62.模写
「ほなっ、片付けて絵を描くでっ」
芋を食べ終えると、治兵衛さんが居間と治兵衛さんの部屋の間の襖を開け放ち、声を上げた。
春蝶さんと春陽さんは持って来た荷を解いて、筆などを用意し始めた。
「ウメは春蝶から筆と紙借りて絵を描いてみ。春蝶っ、下絵を一枚ウメに渡して真似させぇ。屑紙は変なの渡したらあかんでっ」
文机の上に屑紙と下絵、そして筆と硯が用意される。
私が何をしていいか右往左往している間に、あれよあれよとあっという間に絵を描く準備が整った。
「中村歌右衛門の藤原時平や。菅原伝授手習鑑っちゅう演目に登場する役や」
春蝶さんが見本とする下絵の説明を丁寧にしてくれた。
髷は結っていなくて、長い髪に顎髭のある男性が口をへの字に結んでいる、上半身が描かれている。
衣装は花のような模様があり、何て言う名前か分からないけど、平安時代の朝廷にいるような人が身に付けていそうな……帽子ではないけど何かを頭に被っている。
背景は無く、紙一杯に大きく描かれていた。
よし、と心の中で気合を入れ、筆を執る。
下書きなしでいきなり筆で描くのはまだ慣れないけれど、なるべく線が揺れないように見本をしっかり目に焼き付けて一気に線を引く。
一筆一筆を丁寧に、けれど途中で止まらないように。
パーツごとに区切って見本を見ては描く。
それを何度も繰り返した。
お手本通りに描くのは鉛筆でなくても得意だ。
絵筆とは違うけれど、心臓を描いて少し自信がついたし、扱いにも少し慣れた。
「細かいとこはこっちの筆を……」
そう言って春陽さんが別の筆を持って来てくれたけれど。
「要らへんようやな」
そう言って引っ込めた。
筆で描くのは鉛筆で描くのとは違った楽しさがあった。
鉛筆でも濃淡を出せるけれど、筆の方がより線の強弱や濃淡の幅は広い。
一度引いた線は消せないというデメリットも緊張感を保つのには良かった。
描き上げて筆を置く。
その小さな音に春蝶さんが耳聡く反応し、手を止めて私を振り返った。
「まるで摺ったように同じや……」
見本と私が描いた絵を見比べて目を丸くする。
その反応に治兵衛さんと春陽さんも近寄って覗き込んだ。
「しかもこれ、筆一本で描いとるんやで?」
春陽さんが治兵衛さんに説明すると、置いた筆に視線を落とし、再度絵に視線を戻した。
「これはな『車曳』っちゅう三段目で、公家悪の時平が牛車から姿を現す場面や。鋭い眼光で相手を蛇に睨まれた蛙の如く、射竦めてしまう役やさかい、目をどう描くかが一番大切なんや」
治兵衛さんがそう説明し、二枚の紙を掲げた。
「摺ったように同じに見えるが、目に力があるんはどっちやろか?」
問われて私達は二枚の絵をじっと見比べた。
「……こっちの方がちぃと力が強いように見えるな」
春蝶さんがそう言うと、春陽さんも頷いた。
私もそう思った。
それは春蝶さんが描いた見本の方だった。
「絵はな写すだけやと魂がない。これが何の絵で、誰なんか、それを知らずして描けへんもんなんや。せやから、ほんまは芝居を見に行くんが一番ええんやけど、今はそないな暇はないさかい。この絵について話した。もう一遍同じ絵を描いてみぃ」
治兵衛さんがそう言って私に絵を戻すと、春陽さんが屑紙を渡してくれた。
公家悪ということはこの中村歌右衛門が演じる藤原時平は悪党ってことよね?
しかも公家なら偉い人でもある訳だ。
そして、見本には上半身しかないから分からなかったけれど、牛車に乗って少し高い場所から誰かを、多分彼を成敗しようとする英雄、もしくはその仲間を睨んでいる。
それを想像して再度筆を執った。
最初は悪人だとは思わずに描いた。
歌舞伎についてはあまりよく知らないし、現代でも見に行ったこともないけれど、どんなものかはテレビなどで知っている。
ただこうして絵を描くなら敵の役ではなく、主役の絵だろうと勝手に思っていた。
改めて見本を見る。
確かに顔も視線も僅かに下を向いている。
それを正確に写し取りつつも、目力で相手の動きを封じるような目を意識した。
確かに歌舞伎は見得を切るシーンが有名だ。
この時平に限らず、歌舞伎において目は重要なんだ。
集中して描いていると、ふと手元が明るくなる。
治兵衛さんが行燈を部屋の中央に置いている。
顔を上げて周囲を見回すと、いつの間にか室内は薄暗くなっていた。
もう日が落ちるような時間なんだ。
静かな室内に紙が擦れる音、硯で墨を摺る音、筆を置く音……微かな物音が響いていた。
誰も一言も話さず、黙々と目の前の紙に向き合って筆を滑らせている。
芋を食べていた時は部室のような和やかさがあったけれど、今は職人の張り詰めた雰囲気に満ちていた。
「手を止めてしもうたな」
治兵衛さんが小声で謝る。
「いえ。灯り、ありがとうございます」
「その下絵もあの生々しい絵と一緒に玄兄に見せたろな」
治兵衛さんの言葉に私が頷くよりも早く、春蝶さんが「生々しいっ?」と反応した。
見せてくれ、と言わんばかりの勢いで春陽さんも私をじっと見つめた。
「ちっ、違うでっ。そないな絵やないでっ」
治兵衛さんが慌てる。
けれど、先程の件のせいで説得力は皆無で。
結局、私の心臓の絵を見せることになってしまった。




