか?」
またヤクザみたいな目になってる。
「梅吉はん、あんた……」
春蝶さんがじっと見据えて来る。
思わずゴクリと生唾を飲み込む。
「春蝶っ、口より手を動かせやっ」
「春好はんは黙っといてんかっ」
治兵衛さんの恫喝に全く動じることなく、春蝶さんが怒鳴り返す。
「ええ加減、ウメに絡むんは止めぇやっ」
治兵衛さんが春蝶さんの胸倉を掴んだ。
「せやけど、春好はん。一緒に絵を描くんやったら、どこの誰かくらいは知っときたいんが人の性や。それにわしらの仲で隠し事されるんは……ちっと気分が悪ぃんやが?」
春陽さんに静かに、けれど鋭い視線を投げられ、治兵衛さんも言葉に詰まった。




