60.渇望
「お腹……空いたな……」
集中して絵を描いている時は全く感じなかった空腹感が落ち着いたら急に襲って来た。
ふと手元を見ると、無意識に紙には描こうとしていた物とは全く別のおにぎりの絵を描いていた。
ふっくらとした米一粒一粒まで細かに描き上げている。
思わず生唾を飲み込む。
おにぎりに豚汁、漬け物があればいい。
そう思ったけど、頭の中にハンバーガーが思い浮かぶ。
焼肉、ラーメン、カレー……
デザートにジェラートとか、あ、チョコも食べたい……
とめどなく押し寄せる料理で頭がいっぱいになる。
どれも江戸時代では食べられない物ばかりだ。
「あー……食べたいっ」
こんな原始的な台所じゃなければ。
材料さえ手に入れば。
私だって作れるのに。
江戸時代じゃ料理ができないだけじゃない。
時間も重さや長さの単位もお金も違う。
文字も達筆すぎて読めないことが多い。
物の名前も分からない物がたくさんある。
同じ日本なのに。
平安時代や戦国時代ほどそんなに昔じゃないのに。
分からないことばっかりだ。
「いつまで江戸時代にいるんだろ? 帰れるのかな……?」
江戸時代に来て何日経ったのか。
もう一カ月は経ったような気分だけど、多分まだ一週間程度。
もしかしたら一週間も経ってないかも。
文化十四年が西暦何年で、今日が何月何日で、今は何時何分なのか。
それすらも分からない。
「帰りたい……かな?」
ふと会社を思い出す。
毎日死にたいと思ってた。
毎日失敗ばかりして、上司に怒られて。
あんな場所に帰りたいかな?
でも。
江戸時代にいたいかっていうと……
それも違う気がして。
治兵衛さんも玄斎さんもお松さんも……皆良い人ばかりだけど。
現代の便利さを知ってるから、トイレやお風呂やその他諸々、暮らして行くのが大変だし。
何より命の危険がある。
でも。
おにぎりを描いた紙に視線を落とす。
絵を描く楽しさを思い出したら、絵を描いて生活したいと思った。
その想いは大きくなっていくばかりで、思わず胸を抑える。
好きな絵を好きなだけ誰かのために描く。
ひったくり犯を捕まえた時の皆の顔。
玄斎さんを描いた絵を渡した時のお松さんの顔。
私が描いた絵で喜ぶ顔を見て、幸せな気持ちになった。
「絵は上手い下手やあらへん。見る者の心に何を残すかや。文字と一緒で何を伝えるか。それが大事や。せやから、何も伝わらん絵は上手いとは言われへん。ミミズが這ったような絵でも人を感動させられたら上手い絵や」
治兵衛さんが話してくれた、治兵衛さんの師匠の言葉。
あの言葉が胸に刺さった。
「絵で食べて行けたらいいな……」
畳の上に寝ころんで、天井を仰ぐ。
そこに玄関の戸を開けようとする音がした。
「あれっ? 開けへんっ。留守かいなっ?」
次いで戸を叩く音がした。
「梅吉はんっ」
えっ? 私っ?
だ、誰っ?
飛び起きて玄関へ駆け寄る。
「ど、どちら様……ですか?」
恐る恐る問い掛けると。
「春蝶や。春好はんも後から来はるよって、ここ開けてくれはりますか?」
春蝶さん?
確かに聞き覚えのある声だ。
「い、今開けますっ」
そう言ってつっかえ棒に手を掛ける。
けど、ふとその手を止める。
本当に春蝶さん?
春蝶さんがなんで一人で私を訪ねて来るの?
あっ、それに私の見た目……ちゃんと男に見えるかな?
今まで気づかれてなかったけど、これからもそうだとは限らない。
今は慎重にならないといけないのに、うっかり安易に行動するところだった。
「あ、あのっ。春蝶さん、私にどんな御用で?」
「……なんや? わしを疑うてますのん? 春陽はんも一緒や。春好はんが家で作業しよって言い出しましてん。今、道具持って向かっとるとこや。家には梅吉はんがおるって聞いて来たんや。せやから、ここ開けてくれまへんか?」
それなら……開けても……いい、かな?
少し躊躇いつつも、私はつっかえ棒を外して戸を開けた。
春蝶さんは戸が開くなり、「ちょっとすんまへんなっ」と言いつつ、ずかずかと家の中に入り込み、居間に両手に抱えていた荷を置いた。
「やっ。こりゃ、また見事な……握り飯の絵やなぁ」
私が描いた絵を見て動きが止まる。
後から入って来た春陽という人も春蝶さんの後ろから絵を覗き込み、「本物みたいや……」と固まっている。
「梅吉はんが描きはったんかいな?」
春蝶さんが振り返って問う。
先日の件のことはまるで忘れているのか、ひったくり犯の絵を描いた時と同じ穏やかな口調だった。
二重人格? と疑いたくなる態度に釈然としながら、「そ、そうですけど」と答える。
「前の木炭やったか? あれも紙に吸い込まれたような絵やったが、墨でもこないに描けるやなんて……わしらも本物らしゅう描いとるが、ここまで本物みたいな絵は見たことあらへん。自分で思いついたやなんて言わせへんで。一体誰に習うたんや? もしや……円山派の者か?」
「まるやま……? 円山応挙?」
名前は聞いたことあるけど、どんな絵を描いた人だっけ?
「せやっ。やっぱり円山派なんやな?」
「いえっ、違いますっ」
「最初からおかしいと思うててん。上方訛りがあらへんし、江戸から来たんやろ?」
それは間違ってないけど、江戸じゃなくて東京からだし。
「春蝶はん、これ、輪郭線があらへんで? 墨の濃淡で陰影をつけとるようや。円山派もそないな描き方やなかったか?」
春陽さんが私の絵を手に取ってしげしげと見つめている。
「輪郭があらへんのは水墨画で昔っからある技や。真新しいことやあらへんっ」
「ま、せやんな。役者絵ばっかり描いとったら線があるんが当たり前や思うとったわ。せやけど……わしが知っとる水墨画とは全然違う気がするんやが……?」
「せやから今、どこの門人なんか問い詰めとるんやないかっ」
なんだか漫才のような掛け合いに戸惑っていると。
「なんや、騒がしいな。何を揉めとるんや? ウメにまた妙なこと言うたらあかんって、さっき言うて聞かせたばっかりやろが」
夜逃げするのかと思う大荷物を背中に背負って、治兵衛さんが帰って来た。
そして。
「ウメ、ここで絵を描くで。春蝶も反省しとるし、ウメも絵を描きたい言うてたし、ここやったらウメも外に出ることなく絵が描けるやろ?」
治兵衛さんは背中の大荷物を下ろしながら、満面の笑顔でそう言った。
その言葉で空いていたお腹が少し満たされたように感じた。




