55.戌の刻
良くなったと、快方に向かっているとばかり思って油断していた。
絵を描いたり、昔のことを長々と語ってくれたりして、無理をしたせいだ。
たった一晩寝ただけで回復するなんて、やっぱり有り得なかった。
「ウメ……? あ、これはちょっと転んでもうて……」
駆け寄ると、治兵衛さんがそう笑って起き上がろうとするも、力が入らないようで上手く立ち上がれずよろける。
慌てて体を支えると、熱っぽかった。
表情も辛そうで、熱が高いのが分かる。
「まだ寝てないとダメですよっ」
「せやな……こんなとこ玄兄に見られたら殺されるな」
力なく笑んで、治兵衛さんは大人しく布団に横になった。
「お水持って来ますね。他に何か欲しい物はありますか?」
「いや。水だけありゃ、それでええ。飯もいらへんよって、悪いが一人で食べてんか?」
「一口だけでも食べられませんか?」
「水だけで構へん」
そう言いながらも治兵衛さんの視線は部屋に散らばる紙に注がれている。
人手が足りない上、締め切りもあるから気になって焦っているのだろう。
今朝の一件を思い出して、申し訳ない気持ちが蘇る。
私にできるのは治兵衛さんの風邪を少しでも早く治すことだ。
裏庭の井戸から水を汲みながら、ふと玄斎さんが用意してくれた薬は既にないことを思い出した。
材料はあるけど、私にはそれを煎じたりすることはできない。
さっきお寺に行った時に訊いておけば良かった。
あの時、玄斎さんに直接荷物を渡せていたら訊けたかもしれないのに。
それに、あの人にも会うことなく、こんなことにもならなくて済んだかもしれないのに。
あの気味の悪い男の笑みを思い出して、僅かに手が震えた。
戌の刻。
現代で言うと十九時から二十一時頃。
今日はお昼が少し遅くて、玄斎さんのところに行ったから……今は多分、十五時か十六時頃だと思う。
あと四時間程度したら……
どうしよう。
行くって言ってしまったけれど、行きたくない。
治兵衛さんに話してみる?
いやいや。
病気で辛い思いをしている人に話すようなことじゃない。
余計な心配をかけるだけだ。
じゃあ、玄斎さんに話しに行く?
駄目よ。
治療で忙しくしているところに、邪魔をしに行くなんて。
今はそれどころじゃない。
それなら……お松さん?
同じ女性として相談できるかもしれないけど、「だから男らしくしとけって言ったやろ」って怒られそう。
それに、幾らお松さんでも解決できるとは思えない。
そうよ。
誰にも解決できることじゃない。
自分の迂闊さが招いたことだ。
なら、自分で解決するしかない。
それに、自分でできることを増やそうって決めたばかりだ。
私は無意識に俯いていた顔を上げ、水を汲んで戻る。
治兵衛さんに水を飲ませたり、額に濡らした手拭いを置いたり。
忙しなく看病をしていると、あっという間に辺りは真っ暗になった。
「灯り……どうしよう?」
一人で灯りも点けられない。
今、何時だろう?
まだ十七時か十八時くらいだろうか。
眠っている治兵衛さんを見下ろす。
昨夜は呼吸も荒く、本当に辛そうだったけれど、今は少し熱っぽいだけで呼吸は落ち着いている。
そこに鐘の音が響いて、治兵衛さんが目を覚ました。
「もう六つ時かいな」
鐘の音を数えていたようで、治兵衛さんはそう呟いて半身を起こした。
「気分はどうですか? お水とか何か……食べれそうですか?」
私が問うと、治兵衛さんは室内を見回してから布団を出て立ち上がった。
「まだ寝ててください。要る物があれば私が取って来ますからっ」
「いっぱい寝させて貰うたさかい、もう大丈夫や。それに火は点けられへんやろ?」
その言葉に私は「すみません」と謝る。
「謝らんでええ。それに火は慎重に扱わな、火事したらえらいことになるさかいな」
治兵衛さんはそう言って部屋の隅にあった行燈に灯を点けてくれた。
「今日はお皿の灯りじゃないんですね」
「お皿の灯り? ああ、油皿のことかいな? あれは行燈の中に入っとる物なんやが、場所取るさかい、ちょっと使うだけやったら剥き出しで使うことも多いな。ええ油使うたら臭いももちっとマシなんやが……」
確かにあまり良い匂いとは言えなかった。
魚っぽい生臭さというか独特な臭いがする。
「ところで、さっき六つ時って言ってましたけど、戌の刻ってあとどれくらいですか?」
「六つ時は酉の刻の半時やから、もう半時したら戌の刻やな。次に鐘が鳴るんは戌の時の半時、五つ時や」
「じゃあ、戌の刻に待ち合わせをしたら……治兵衛さんだったらいつ行きますか?」
「上がりは分からへんから、近くやったら五つ時の鐘聞いて行くか、ちょっと離れとったら六つ時が鳴って仕度して出掛けるかやな。なんや? 玄兄に戌の刻に届け物でも頼まれたんか?」
「上がりって?」
「戌の刻の始まり……上刻のことやな」
「……分かりました。ちょっと出掛けたいんですけど、体の方は……?」
「俺の心配はいらへんが……こないな刻限に女子一人で外出るんは危ないで。玄兄の頼み事やったら、誰か他の者頼んで……」
「大丈夫です。すぐ近くなんで。ちょっと行ってすぐ戻って来ますので」
そう言って立ち上がろうとした私の腕を治兵衛さんが掴む。
「あの……?」
「声、震えとるで? 手も」
真っ直ぐに見据えられ、反射的に視線を逸らす。
「……さっき重い物持ったから。この部屋、ちょっと寒いですし」
滑り出た嘘に掴んでいた手の力が緩んだ。
「そうか。ほな、俺も一緒に……」
「だ、大丈夫です。本当にすぐそこなんでっ」
行って来ますっ、と治兵衛さんの手を振り解いて家を飛び出した。
外は既に日が落ちていたけど、通りにはまだ人がいて、提灯を持った人の灯りや通りの家から漏れる灯りで真っ暗ではなかった。
少し走ったところで振り返る。
良かった、治兵衛さん、追って来てない。
そう安心して呼吸を整え、前を向いたところで「ウメ?」と声を掛けられた。
そこには玄斎さんが木箱と提灯を手に立っていた。




