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花枝春色 - 鉛筆一本から始まる再起録  作者: 紬 蒼
其ノ弐:絵の世界へ
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59.墨絵

 朝の柔らかな光が射し込む室内。

 座卓に真っ白な紙が用意され、私は筆を執った。


 何を描こう?

 玄斎さんを納得させられる物がいい。

 最初はまた治兵衛さんを描こうと思った。

 でも人物じゃない方が良い気がした。

 透明感のある水や硝子が陰影を描くには最適だと思った。

 でも、それも何か違う気がした。

 そして、思いついた。


 私の黒歴史が役立つ日が来るなんて。

 中二の時、私にも中二病が訪れた。

 あの時、美術部で真剣に何枚も描いていたモチーフ。

 それは理科の教科書で見た……


 心臓。


 頭蓋骨とか内臓をいろいろ描いていたけど、一番多く描いていたのが心臓だ。

 医者である玄斎さんを驚かせるにはこれしかないと思った。


 数え切れないほど描いていたとはいえ、中学生の頃の記憶だ。

 高校生になった途端、漫画家を本格的に目指そうと思い始めたので、人体の内部から外側への興味にシフトチェンジした。

 だからブランクはある。

 細部の記憶は曖昧だ。

 でも、描くしかない。


 気合を入れて筆を走らせる。

 鉛筆で描くのとは違う。

 輪郭を描くのではなく、濃淡で魅せる。

 書道ではなく絵を描くのに墨と筆を使うのは初めてだ。

 絵筆には馴染みがあるが、同じ筆とはいえ形状が異なる。

 太さの異なる筆を使い分け、必死に思い出しながら心臓を描く。

 記憶は曖昧だったけれど、描き始めてみると手が覚えているようで、徐々に細部を思い出す。


「な、なんや? 一体何を……描いとるんや?」

 治兵衛さんは傍らで見守りながら、紙の上に浮かび上がっていく物を気味悪がった。

 そういえば、江戸時代の人はまだ内臓って見たことないよね?

 あれ? じゃあ、玄斎さんも心臓(これ)が何か分からなかったりして……?


 不安になりながら描き上げて筆を置くと、治兵衛さんは近づいてまじまじと見つめた。

「これは生々しいが……一体何を描いたんや?」

 細かな血管も描き込んだのはちょっとやりすぎたかも……

 そう思いつつも心臓であることを伝えると、治兵衛さんは私から一歩退いた。

「な、なんで描けるんや? ウメは見た(もん)しか描けへんのやったな。せやったら……どこかで生の心の臓を拝んだことあるっちゅうことやんな? 一体どこでこないな(もん)見たんや?」

 治兵衛さんが完全に引いている。

「未来では誰でも見れるんです。医者を目指す人は本物を間近に見る機会はありますが、そうでなくても授業で……寺子屋で人体の仕組みを絵や模型を使って習うので」

「寺子屋でっ? こないなことも習うんかっ?」

 治兵衛さんは驚いた表情のまま、紙を見つめて固まった。

 やっぱり心臓を描いたのは失敗だったかな?

 せめて頭蓋骨にすれば良かった。


 鉛筆で描くより写真っぽくはなかったけれど、それでも治兵衛さんがこれだけ驚くほど生々しくリアルに描けたのは自分でも正直頑張ったと思う。

 絵筆ではないけれど、久し振りに筆を握って途中から楽しくなっていた。


「気味が悪い絵やが……陰影といい細かさといい。なんや今にも鼓動が聞こえて来そうな……なんとも言えへん生々しい美しさがあるな。筆でここまで本物みたいな絵が描けるやなんて……」

 一歩引いていた治兵衛さんが少し身を乗り出し、腕を組んだ状態で唸った。

 絵師の目に戻っている。

 しかし、次の瞬間。

「玄兄の反応が楽しみやな」

 いたずらを思いついた子供のような笑みに変わった。


「ほなら、俺はちっと作業場と版元に顔出して来るわ。日が暮れる前には戻るつもりやから、戸締りして誰も入れへんようにな。何かあったら……お松んとこ行き」

 えっ? 出掛けちゃうの?

「お松さんの家って……?」

「うちから一番近い八百屋や。うちと同じ筋にあるさかい、すぐに分かるやろ」

 すごく近かったんだ。

 それが分かっただけで、なんだか安心した。


 治兵衛さんを見送って、一人残された私は。


 暇だった。


 何をしていいか分からない。

 そう言えば朝食も食べてないし、そろそろお昼になるはずだ。

 治兵衛さん、ご飯のこと何も言わなかったな。

 絵を描くのに集中してたし、鐘は鳴るけど何しろ時計がないので時間の感覚があまりない。


 そして、ご飯も一人じゃ食べれない。


 何しろ火を起こすこともできないのだから、家事の大半ができない。

 無力な小さな子供になった気分というより、とてつもなく無能な人になった気分だ。


 でも、パンツを履いている。


 その安心感を取り戻した私は顔を上げ、気合を入れた。

 家を出るなと言われたし、これ以上周囲に女だとバレて二人を危険に晒す訳にはいかない。

 だから、両手を合わせて祈った。


「お松さんっ……!」


 監視カメラを見ているが如く、タイミングよく現れてくれないかと必死に祈ってみる。

 が、祈りとはこういう時に限って通じないもので。


 しばらく玄関に向かって両手を合わせていたけれど、諦めて再び筆を執った。


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