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花枝春色 - 鉛筆一本から始まる再起録  作者: 紬 蒼
其ノ弐:絵の世界へ
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53.決意

 玄関に駆けて行くと、お松さんが風呂敷包みを手に立っていた。


「遅うなって悪かったねぇ。用事は終わったんやな?」

「はい。今からちょうどお昼ご飯にしようかと思ってたところです」

「あら。せやったんか。ほな、お台所借りてええ?」

 どうぞどうぞ、と奥へ通す。

 作業台に風呂敷包みを置き、手慣れた様子で(かまど)に火を点ける。

 何処に何があるかも知っているようで、とても手際が良かった。

 そして、手を動かしながらもお松さんは喋り続けた。


「治兵衛さんの具合はどうね?」

「起きて話せるくらいにはなったので、一安心したところです」

「そうね。ほな、粥やない方が良かったかねぇ? うちの人もちょっと具合悪いさかい、お粥を大量に作ったんや」

「とても助かります。私は何も……作れなくて……」

「せやろなぁ、思うていろいろ用意して来たで。今朝の煮物もまだ食べてないやん。それも温めな直さな」

 お松さんは多分私とそう歳も変わらないと思うけど、とてもしっかりしていてずっと年上の貫禄がある。

 それに世話焼きと言ってしまえばそれまでだが、いろんなことに気づいて助けてくれる。

 まるで監視カメラで見てるみたいにタイミング良く登場するのは、きっと私のことを考えて予測して動ける人だからなのかもしれない。


「それはそうと。お風呂入りに行った時の話してや。お綾はどうやった? 何かされへんかった?」

 お松さんに訊かれて思い出す。

 お風呂に行ったのは昨日なのに、なんだか随分前のような気がする。

「お綾さんは……いろいろ珍しい物を見せてくださいました」

「やっぱり自慢されたんやな。どうせまた派手なお着物を着てたんやろ? あの子、家の中じゃ晴れ着みたいな物ばっかり着てるんやで。外じゃ着れへんから、家に人呼んで自慢するんや。呉服屋の娘やさかい、仕方あらへんけど」

「なぜ外では着られないんですか?」

「なぜって……御法度やからや。江戸の方が厳しいんと(ちゃ)う?」

 法律で禁じられてるってこと?

 もしかしてそのせいで町行く人達の着物の色が地味なの?

「もしや……江戸はもう何でも着て良くなったんかいな?」

 首を傾げる私にお松さんが不思議そうに訊いた。

 訊かれても私は分からない。

 答えに困っていると、「あ、なんも覚えてへんのやった」とお松さんがしまった、と顔を歪めた。


「昔からお触れが度々出されとってな、茶とか鼠みたいな色の木綿なんかのお着物しか着たらあかんって決まっとるんや。せやけど、裏に刺繍入れたり、見えへんところに贅沢して粋なことしとる(もん)もおるけどねぇ」

「もし見つかったらどうなるんですか?」

 時代劇だと酷い拷問を受けるイメージが強いけど。

「ま、注意される程度やない? 明らかに悪質やとそりゃ罰金とかなんかあるかもしれへんけど。それに役者とか遊女は黙認されとるし。せやけどお綾の藤織屋(ふじおりや)は店やさかい、見つかったら割と酷い目に遭うと思うで。せやから、あそこの旦那はお綾を店に出せへんし、頭痛い思いしとるらしいで」

 注意って意外と軽い。

 それに職業にもよるのか。

 そんなお触れがあるなんて知らなかった。

 服装も自由じゃなかったんだ。


「そういえば、先生は? まだ帰らへんの?」

「はい。昨夜からずっとお寺に行ったきりで……」

「ほな、着替えとか持って行ってあげたほうがええんと(ちゃ)う? 炊き出しとかあるんやろか?」

 あ。そうだ。

 治兵衛さんの看病のこととご飯のことしか頭になかった。

 玄斎さんのこと、何も考えてなかった。


「ご飯食べてから行ってみたら? 何処のお寺か分かれへんけど、薬問屋に訊いてみたら分かるやろ。この裏の筋に小さいのが一軒あるさかい」

 お松さんは喋りながらも手を止めることなく、いつの間にかご飯の仕度が整っていた。

 煮物の香りに思わずお腹が鳴り、唾を飲み込む。

「ほな、あたしはこれで」

 竈の火を消して去ろうとするお松さんに「ありがとうございます」と頭を下げる。

 お松さんにはいつも助けて貰ってばかりだ。

「先生には世話になっとるし、お互い様や。せやけど、どうしても礼がしたいんやったら……例の物、またくれてもええんやで?」

 例の物、というと……()()か。

 玄斎さんのイラスト。

 でも、鉛筆はそろそろ大事にしたい。

 そうなると、筆になるのか。

 墨だと写真のようには見えないけど、近い物は描けると思う。

「次は墨で描いたものでも良いですか?」

「ええで。せやけど、次は寝顔にしてな」

 そう言ってお松さんはニヤリと笑んで去って行った。


 寝顔か……

 前回のリベンジ、できるかな?

 これはちょっと作戦を考えないと。


「治兵衛さん、お待たせしま……」

 膳を手に居間に戻ると、治兵衛さんはまた絵の続きを描いていた。

 その表情はとても真剣で、凄く集中していて。


「お? もうできたんか?」

 ふと顔を上げて笑んだ治兵衛さんの声で、一瞬見惚(みと)れてしまった自分に気づく。

「は、はい。それは……誰を描いてるんですか?」

「これは中村(なかむら)歌右衛門(うたえもん)や。江戸の座にも出とるし、坂東(ばんどう)三津五郎(みつごろう)と競ってからは人気は鰻登りや」

 膳を置く場所を作るように、治兵衛さんは道具を部屋の隅に寄せながらそう説明してくれた。

 よく分からないけど、トップスターってことは分かった。

 そんな人を描いてるってことは治兵衛さんも結構有名な絵師なんじゃ……?

 でも、確か画号は春好って言ってたけど、そんな名前の有名な絵師っていたっけ?

 そういえば、葛飾北斎もいろんな画号を持ってたし、春好以外にも画号があったりするのかな?

「治兵衛さんって絵を描く時の名前って……?」

「春好やけど? 言ってへんかったっけ?」

「あ、いえ。他の画号ってあったりしますか?」

「師匠が亡くなりはってからは春好斎(しゅんこうさい)の名で描くこともあるが……なんや? 自分の画号が欲しいんか?」

「い、いえ。そういうんじゃ……」

 なんだ、やっぱり私の知らない人かぁ。


「画号は一人前にならへんとつけられへんさかい。それにまずは浮世絵の描き方と工程を覚えてからやな」


 治兵衛さんは煮物を頬張りながらニッと笑んだ。


 一人前、か。

 浮世絵師になりたい訳じゃないし、あの作業場で働くのはまだ考えられないけど……

 でも、どうせ働かなきゃならないなら、やっぱり絵を描きたい。

 それに何をするのもここじゃ誰かに助けて貰わないとできないことばかりだ。

 まずは一人でできることを増やさないと。

 そう決意して、私も煮物を頬張った。


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